第7話


それは今から8年前の事。

アーシャがマーサの店にパンを買いに行った時、マーサが一枚の紙を差し出した。

マーサの店はアーシャの店から一番近いパン屋だった。

自然、毎日のようにパンを買いに行き、話すようになった。


「アーシャ、これに何て書いてあるか分かるかい?」


アーシャはそれを手に取り、見た。


「パンの作り方みたい。ビスケット生地をパン生地にのせて焼いた、甘いパンだって」


マーサは感心したように頷いた。


「この前、旅の人が遠い国で流行ってるパンの作り方だって教えてくれたんだけど、あたしは字が読めなくてねぇ。アーシャ、その……良かったら…」


アーシャはマーサの言いたい事が分かった。


「私、これを読むわ。それに絵も描く。そうすればマーサにも分かるでしょう?」


マーサは苦笑いを浮かべた。


「すまないねぇ。ウチの人も名前くらいは読めるし書けるけど、その程度だもんだから……旅の人は好意でくれたんだけど、読めないから作れなくてね」

「………誰かが教えてくれなかったの?」


アーシャにはガントゥがいた。

マーサにはそんな人がいなかったのだろうか?

マーサは大きく手を振った。


「金勘定は親を手伝ってるうちに自然と覚えたけど、文字は、ねぇ」


親も無筆だった、とマーサは笑う。


「教えてくれる学校もあるにはあるんだけど、あたしらみたいなのが行く事は出来ないからからね」


学校に行けるのは貴族や金持ちの子だ、とマーサは続けた。


「学校で勉強するより、家の手伝いするほうがよっぽど勉強になるって、あたしの父親は言ったもんだよ」


まぁ、学校に行ける程の金もなかったけどね、と、からからと笑う。


「マーサは、字を読みたいと思った事はないの?手紙を書いてみたいって思った事は?」

「そりゃ、何度も……でもこの年になったらもう難しいねぇ」


それを聞いてアーシャは思い付いた。


「マーサ、私が教えてあげるわ。マーサの良い時間に私がここに来て字を教える」


マーサは驚いたようにアーシャを見た。


「ほんの少しずつでも勉強したら、絶対に読めるようになるわ」


アーシャは熱心にマーサに勧めた。

アーシャが町に店を出して半年。

アーシャの店に客は来てくれるし、アーシャが他の店に買い物に行く事もあったが、アーシャと気軽に話す町の人は少なかった。

ほとんどの町の人はガントゥの弟子であるアーシャを尊敬するとともに恐れてもいた。

ぃや、魔法使い、というものを恐れていたのだ。

これをきっかけに、もしかしたら町の人と仲良くなれるかもしれない。

マーサはしばらく考え、頭を振った。


「アーシャ、折角だけどあたしはいいよ。“勉強”って言葉を聞いただけで震えっちまう」


マーサの申し訳なさそうな顔に、アーシャは弾んでいた心が萎んだ気がした。

明らかに沈んでしまったアーシャの顔を見て、マーサは心が痛んだ。

例えアーシャが魔法使いで、偉大なガントゥの弟子であっても、子どもである事に変わりはない。

まだ幼いのに一人で生きている。

そんなアーシャの事が、マーサは不憫でならなかったのだ。


どうしたらこの子を喜ばせる事が出来るだろうか?

自分が教えてもらえばいい事は分かっている。

でも、今さら勉強なんて………。


「アーシャ、ウチのバカの面倒見てくれんだろうか?」


店の外から聞こえた声に、マーサとアーシャは顔を上げた。


「ロイの奴、城で働きたいって言ってるんだが、俺んとこには伝手がない。だったら勉強して文字を覚え、実力で採用されるって手しかない。俺が教えてやれりゃいいんだが、俺も無筆だ。ロイをアーシャの店に行かせるから、教えてくれないか?」

「ロジャー、ロイはあんたの跡を継ぐんじゃなかったのかい?」


マーサが店に入ってきた男に話しかけた。

ロジャーは頭を振った。


「あいつは狩人には向いてねぇ。腕は良いのにウサギを狩るのは嫌だ、と言う。鹿もだ。この前なんか俺が獲ってきた獲物を捌いているのを見て倒れやがった。あいつは向いてねぇんだ」

「そりゃぁ残念だったねぇ」


マーサは気の毒そうな声を出す。

ロジャーは頭を振って、仕方ねぇ、と呟いた。


「アーシャ、考えてみちゃくれねぇか?もちろんお礼はする。その……大した事は出来ねぇが」


ロジャーの声は尻すぼみになった。

アーシャはロジャーの手を取った。


「ロジャー、私、ロイに勉強を教えるわ。お礼なんかいらないの。来てくれるだけで嬉しいから」


ロイなら小さな頃から知っている。

ロジャー一家は森の傍に住んでいる。

アーシャは彼らを森の中で時々見かけたし、挨拶する事もあった。

ロジャーはアーシャの勢いに驚きながら、頼む、と言った。


「そうと決まったら色々用意しなくっちゃ。マーサ、さっきの紙、貸して」


マーサが差し出したパンの作り方を書いた紙に、アーシャは杖を付けた。


「忙しくなっちゃったから、この紙に魔法掛けるわ」


アーシャが何か唱えると、紙は一瞬光った。


「これで上手くいったはずなんだけど………」


アーシャは杖をポケットに入れて、紙をカウンターの上に置いた。

その指が文字をなぞる。

すると、紙から言葉が聞こえ始めた。


「こうやって指でなぞったら紙が話してくれるの。とりあえず……今日はこれで我慢してくれる?絵は明日描くから」


マーサがなぞっても、紙はアーシャの声でパンの作り方を教えてくれた。


「アーシャ、これで十分だよ。1日あれば覚えっちまうから。それにしても魔法ってのは、こんな事まで出来るんだねぇ………」


マーサの感心した声に、アーシャは少しくすぐったくなる。


「ぁの、私、用意しに帰るわ。パン、ありがとう。お金、ここに……」


アーシャは当初の目的だったパンを手にして、ポケットから銅貨を出した。


「ぁら、いいんだよ。今日の分はこの魔法のお礼さね。さ、早くお帰り」


マーサはアーシャの手に銅貨を返し、店を追い出した。

アーシャはもう一度、ありがとう、と残して自分の店に帰っていく。


「あの子、嬉しそうだったな」


ロジャーがアーシャの後姿を見て呟いた。


「あぁいう顔は、ウチのサリーと変わらんな」

「そうだねぇ。あの子が私達と違うのは、ほんのちょっと魔法が使えるって事だけなのかもしれないねぇ」


ロジャーはマーサの言葉を聞いて頷いた。

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