第9話 人助け
せっせと珠美が漢字ドリルをやっている。驚くべきスピードで言葉を覚え、今では同世代の少女と同じレベルにまで達していた。
と言っても、珠美が何歳なのかは知らないのだが。
「
「そのマンガで覚える漢字ドリルって、本当に異世界ものなんだな……」
穴が開きそうなほど本を見ながら音読している珠美に声をかけた。
「わふっ、これ面白いよ。タケル、買ってくれてありがとう」
「おう、そんなに役立ったのなら良かったよ」
「タマミ、タケルの役に立ちたい」
どうやら珠美は俺の役に立ちたいらしいのだ。いつも目を輝かせながら、自分にできることがないか聞いてくる。
ただ、やる気が空回りしているのか、皿洗いをやらせようとしたら落として割ってしまったり、料理を手伝おうとして卵を殻の付いたまま投入してしまったり……。
ションボリした顔で反省している姿が可愛かったのは言うまでもない。
まだポンコツ感が否めないが、言葉を覚えるスピードから見ても、すぐに他のこともできるようになるはずだ。
「ふうっ、しかし俺の方はどうしたものか……」
その後も何度か履歴書を送ってみたのだが、ご縁が無かったメールが返ってくるだけである。
新卒を有難がる風潮の社会では、自己都合で退職した者に厳しいのかもしれない。
因みに、社長にクビにされたはずなのだが、離職票欄には『自己都合』とハッキリ書かれていた。難儀なものだ。
「気分転換に散歩にでも行こうかな」
俺のつぶやきに、珠美がピョコっと反応した。
「行くっ! タマミも散歩行くっ! わふっわふっ!」
「おう、一緒に行くか」
「行く行くぅ」
ぎゅっ、ぎゅっ!
全身で喜びを表すように珠美が抱きついてきた。
全体的にはスラっとしている珠美だが、胸の部分はムッチリと肉感たっぷりとしているのだ。俺は平静を装うように答えた。
「おい、くっつき過ぎだぞ。散歩は逃げないからな」
「わふぅ? くっついちゃダメ?」
「だ、ダメじゃないけど……。若い男女がくっつくのは恋人同士だけなんだぞ」
恋人同士という言葉で珠美が首を
「恋人……タマミがタケルと恋人になったらくっついても良いの?」
「そうだな。恋人になったらな」
「うん、タマミなるぅ」
「お、おう」
キラキラとした瞳で見つめられると、顔が熱くなるのを自覚してしまう。
だが、何も知らない珠美と関係を持ってしまうのはダメだと思う。上下関係や立場を利用してエッチしたのでは、俺が嫌いな粕田課長と同じになってしまうからだ。
もし、珠美が恋愛や恋人を理解し、自分で考え行動できるようになったのなら――――
「よし、出掛けようか?」
「わっふぅ!」
俺は珠美の手を引いて玄関ドアを開けた。
◆ ◇ ◆
昼下がりの公園は、散策をする老夫婦や犬の散歩をする人が多かった。そのすれ違う人全てに、珠美は挨拶をしながら歩いている。
「わっふ、わっふ、わっふ、こんちには」
「あら、こんにちは」
元気の良い珠美の挨拶に、老婦人が笑顔で返してくれる。
「こんにちは」
「ワンワンワン!」
今度は犬の散歩をしている人に声をかけ吠えられてしまった。
「ははっ、元気だな珠美は」
「タマミ元気っ!」
公園を抜け、川の土手沿いまで来た時だった。
急に珠美の様子がおかしくなる。何か土手の方をキョロキョロと気にしているようだ。
「どうかしたのか、珠美?」
「あっち、何かいる」
珠美に手を引かれ、土手を下り河川敷を橋の下まで行く。
「あっ、あそこ! 誰かいる」
「えっ! 人だ……人が倒れてるぞ!」
そこには白髪交じりの髪をした、ブランドものシャツを着た高齢男性が倒れていた。苦しそうに呻き声を上げうつ伏せで。
「だ、大丈夫ですか!?」
すぐに俺は駆け寄り、その男性を仰向けにした。
「く、苦しい……体が熱くて
「これは……熱中症かもしれない! み、水を!」
すぐに俺は持っていたペットボトルのお茶を飲ませる。
「あとは、救急車を!」
スマホで救急車を呼び、到着するまでの間に近くの自販機でスポーツドリンクを買う。
すぐに戻り、老人にスポーツドリンクを飲ませると、顔色も少し良くなってきた。
季節はもう夏に差し掛かっているのだ。きっと水分をとらずに歩いていたからだろう。
一歩遅かったら命が危なかったかもしれない。
「ううっ……だ、だいぶ楽になったよ。うっ、まだ頭が」
「無理しないでください」
「ああ……キミは?」
「通りすがりの者です。たまたま歩いていたら、貴方を見つけまして」
「そうか……キミは命の恩人だ……」
ピーポーピーポーピーポー!
老人と話していると、河川敷に救急車が到着した。
すぐに隊員がストレッチャーに老人を乗せる。
「キミ……何かお礼を……」
救急車に乗せられる間際に、その老人は震える手で俺の服を掴んだ。
「お礼は結構ですよ。困ったときはお互い様です」
「キミは、よくできた男だな。せ、せめて名前を教えてくれないか」
「
「犬飼君だな、覚えておこう……」
ピーポーピーポーピーポー!
救急車を見送った俺は、珠美の手を握る。
「行こうか?」
「わふっ、お爺さん元気になる?」
「ああ、きっと元気になるぞ。珠美のおかげだ」
「わふわふっ、タマミ役に立った?」
「珠美は役に立ってるぞ」
「わふぅー」
珠美の嬉しそうな顔を見ると、世の中の嫌なことも忘れそうだ。
「そうだ、そうだよな。まだこれからだよな」
俺は上を向いた。初夏の空は高く澄み切り、大きな雲が流れて行く。
流れる雲に自分を重ねていると、もっと気楽にしても良いのではと思えてくるようだ。
「わふっ、タケル、お腹すいた」
「そうだな、ハンバーガーショップの割引券があるから行くか?」
「わふぅー! タマミ、ハンバーガー好き」
「よし、行こう!」
「わーい!」
満面の笑顔で俺を見つめる珠美を連れ、俺たちは季節限定のハンバーガーを食べに行くのだった。
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