防空壕

私の実家の近所には、子供ならギリギリ入れるような大きさの洞穴がある。当時の私に対して大人達はこれは防空壕だと言い、危ないから入るなと口酸っぱく言い聞かせた。しかし子供の好奇心とは中々飼い慣らせるような物ではなく、私は2人の友人と共にその「防空壕」に入ろうと計画した。決行は皆が寝静まり、私達も例外ではなかろうと親も考えるような休日の真夜中だ。初めは旅行と偽ろうともしたが、どうやら件の洞穴の前にある一軒家がその侵入者を監視しているらしく、私達の前にこれを決行した勇敢なる先人達はこの家に潜む番人によってその偉業を妨げられているのだ。優秀な我が盟友は、その目を光らせる洞穴の門番が夜勤であることを突き止め、夜の間そこには誰の目もない大人達の空白の時間が生まれることを明らかにした。私はその情報を元にこの計画を立て、これを2人の友人K、Sと共に果たそうということになった。Kは昔からこうした近所の様々な場所を歩き回る好奇心の我々の中で特に強い者であり、Sはそれに付き添い、彼の制動を担う者の役を請け負う者だった。その2人が「防空壕」を調べていないのは単にその存在を知らなかった為であり、この洞穴が近所の十数軒の者だけがこれを知り、かつ広めようとはしないだった為である。

私は音を立てないよう服を着替え、事前に用意していた荷物を持ち、懐中電灯をそこから取り出して手に持って家を出た。当時スマートフォンはある程度普及はしていたが、まだまだ全員が使用するには高く、小学生はもっぱらキッズ携帯と呼ばれるガラパゴス型のブザーがついた携帯か、或いは携帯ゲーム機のメッセンジャーソフトウェアを利用しており、私は後者であったが故にWi-Fiの届かない場所では情報伝達もままならなかった。親の携帯を持って行こうかとも考えたが、それは親のベッドのすぐ横、つまり最もこの計画の遂行において危険な場所で充電されており、私に連絡手段を諦めさせるには十分だった。友人2人に予めゲーム機で連絡し、現地集合———目を光らせる一軒家を警戒して洞穴からやや離れた場所にある公園にだが———を行い、そこへ向かえば約束通り例の公園には既に2人の背の低い人影があった。Kは小さなウェストポーチにお菓子を入れたものだけを持ってきており、対するSは大きなリュックに重要な物を詰め込み、更にスマートフォンを持っていた。どうやらSのみ両親との交渉によってこれの参加を成し得たらしく、またこれを誰かに明かさないことを約束し、つまるところ我々には彼の両親が味方についたのだ。彼は私とKに無線機を差し出し、これによって緊急時には我らの外部協力者である彼の両親との連絡を可能にした。この「防空壕」は私の近所でしかその話が広まっていないことも相まって、少しでも遠くに暮らす者はその危険性を訴えて我が子を遠ざける者共の真意や、その洞穴の存在すらも知らないのだ。我々はこれを喜び、そして件の洞穴へと足を運んだ。Kは入り口の柵を飛び越えて内側から掛けられたかんぬきを引き、それから我々を中へ通した。洞窟に入る直前、私は目の前の一軒家に目をやったが、そこには一切の灯りが無く、車も止まっていなかった。しかし、私は中にまだ誰かいるのではないかと妙に不安になり、急いで洞窟内に入り込んだ。実は目の前の家、「防空壕」の利口な監視者の住居には曖昧で、不気味な噂があった。内容こそ忘却の彼方へ追いやってしまったものの、漠然とした恐怖そのものは未だ私の本能を茨のように縛り付けていた。

洞窟の中は湿気が強く、入り口付近の床は常に月明りでぬらぬらと輝いていた。入り口から奥へと続く道は下り坂になっており、我々は足を滑らせないよう慎重に地面を踏みしめながら進んだ。段々と傾斜が激しくなり、月光の届かない岩壁を懐中電灯で照らすと岩が積み重ねられたような壁にはがたがたの丸や四角といった錆色の単純な図形で作られた無邪気な落書きが施されており、その画から感じられる幼さと懐中電灯から発される円状の光以外の如何なる明確性の存在しない空間との不適合さがこの洞窟に異質さをもたらしていた。Sは小型のデジタルカメラでそれを撮影し私とKに共有してくれたものの、その落書きに全くの意図が見出せず、もはやそれが書くことを目的として描画されたに過ぎないものであると断言さえできたし、実際にKはそう言い切ってみせた。とにかく我々には一応のタイムリミットがあり、どのみちこうした痕跡の吟味というものは全てを終えたのち改めて時間を設けて行うことはできるのだからと、Kはこの異様な落書きのある空間を抜けてさらに奥に繋がる通路を歩き始めたので、Sと私も後を追った。

