薔薇の柩~婚約破棄され、実の父親に売られた令嬢は、魔性の公爵に執着される~
櫻井みこと
第1話
「私が死ぬ前に、君を薔薇の花で満たした柩に入れてあげよう」
痩せた細い腕で頬杖をしながら、病み衰えた男はそう言って笑った。
美しい男だったが、人形のように生気がない。
その指先に触れられると、身体の中まで冷たく凍えてしまいそうなことを、アリアはもう知っていた。
「そして生きたまま土の中に埋めて、その上に花を植える。その花は、君が好きなものでいいよ」
そう言われて、アリアは曖昧に笑う。
物騒な言葉だが、彼にはもう、そんなことをする力は残されていない。
「君の好きな花って、たしか……」
「ひまわりです」
答えてしまってから、はっとする。
太陽のように生き生きとしたあの花を、彼は嫌っていたはずだ。
「ああ、いいね」
けれど彼は楽しそうに笑う。
白い肌にほんの少しだけ赤味が指して、人形に命が宿ったように見えた。
「あの忌まわしいほど明るい花の下に、死体が埋まっているなんて誰も考えないだろう。ひまわりは、いいね。きっとそうするよ」
そう言って笑ったあと、彼は咳き込んだ。
窓の外には冷たい風が吹いている。
もう数日もすれば、雪が降ってくるだろう。
ひまわりが咲く来年の夏まで、彼は生きているだろうか。
アリアは急に泣き出したい気持ちになって、視線を落とした。
初めて彼に会ったのは、春の終わりのことだった。
アリアは、ノーリ子爵家の長女だった。
貴族とはいえ、浪費癖のある父のせいで裕福ではなく、むしろ没落寸前だった。
そのせいで王都にある貴族学園に通うことができなくて、勉強は独学で習得した。
ある程度の年になると、身分を隠して市政で家庭教師の仕事をして、まだ幼い妹と弟、病気がちな母のために働いてきた。
そんなアリアだったが、婚約者もいた。
同じ子爵家で、幼馴染みでもあるマージだ。
彼の家も、アリアと同じく裕福ではなかった。
けれどマージの兄が、ノーリ子爵に婿入りする弟のために資金を貯めて、何とか王都の貴族学園に入学させた。
どちらかというと勉強嫌いで、派手好きなマージだったが、学園に通うためとはいえ、王都に行けることを喜んでいた。
本当はアリアだって、高度な授業を受けることができる貴族学園に通いたかった。
でも、家計を助けるために働かなくてはならない。
病弱な母や、まだ幼い妹と弟の面倒を見る者も必要だ。
一番年下の弟は、アリアとマージが婚約したあとに生まれた子どもで、まだ七歳である。もし婚約する前だったら、ノーリ子爵家を継ぐのは、この弟だったかもしれない。
でもマージはノーリ子爵家を継ぐために、貴族学園で勉強してくれる。最近はこの国でも女性の社会進出が進んでいるとはいえ、まだ女性が爵位を継げるまでにはなっていない。貴族女性は、勉学よりも社交性や社会奉仕を重要視している。
だから羨ましさを表に出さず、笑顔でマージを送り出した。
彼がしっかりと学んでくれたら、将来的にはノーリ子爵家のためになる。
弟のためとはいえ、高額な学費を用意してくれた、マージの兄にも感謝しなくてはならない。
そう思って婚約者を送り出したのが、二年前。
アリアもマージも、一八歳になった年に、その出来事は起こった。
マージが、王都の貴族学園で伯爵令嬢に見初められ、アリアとの婚約解消を要求してきたのだ。
まさか、そんなことが起こるなんて思わなかった。
アリアはただ呆然として、婚約解消を求めるマージを見つめることしかできなかった。
最初は、伯爵家に抗議してくれた。
王都に出向き、美しい伯爵令嬢との恋に浮かれていたマージを、厳しく叱ってくれたとも聞く。
当の伯爵令嬢の父も、娘と侯爵令息との婚約の話が持ち上がっていたこともあって、子爵家のマージを快く思っていなかった。
だから伯爵令嬢との恋が実ることもなく、マージは学園を卒業したら、地方に戻ってくるはずだった。
周囲の人達も、若いときによくある話だと、婚約解消を求められたアリアを慰めてくれた。
一時的にマージとは気まずくなるかもしれないが、幼い頃からよく知った仲だ。
