第4話

 父が当主になる前は、ノーリ子爵家も、裕福ではないながらもそれなりに貴族らしい暮らしをしていたと聞く。

 もし父が、もう少しまともな人間であったなら、こんな姿で普通の暮らしをしていたかもしれない。

 思わずそんなことを考えてしまい、アリアは鏡に映る自分の姿から目を逸らした。

 訪れることのなかった未来に思いを馳せても、何もならない。かえって今の自分が惨めになるだけだ。

 アリアは鏡を見ないようにして、ケイトに尋ねる。

「あの、私の仕事内容について、まだ詳しく聞いていないのですが」

「はい。それにつきましては、後ほど執事の方から説明があると思います。それまで、どうぞ部屋でお寛ぎください」

 彼女はそう言うと、アリアに朝食を持ってきてくれた。給仕をするかどうか聞かれて、アリアは丁重に断って、ひとりで朝食を食べることにした。

(……美味しい)

 朝なので品数はそう多くはないが、素材はすべて最高級である。食後に出されたお茶も、今まで飲んだことのないような上等の茶葉だ。

 思わず溜息が漏れてしまう。

 綺麗なドレスを着て、美味しい朝食まで用意してもらった。今までの暮らしからは、考えられないくらい贅沢なことだ。

 残してきた家族は、今頃どんな暮らしをしているのだろう。

 そう考えると、父親の借金の代わりに売られてきたはずなのにと、こんな待遇に罪悪感を覚えてしまっている。

 朝食が終わると、まるで見ていたかのようなタイミングでケイトが訪れて、食器を片付けてくれた。

 再び部屋にひとりになったアリアは、落ち着かない様子で部屋の中を見渡していた。

 綺麗なドレスに、美味しい食事。

 さらに、専用のメイド。

 あまりにも予想外の扱いに、戸惑っていた。

 こんなに何もしない時間は、本当に久しぶりだ。

 これならまだ、普通のメイドとして他の仕事も与えてもらった方が落ち着けたのかもしれない。

 落ち着かない様子で部屋の中を歩き回ったり、少ない荷物を何度も整理したりして、時間を潰していた。

 昨日の老執事がアリアの元を訪れたのは、それからしばらく経過したあとだ。

 この古城の主である公爵家の当主に挨拶に行くと告げられて、アリアは緊張しながらも頷く。

 これからは、その人がアリアの主となる。

 広いが殺風景な廊下を、執事の後について歩いて行く。

 古びた城も、朝の光に照らされると、それほど恐ろしさは感じない。廊下に飾ってある絵も素晴らしく、美術館を訪れているような気分になる。

 やがて老執事は城の奥深くにある部屋の前で立ち止まり、ここからはアリアひとりで行くようにと促した。

 戸惑いながらも頷き、そっと扉を叩く。

「入れ」

 部屋の中から、答える声がする。

 その声が予想よりも若いことに驚きながら、アリアは重厚な扉を開いて、ひとりで部屋の中に入った。

 広い部屋である。

 書斎のようで、壁には本棚がずらりと並んでいて、本や書類が詰め込まれていた。

 中央には大きな机があり、そこにひとりの男性がいた。

「!」

 部屋の主を見た瞬間、アリアは思わず声を上げてしまいそうになった。

 そこには、昨日庭園で会った青年の姿があった。

「どうして……」

 病身の公爵の世話と聞いていたので、かなり高齢の男性だと思い込んでいた。

「私が、キャステニラ公爵のレナトだ。君はたしかアリアだったか」

 彼はそう言って、アリアを見つめた。

 どうやら間違いなく彼が、この古城の主であるレナト・キャステニラ公爵のようだ。

 後ほど老執事に聞いた話によると、両親の病死によって若くして爵位を継いだレナトだったが、彼もまた病身で、この古城で静養しているらしい。

 夜の庭園で出会い、恐ろしくなって逃げ出したあの青年が、まさかこれから自分の主になる人だとは思わなかった。

(どうしよう……)

 彼を見ていると、あの甘美な誘惑を思い出す。

 何もかも捨てて、あの薔薇の下に眠ることができれば、どんなに幸せだろう。

 でも、今さら逃げることなどできない。

 アリアは覚悟を決めて、視線を上げた。

「昨夜のうちに逃げ出すと思っていたのに、そうしなかったのか」

 そんなアリアに、レナトはそう声を掛けた。

 静かな声だが、僅かに失望の響きがある。

 でもアリアは、そんな彼を見てかえって安心していた。

 夜の古城に、咲き乱れる真紅の薔薇。

 条件が整いすぎて、彼が魔物のようにしか見えなかった。でもこうして見ると、目を奪われるほどの美形ではあるが、普通の青年のようだった。

「アリアと申します。精一杯勤めさせていただきますので、どうぞよろしくお願いします」

 そんなレナトに、アリアは普通の使用人のように挨拶をする。

 綺麗なドレスに豪華な食事で忘れかけていたが、アリアは父の借金を返すために、ここに来ている。逃げることなどあり得ないし、精一杯働くつもりだった。

「……アリア。本当に、ここで暮らすつもりか?」

 そう尋ねられて、当然だと深く頷く。

「はい。何でもしますので、仕事があればお申し付けください」

 そう答えると、レナトは驚いたような顔をして、黙り込んでしまった。

 沈黙が続く。

「あの……」

 どうしたらいいのかわからず声を掛けると、彼は机の上にある呼び鈴を鳴らした。

 すると部屋の外に待機していた老執事が入ってきて、恭しく一礼をする。

「レナト様、お呼びでしょうか」

「アリアに城の中を案内してくれ」

「かしこまりました」

 老執事に促されて、アリアもレナトの部屋から退出する。

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