暫く一本道を歩いていくと段々と天井が低く、幅が狭くなってきた。もはや子供であった我々でさえも縦に並ばなければ先へ進むことが不可能なほどの窮屈な空間になり、辺りの空気が薄く、しかし重く沈んできたように感じ始めたころ、我々の進む先を阻むように木製の扉が現れた。微かな金属光沢の見られる把手はその光沢を覆い隠すように錆びて、所々に穴や欠けが確認できるが、その先を見るには不十分なほどしか向こう側へ懐中電灯の光は届かず、なんにせよそれを開ける必要があった。Kは物怖じせずにその湿った把手を掴むと、そのまま押し抜けるように扉を開けた。向こうには広い空間が広がっており、小さな川のせせらぎが反響して聞こえる。もはや「防空壕」の様相を呈しておらず、一つの自然洞窟であった。暗闇を懐中電灯で切り裂くと道の先は二手に分かれていたが、一方は木の板でバリケードが作られており、その中心には赤い塗料でバツ印が描かれていた。Kはこれを打ち砕いて先へ進もうと提案したが、私とSはまだ時間に余裕があるからそこまで急ぐ必要はないとしてもう一方の道へ進むことにした。懐中電灯で照らせばその道を補強するように木の枠組みが建てられているのが見え、既に人の手が入っている坑道のようなものであることはすぐに理解できた。側壁の柱には電球の割れた蜘蛛の巣まみれのランタンが点々と残っているが、勿論点灯しているはずもなく無意味に垂れ下がっていた。地面に敷かれた柔らかい泥には所々に何か細いタイヤのようなもので抉られた形跡がまだ残っていたが、私たちが奥へと進めば子供らしさのあるとげとげしい運動靴の足跡がそれを上書きしていった。川のせせらぎを通り過ぎて段々と遠ざかるにつれて、地面に広がる漆黒にして深淵の沼の底から音叉の轟くような不気味で低い唸りを脳内のどこかで認識するようになっていた。耳鳴りか、地震か、あるいは水流の強く壁を叩く振動か、そういった何か科学的な根拠を求めてKとSに尋ねるが、二人は聞こえないと言うのみであった。一度広い空間を通り過ぎてから洞窟内の空気の薄さや重い空気の滞りは感じなくなっていたが、その不気味な洞窟の鳴き声は私を緊張させ、静かに呼吸を浅くさせた。「防空壕」に入った時から感じていた湿った土の匂いは段々と薄まり、代わって生ごみのような嫌な臭いが漂ってくるようになった。その匂いが明確に感じ取れるようになった頃にSは壁や床の隅、角の至る所に宍色ししいろの何かがおり、そこからこの悪臭が発生しているのだと指摘した。私はへばりつく何かから零れて床に落ちた宍色の一部を覗き込んだが、あまりに酷い匂いと見た目から触ろうとは全く思わなかった。Sは数枚の写真を撮り、リュックから取り出したビニール袋越しにそれを掴みとると、そのまま袋を裏返して口を結ぶ。Sはそれをリュックにしまいながら私を先へと急かした。辺りの異常な状況を無視して奥へ進み続けるKの後を追って私とSも強まる悪臭の方向へ足を進めると、そのべたべたとした何かが占める壁の割合が大きくなり、もはや壁を形成する重力によって固められた土石はほとんどが覆われて動物の食道を思わせる狭く窮屈で一切の清潔感の感じられない空間が続いた。

10分ほど歩いた先には掘り広げられたような小部屋が作られており、そこには朽ちた木製の家具がいくつか置かれていた。Kはこれを見るや否や好奇心に誘われるがままにその本棚やタンスを漁り始めた。Sは息を切らしながら一つだけ置いてある背もたれのついた椅子に座り、荷物を脇に降ろした。Kが興味なさげに放り投げた用途の分からない独特な形状をしたガラス製の小さな容器が床に転がっていたので、私はそれを拾ってよく見てみた。小さく文字のようなものが彫られていたが、私の知る如何なる言語にも当てはまらなかったのでその意味を知ることは出来なかった。元の場所に戻そうにもKが無造作に並べ直した雑貨によってそれを置くスペースが失われていたので、そのまま机に置くしかなかった。そうして一通り部屋を荒らし終えたKは自身が求む秘宝や禁忌、偉大なる旅路を示す勲章になり得るものが何一つ無いと分かると、床や椅子に座って久々の休息をとる我々を催促した後に一人で奥へ行ってしまったので、何があるか分からないこの窮屈な薄暗い空間で誰かが逸れるのはまずいと考えた私とSは荷物を急いで不安定なまま肩に掛けてついていった。部屋の最奥、扉とは対極の位置にある壁は錆びて真っ黒な鉄格子となっており、しかしながらそれを構成する鉄の棒のどれもが歪んで変形しており、まるで多方向から連続的に金属を歪めるほどの強い圧力がかけられたかのようだった。熱で溶解させられたようにひしゃげた鉄格子の扉は既に半開きのまま放置されており、我々がこの洞窟の深淵へ向かうのをそれが拒むことは無かった。

