第2話

(雨、止みそうにないわね)

 アリアは、自らの運命を暗示しているかのような、灰色の空を見上げる。

 今年はとくに雨が多く、もう夏が近づいているというのに、灰色の雲に覆われた日が続いていた。

 肌に染み込むような湿気は、健康な人間でさえ憂鬱な気分にさせる。

 この日の雨は、特に冷たく身にしみた。

(寒い……)

 上着を持ってくればよかったと思いながら、アリアは自らの身体を抱き締めた。

 荷物はほとんどない。

 丈の長いワンピースに、荷物は大きな鞄がひとつ。

 そんな装いのアリアの目の前にそびえたっているのは、歴史を感じさせる堂々とした佇まいの古城だ。

 手入れは行き届いているらしく、荒れた様子はまったくない。

 それでも古いだけあってどこか鬱蒼とした雰囲気だった。主が病身だからか、まるで無人のようにひっそりとしているせいかもしれない。

 躊躇する心を叱咤するように首を横に振り、アリアは覚悟を決めて城に向かう。

 ここで引き返すことはできないのだ。

 顔もすべて覆い隠す鎧を着込んだ門番に取り次ぎを頼み、アリアは唇をきゅっと噛み締めた。

 門番はひとことも言葉を発することなく、そのまま城の奥に消えていく。

 軋む鎧の音が不気味に響いた。

 覗き込んだ城の奥は、昼間にも関わらず暗闇に満ちている。降り続ける雨のせいか、湿った水の匂いが漂ってきた。

 ほどなくして、足音が聞こえてくる。

 少しずつ近づくその音を待つ。するとひとりの老執事が顔を見せた。足を引き摺るようにして現れた彼は、嗄れた声で名前を聞く。

「……アリアです」

 そう答えて、紹介状を手渡す。

 痩せた老執事はそれを見て頷き、アリアを城の奥へと導いた。

 外観から予想できていたように、古ぼけた城だった。

 掃除は行き届いている様子だが、それでも手の届かないような高所には蜘蛛の巣が張っている。

 もう夏になろうとしているのに、寒々しいのはこの雨のせいだけではなく、この城が石造りのせいだろう。

 石畳の床には絨毯が敷かれていないため、足音が響き渡る。

 追いかけてくるような反響音を聞きながら、アリアは老執事に気付かれないように溜息をついた。

 まるで廃城のような静けさと、不気味さ。

 主は気難しいとの話だが、それがなくともこれでは、世話係が居つかないのも当然だろう。アリアだって、父の負債がなければ逃げ出していたかもしれない。

 老執事はアリアをひとつの部屋に案内すると、荷物の整理をするようにと告げて部屋を出て行く。

(今日からしばらく、ここで暮らすのね)

