第3話

 抱き合うふたりに降り続ける雨は、次第に強くなっていく。

 婚約者はいたが、男性に抱きしめられるなんて初めてだ。

 それなのに羞恥も嫌悪も感じなかったのは、この古城に来てからの出来事すべてが、幻のように感じられるせいかもしれない。

(きっとこれは夢だわ)

 アリアは目を閉じる。

 冷たい手が、ゆっくりと首に巻き付いた。

 夜の闇に、赤い薔薇。

 止むことなく降り続く雨。

 そして魔物のように美しい男性。

 すべて、現実味がなかった。

「アリア」

 彼がそう呼んだ瞬間、暗い空を引き裂くように光が走り、雷鳴が轟いた。

「……っ」

 その音で、アリアは我に返った。

 急に恐ろしくなり、彼の手から逃れて走り出した。

 そのまま宛がわれた部屋に戻り、崩れ落ちるようにしてその場に座り込む。

(怖い……)

 震える両手を握りしめて、目を閉じた。

 アリアが怖いのは、あの魔物のように美しい男性でも、不気味なこの古城でもなかった。

 今までどんなことがあっても、アリアは諦めたことはなかった。

 必死に働いたお金を父にすべて持ち去られても、母の薬代を支払えなくて、医者に必死に頭を下げたときも、頑張れば何とかなる。諦めなければきっと道は開けると信じて、懸命に頑張ってきた。

 けれど、あの薔薇の庭園で会った青年に、死を予感させるような言葉を言われたとき、心が動いてしまった。

 どうせ、アリアはあの父の娘だ。

 婚約も解消されてしまった今、これからまともな結婚などできるはずがない。

 もしこの公爵家での仕事が終わって屋敷に帰ったとしても、娘を渡せば借金が帳消しになると知った父は、また同じことを繰り返すかもしれない。

 いつか本当に借金の返済のために娼館などに売り飛ばされてしまうくらいなら、この美しい魔物に殺されてしまったほうがいい。

 そんなことを、考えてしまったのだ。

 頼りにならないどころか、いない方が良かった父の代わりに、家族を守らなくてはならない。

 母と妹、弟を守れるのは自分しかいないと、つらい仕事でも懸命に頑張ってきた。

 それなのに、すべてを捨ててしまいたいと願ってしまった。

 終わりにしたいと思ってしまった。

 そんな自分が、とても恐ろしい。

(私が父の負債を返済せずに死んでしまったら、今度はまだ幼い妹が売られてしまうかもしれない。そんなことをさせるわけにはいかない。絶対に……)

 自分自身に、何度もそう言い聞かせる。

 そのまま動けずに座り込んでいたアリアだったが、雨に降られて濡れた体が、寒くてたまらなかった。

 このままでは風邪を引いてしまう。

 仕事をするために来たのだから、病気で寝込んでしまうわけにはいかない。

 そう思ってゆっくりと起き上がり、着替えをして備え付けのベッドに潜り込んだ。

 眠って、すべてを忘れてしまいたかった。


 そうして、迎えた朝。

 公爵家の持ち物だというこの古城は、古びた外見に反して、部屋の中は居心地良く整えられていた。

 ベッドもとても寝心地が良く、あんなことがあったというのに、ぐっすりと眠ってしまったようだ。

 今まで色々なことがあって、少し疲れていたのかもしれない。

 雨は止み、窓から見上げた空は青く晴れ渡っていた。

 初夏にふさわしいさわやかな天気に、憂鬱だったアリアの心も回復していた。

 昨日出会ったのは、この古城に住み着く魔物だったのかもしれない。

 それくらい、死の誘惑は甘美なものだった。

 あの魔性のような美貌を忘れようと、首を横に振る。

(昨日のことは、もう忘れないと。私はここに、働きに来たのだから)

 そう思って意識を切り替え、ベッドから抜け出す。

 どんな仕事なのか、まだ詳細は聞いていないけれど、きっとあの老執事が説明してくれるはずだ。

 起きて、身支度を整えなければ。

 そう思ったところで、部屋の扉が叩かれた。

「はい」

 咄嗟に返事をしてしまい、まだ着替えもしていないことに気が付いて慌てる。けれど、制止する前に扉が開かれた。

「おはようございます、アリア様」

 そう言って一礼したのは、アリアの母くらいの年齢のメイドだった。

「お、おはようございます」

 仕事を教えに来てくれた人かもしれない。

 そう思ってアリアは、背筋を伸ばしてそう挨拶を返した。

 その直後に、まだ着替えをしていないことを思い出して、身を縮める。

「すみません、身支度を整えますので、少し待っていただけますか?」

「いえ、私がお手伝いをさせていただきますので」

「……え?」

 アリアは、予想外の言葉に思わず動きを止める。

「これからアリア様のお世話をさせていただきます、ケイトと申します」

「……私の?」

「はい、そうです」

 ケイトはにこやかに頷いた。

 どうやら雇い主は、アリアのことを使用人ではなく、貴族として扱うつもりのようだ。普通の使用人として働くつもりだったアリアは戸惑ったが、ケイトはそんなアリアの様子などまったく気にせずに、自分の仕事を全うしようとする。

「まずは身支度のお手伝いをさせていただきます」

「え、あの……」

 メイドとして働くつもりだったので、手伝いが必要なドレスなど持ってきていない。そもそもドレスなど、とっくに売り払ってしまっている。

 平民のような簡素なワンピースを着せてもらうなど、かえって恥ずかしい。

 ひとりで大丈夫だと言おうとしたが、ケイトは一度退出し、部屋の外に置いてあった荷物を持って戻ってきた。

「こちらのドレスに着替えていただきます」

 彼女が持ってきたのは、たくさんのドレスだった。

 誰が用意してくれたのかわからないが、アリアがドレスなど持っていないことは、承知していたらしい。

 この古城に来た経緯を考えれば当然かもしれないが、アリアは恥ずかしくなって俯いた。

「では、お手伝いをさせていただきますね」

 ケイトは優しくそう言って、アリアにドレスを着せてくれた。

 部屋着なので、夜会用ほど派手ではないが、それでもアリアが一度も手にしたことのないような上等な品だ。

 促されて鏡を見ると、自分でも別人かと思うような、貴族令嬢の姿が写っていた。

(あ……)

 美しいドレスに、思わず見惚れてしまう。

 普通の令嬢ならば、自分で働くこともなく、いつもこんな綺麗なドレスを着て、メイド達に当然のように世話をされているのだろう。

 王都に行き、貴族学園に入って、そんな令嬢ばかり見ていたマージが、みすぼらしいアリアとノーリ子爵家が嫌になるのも当然かもしれない。

 忘れようとしていた心の傷が、ずきりと痛んだ気がして、片手で胸を押さえた。

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