さすがにショックだったアリアも、何年かすれば笑い話になるかもしれないと思っていた。
それらすべてを台無しにしたのは、アリアの父だ。
マージが伯爵令嬢と恋に落ちたことを知ると、マージの家に押しかけて、慰謝料を支払えと喚き立てた。そして脅しのようにかなりの金額を出させたらしい。
アリアは、自分の婚約に慰謝料が支払われたことさえ知らなかった。
婚約者がいながら浮気をしたマージが悪いのだから、慰謝料を支払うのは仕方がない。だがそれを口実に、脅すように大金をせしめる人間と縁続きになるわけにはいかない。
家に訪ねてきたマージの兄にそう言われ、正式に婚約解消を求められて、初めてそれを知ったのだ。
さすがに、そんなことがあっては婚約解消を受け入れるしかなかった。
長女アリアの婚約解消を聞いた母は泣き崩れ、寝込んでしまった。
もちろん、マージの家からもらった慰謝料を、父はすべて使ってしまっていた。どうやら賭け事をしていたらしい。
「大丈夫だ。アリアには、ちゃんと良い仕事を探してきたから」
酒の匂いをさせながら、父はそう言って薄ら笑いを浮かべた。
こんなことがあれば、もうアリアに新しい縁談などこないだろう。
だからアリアも結婚を諦めて、母や妹と弟のために働くつもりだった。
でも父の言う『良い仕事』など、信用できない。今まで通り、裕福な商家の子どもたちを相手に、家庭教師をするつもりだった。
「大丈夫です。仕事なら、自分で探します」
そうきっぱりと言うと、父は焦ったような顔をする。
父親の言うことは聞くものだと騒いでいたが、アリアが冷めた瞳で見つめると、ぼそぼそと小さな声で言い訳のようなことを言っている。
どうやら自分から賭け事をしようと思ったのではなく、飲み仲間に唆されて、つい乗ってしまったようだ。
そこで大負けしてしまい、持ち金をすべて失っただけではなく、多大な負債も作ってしまったらしい。
我に返った父は、そんな金額は払えないと青褪めた。ならず者たちに囲まれて、もう駄目だと思ったときに、父に声を掛けてきた者がいた。
彼は使用人らしき老人だったが、身なりはよく、彼の主が父の借金を肩代わりしてくれると言う。
もちろん、無償ではない。
肩代わりした借金の代わりに、年頃の娘がいたら手伝いにほしいと言われて、父は即答した。
「そんな……」
それでは身売りだと、最初に聞いたときはアリアも青ざめた。
「あなた、自分の娘を売るようなことを……」
今まで父がどんなことをしても耐えてきた母も、さすがに父を批難した。
「売るなんて、とんでもない。相手は公爵家だ」
「え?」
予想外の返答にアリアは驚いて母と顔を見合わせた。
てっきり娼館にでも売られてしまうのかと思ったが、どうやら違うらしい。
相手の指定した先は公爵家であり、病気で臥せっている当主の身の回りの世話をしてほしいという要求だった。
もちろん公爵家だから侍女も大勢いるが、病身の当主は気難しく、なかなか世話係が居つかないのだという。
「だから、俺も承知したんだ」
父はそんな言い訳を口にしたが、自分の借金を肩代わりしてもらう代わりに、娘を差し出したことには変わりない。
だが、そういった事情ならば引き受けるしかなかった。
父が背負った負債は大きく、数年かかっても支払うことができないほどの金額だったからだ。
このままでは、一家が破滅してしまうし、妹や弟の将来にも差し支える。
父親に似て地味な容姿であるアリアと違い、妹は母に似て美しく、弟は祖父に似て聡明である。
母は泣いて、妹と弟もアリアに縋ったが、父以外の家族を守るためには、こうするしかない。
もう二度と、この屋敷には戻れないかもしれない。
そんな覚悟をしながら身支度を整え、数日後には家族に別れを告げて、屋敷を離れた。
もう二度と賭け事はやらないようにと、父には約束してもらう。
そんな約束をしても無駄かもしれないが、約束しないと公爵家には行かないと言い張ったので、父は承知してくれた。
こうしてアリアは、父経由で渡された紹介状を持って、ひとりで公爵家を訪れた。
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