第4話 誤解

 夕食が終わって洗い物をする俺に、珠美は犬のようにじゃれついてくる。


「あそんで! タケル! わふわふっ」

 ペロぺロペロッ!


「うわぁあああっ! な、舐めるなっ」


 まさかのペロペロ攻撃に、理性を保とうとしていた俺の心が乱される。


「ま、待て待て待てぇええええぇい! い、今……俺の口に珠美の舌が少しだけ触れたような? ま、まさか……今のが俺のファーストキスだと……」


 そう、ブラック企業で使い潰された俺は、恋愛する暇もなく彼女いない歴イコール年齢なのだ。でも最近では珍しくないはずだ。きっと……。


「いやいやいやいや、今のはノーカンだよな。キスじゃないし。ああぁ、間違いを起こさないようにしているのに、この子は何をしてくるんだぁあああぁ!」


 大胆なスキンシップで混乱する俺に、珠美ときたら全く悪気は無いようだ。無邪気な顔で俺を見つめている。


「どうしたの? なにか、いけなかった?」

「いいかい珠美さん、キス……顔や口を舐めるのは好きな人とするんだぞ」

「わたし、タケル好きぃ」

「そういう好きじゃないの。異性として好きな人とするの」

「むふぅ?」


 分っているのかいないのか、珠美は首をかしげている。


「いけなかった? ごめんなさい」

「わ、分かればよろしい」


 ナデナデナデ――

 つい、珠美が本当に犬のような気がして頭を撫でてしまう。


「よしよしよし」

「えへへぇ」


(くっ! か、可愛い……。い、いかんいかん、流されてはダメだ。理性を保たねば。とりあえず今夜は泊めるとしても、明日になったらどうするのか考えないと)



 予備の布団を敷いて体を横にする。今日は疲れた。まるで眠りの精霊に取り憑かれたかのように。


「タケル、いっしょにねないの?」

「寝ません。珠美はベッドで寝るように」

「えええぇ!」


 俺の背中にピッタリと体を寄せる珠美に注意をすると、素直にベッドへと移動した。


「わかったぁ……」

「分かればよろしい」

「タケルのにおいがする」

「クンカクンカすなっ!」


 初めて女を部屋に泊めてしまった興奮があるにも関わらず、俺は不思議と穏やかな気持ちで眠りの世界に落ちていった。

 激務に追われ心をすり減らしていた頃にはなかったくらいに。



 ◆ ◇ ◆



「どどど、どうすんだこれ! 一夜明けて冷静になってみると、素性の知れない女を部屋に住まわせるのは大問題だぞ。それに……女性用の服や生活用品も無いし……」


 珠美に朝食を食べさせながら俺は頭を抱える。


「おいしいね、このフワフワなの」

「お、おう、良かったな」


 笑顔の珠美がパンを頬張っている。マーマレードを塗っただけの食パンだが。


「このままじゃダメだよな」


 俺はスマホを持ってベランダに出た。


 女性のことは女性に聞くのが一番だろう。俺は相談できそうな人を思い浮かべる。


「やっぱり藤倉ふじくらしかいないか。先方から相談したいと言われてID交換したのに、俺が相談を持ち掛けるのはどうかと思うが……」


 スマホの画面を見つめてから、思い切ってアプリにメッセージを書き込んだ。


《藤倉さん、折り入って相談したいことが有るのですが、もしよろしければ会ってもらえないでしょうか?》


 ピコッ!

 すぐに返信があった。


「やけに早いな。そういえば今日は土曜日だったか。藤倉も家でまったりしてたのかな。どれどれ?」


《犬飼先輩、メッセージありがとうございます。私から送らなければと思っていたのですが、送れないままですみませんでした。ご相談の件ですが、私はいつでもOKです》


 いつでもOKという藤倉に甘え、俺は自宅アパート近くの駅で待ち合わせすることにした。



「おい、珠美、ちょっと出かけてくるから。すぐ戻るから待ってろよ」


 その言葉で珠美の顔が悲しそうになった。


「えっ! いっちゃうの? おいてかないで」

「すぐ戻るよ」

「でも、でも……」


(珠美……凄く悲しそうな顔に……。置いて行かれるのにトラウマでも有るのか?)