 たったひとつだけの荷物の鞄を机の上に置くと、部屋の中を見渡す。思ったよりも広く、綺麗な部屋だった。

 雨の音だけが聞こえる、静かな部屋で、アリアは静かに今までのことを思い出していた。

 少し前までは、マージが卒業したら早めに結婚して、父に引退を促すつもりだった。

 でもマージとの婚約は解消され、アリアは家を出ることになってしまった。

 残してきた母と妹、弟が心配だが、アリアが働かなければ、環境はもっと悪くなるだけだ。

 きっかけはマージだが、すべてを壊したのは父なので、彼を恨むこともできない。

 古城は王都から少し離れた山沿いにあって、到着したのはもう夕方頃だった。

 老執事は、今日はもう部屋でゆっくりと休むように言ってくれたので、することは何もない。

 今日はもう、早めに休んでしまっても良いかもしれない。

 ベッドも大きくて、柔らかそうだ。

 この部屋も、使用人の部屋というよりは客間のようである。

 窓に掛けられたカーテンは無地のレースで、空気を入れ換えるためか、僅かに開いていた。そこから入ってくる風に、ゆらゆらと揺れている。

 何気なく窓から外を見つめると、どうやら中庭に続いているようだ。

「まぁ……」

 覗き込んだアリアは、そこから見える光景に思わず感嘆の声を上げた。

 視界を埋め尽くす、見事な薔薇園。

 まるで血のような深紅の薔薇が、雨に打たれている。

「なんて美しいの……」

 古城を彩る薔薇の美しさに、今まで感じていた不気味さも忘れて、アリアは魅入っていた。


 音もなく降り続く静かな雨は、どこか陰鬱な雰囲気の古城によく似合っている。

 そんなことを考えながら、宛がわれた部屋でアリアはベッドに横たわり、高い天井を見つめていた。

 ベッドは清潔で綺麗に整えられていたが、湿った空気が身体中に絡みついているかのような不快感があった。

 石畳の床から忍び寄る、冷気のせいかもしれない。

(ご病気ということだけど。こんな古い城に住んでいるから、なかなか回復しないのではないのかしら……)

 溜息をついて寝返りをうち、アリアは目を閉じる。

 傍に仕える予定の公爵には、まだ会っていない。

 他にもいると聞いていたはずの侍女にさえ、まだひとりも会っていなかった。

 本当に、他にもこの古城で働いている使用人がいるのだろうか。

 あまりの静寂に、ふとそんな疑問が胸をよぎる。

 あの門番と老執事、そして当主の公爵しか住んでいないのではないかと思われるくらいの静けさだった。

 疲れをとろうと早めにベッドに入ったはずなのに、眠れないまま、気が付けば深夜になっていた。

 環境が変わったせいかもしれない。

 静かなはずの雨音が気になり、ますますアリアを眠りから遠ざける。

 一時間ほど、そんなふうに過ごした。

 アリアは無理に眠ることを諦め、もう一度あの美しい薔薇を見ようと、ベッドから身体を起こす。

(この雨で、花が痛んでいないといいけれど)

 夜の古城に降り続ける雨に、薔薇の花も散ってしまったかもしれない。

 だが窓から覗き込んだアリアの目に映ったのは、赤い薔薇だけではなかった。

「あ……」

 中庭の中央に立っている人物に気が付き、アリアは小さく声を上げる。

 姿形がはっきりと見える、至近距離だ。

 真夜中に、こんな雨の中で。

 そのひとは、振り続ける雨に打たれるのを楽しんでいるかのように、天を仰いでいた。

 闇夜に光る、銀色の髪。白い肌が闇に浮かび上がっている。

 まだ若い男性のようだ。

 視線に気が付いたのか、彼はゆっくりと振り向いた。

 真正面からアリアを見据えたのは、紫色の瞳。

 彼はアリアを見ると少し驚いたように目を見開き、それから笑みを浮かべた。

 闇夜の薔薇に映える、蠱惑的な微笑み。

 あまりにも美しく、恐ろしい。

 それなのに目を離せず、アリアは魂を奪われてしまったかのように魅入ってしまっている。

 彼は、アリアに向かって手を伸ばした。

「おいで」

 行ってはいけない、と思った。

 きっと彼は美しい魔物だ。

 アリアのすべてを魅了し、そして奪ってしまうだろう。

 それなのに、知らずに自分に向かって伸ばされたその手に向かって歩き出していた。

 中庭に通じる扉を開け、雨が降りしきる薔薇の庭に足を踏み入れていく。

 雨も冷たさも、感じない。

 彼の傍までたどり着くと、彼は尋ねる。

「君の名は?」

「……アリア、です」

「アリアか」

 彼はアリアの手を取ると、愛しげにその名を呼んだ。

 ずっと雨に打たれていたからだろう。

 彼の手はとても冷たく、熱を感じない。

 まるで美しい陶器の人形に抱かれているかのようだ。

 ――囚われてしまった。

 そんな想いが、胸に宿る。

 もう、この古城から出ることはできないかもしれない。

 彼は優しく、アリアの頬を撫でた。

「君を、薔薇の下に埋めてあげようか」

 恐ろしいことを言われているはずなのに、何故か恐怖を感じなかった。

 それも良いかもしれない、と少しだけ思ってしまったのだ。

 長年の婚約は解消され、ずっと良くしてくれたマージの家族にも縁を切られてしまった。

 もう父の負債を返済するために、この陰鬱な古城で働くしかない。

 きっと何年も掛かるだろう。

 そのうちに皆、アリアのことなど忘れて、それぞれの生活に戻るしかない。

 もう家族にとって、アリアは死んだようなものだ。

(それなら、いっそ……)

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