「すぐ戻るから。約束する」

「わ、わかった……」

「良い子で待ってろよ」

「うん、まってる」


 後ろ髪を引かれるような思いのまま、犬のようにお座りしている珠美を残し俺は部屋を出た。



 ◆ ◇ ◆



 近所にある最寄りの駅で待つと、すぐに藤倉の姿が改札に現れた。


「藤倉!」

「せ、先輩っ、お久しぶりです」


 数週間ぶりに見る藤倉の姿は、会社で働いている時とは大違いだった。

 あの地味で大人しめなスーツではなく、大胆に脚を出したミニスカート姿だ。メイクも心なしか派手な気がする。少しだけ女を感じさせるリップにドキッとさせられた。


「あ、あれ? 今日はちょっと違うね?」

「そ、そうですか? えへっ」


 照れたような顔をした藤倉が、指で髪をクルクルと巻く仕草をする。


「来てもらって悪いな」

「いえいえ、犬飼先輩の頼みならいつでも大丈夫ですから」

「あれから会社の方はどうなんだ? 粕田かすだのセクハラは?」

「はい、大丈夫です。それどころじゃじゃないですから」


 少し含みを持たせるように藤倉が笑う。何か面白いことでも会社であったのだろうか。


「なら良かった。粕田かすだのヤツ、毎回新入社員に手を出すから心配だったんだ」

「私を……心配してくれていたんですか?」


 藤倉が真っ直ぐに俺を見つめる。俺は照れ臭くなり話題を変えた。


「そ、そうだ、今日は重要な相談があるんだ」

「じゅ、重要ですか……」


 藤倉が両手でグッとガッツポーズをする。それは何の意味だろう。


「えっと……ここでは何だから、俺の部屋まで来てくれないか?」

「へっ?」


 急に藤倉が動揺する。


「え、えとっ……い、いきなりですか。まだ、心の準備が……」

「頼む、もう限界なんだ。我慢できないと言うか」

「ががが、我慢できないんですか! えっ、ええぇ」


(どうしたんだ藤倉は? 急にソワソワし始めて。いきなり面倒なことを頼むのは悪いけど、珠美の保護や日用品に関する相談をできるのは藤倉だけだしな。もう珠美の裸ワイシャツとか我慢できないし)


「えっ、えっと……わ、私、そんなに軽い女じゃないと言いますか……。で、でも、先輩がしたいって言うのなら……わわ、私もやぶさかでもないって感じでして……」


「良かった。とりあえず部屋に来てくれ。相談はそこでするから」



 ◆ ◇ ◆



 ガァアアアアアアアアアアーン!


 部屋に入った瞬間、何故か藤倉が崩れ落ちた。


「あっ……あああ……これ、どういうコト? 勝負服と勝負下着で……待ち合わせして……。こ、怖いけど覚悟を決めて先輩の部屋に来たのに……。入ったら同棲している彼女がいるなんて……。なんなのよもうっ……」


 藤倉はブツブツと独り言をしている。アニメでよくあるハイライト無し目のような顔で。


「えっと、急で悪いんだけど、相談したいのはこの子のことなんだ」


 そう言って珠美を見せる。


「わふっ、わふっ! このおねえさんだれ?」

「会社の後輩だぞ。元だけどな」

「そうなんだ。こうはいってなに?」

「新人さんとかかな」

「ち〇ち〇さん?」

「おいっ!」


 コントのようなやり取りをしていると、藤倉の顔が更に酷くなった。もう世界の終わりみたいな表情をしている。


「ああ……あああ……これ、何かの拷問ですか?」

「すまん藤倉……おいてけぼりで」

「い、いえ、先輩って彼女いたんですね」

「は?」


 どうやら藤倉は、珠美を俺の彼女だと誤解しているようだ。冷静に考えたら、部屋から女が出てきたらそう思うだろう。


(これはヤバい。誤解が広がらないよう訂正しておかねば)


「えっとな、藤倉、この子は俺の彼女じゃないんだ」


 訂正しようとした俺の声に、珠美が危険ワードをかぶせてきた。


「タケルはわたしのごしゅじんさまだよ」


 シィィィィ――――――――――――ン!


「ふ、不潔…………」


 まるでゴミを見るような目になった藤倉が、そう一言つぶやいた。






 ――――――――――――――――


 藤倉さん、誤解なんです!


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