ついに我々はこの「防空壕」と偽られた鈍重なる闇の満ちた洞窟の、最も陽光から遠い位置にあると推測できる最奥の部屋にたどり着いた。腐った悪臭はもはやこの部屋の中心で膨張し、足を踏み入れた我々を阻むように部屋の入り口から外へ広がり、私の鼻孔の奥から気管を巡って全身に純粋な不快感を齎した。ドーム状になったその部屋は一切の光も無く、Sが照らす円形の光だけが我々にこの部屋の存在を認識させる。その場所は芥場あくたばだった。光は肉肉しいヘドロが部屋の至る所に無造作に積み上げられているのを暴き、その半固形の赤く艶やかな泥からいくつかの白く鋭利なものが突き出ていることから何か動物の死骸が腐り溶けたものであることが推測された。もはやあまりにも現実離れしすぎたその光景は我々にそれが受け入れがたい混沌たる三次元の現実世界であることを理解させることは無く、ある種の芸術のような冒涜的な人ならざるものの美的センスを感じられた。我々はもはや何も言葉を発することが出来ず、ただ目の前にそれがあるという事実だけを受け入れ、部屋のより細かな箇所に我々が真に求む適量の非現実性を見出さずにはいられなかった。Sはそのグロテスクな肉塊を撮影し、薄ら笑いをしながらそれを食い入るように眺めていた。Kはその異様な塊を認知せず、部屋の壁を調べて更に奥へ続く道、そしてその先に棲む明解にして常識によって構成される象徴的怪物を、たった今目撃した想定外の痕跡から逃れるように探し求めた。私はとにかくそれを視界から外さなければ禁断の、人の築き上げた世界の理から逸脱した仮説を導き出して自分の思考を破壊しかねなかったので、見張りをすると言い訳をした上で、目に焼き付いた有毒な視覚情報を忘れようと来た道の方を眺めていた。その時、私から見て左の壁面が揺れてそれから空間全体に轟音が響いた。まるで地震か吹奏楽器の鳴らす音のようで、しかしながら地震とは異なる何らかの生物的で感情的な抑揚の乗った重い風の振動があった。一瞬の沈黙が生まれた後、最初に口を開いたのはKだった。彼はK以外の誰かに望まぬ提案をさせまいと真っ先に、あのバリケードの先へ行こうと言った。私はすぐにそれに反対しようとしたが、その前に何故かSが賛同した為に私もついていかざるを得なかった。仮にここで私だけが一人で外へ出ようとして、この1本道の薄暗い洞穴の中であの肉塊の地獄を生み出した原因に出会ったなら私は自身の選択を悔いて意識が途切れるのを待つのみとなってしまうだろう。私は安心できる状態でここを出たかった。だからこの時、反対意見を出さない方が少なくとも反対意見を出すよりは良い選択なのだと思い込んでしまったのだ。

洞窟を引き返して広い空間に戻る。入ってきた時に感じていた息苦しさは私の体が緊張状態にある為か感じられず、小さなせせらぎは醜く暴れる自分の心臓の鼓動がかき消した。先頭を歩いていたKが驚いたように声を出したので、Kの視線の先を覗くとバツ印の書かれたバリケードに大きな穴が開いているのが見えた。だがその事実がKの足を止めることは無く、私は先を行くKとSに続いて乱暴に穴が開けられた木のバリケードを乗り越えた。それから歩いた道はもう一方の坑道とほぼ同じだった。違う点は酷い悪臭が漂っていないこと、そして川のせせらぎが大きくなっていることだった。しかし暫く歩けば左の道との差は大きく広がってきた。坑道は長く、壁や天井を支える木の縁はボロボロに引き千切られており、それから突然我々の目の前には木製の下り階段が現れた。一段一段が小さく降りること自体に難は無かったが、しかし段々と強まる川のせせらぎが私の心臓の鼓動を急かし、体をこわばらせ、背後から迫る私の本能が操り人形のように脚に繋がる糸を引っ張ってくる。無理矢理に動かして時々足を踏み外しそうになりながら階段を下った先は木の板が張られた暗い人工の廊下があった。時々軋んで私とSを怖がらせる床を臆せずにKは進み、その先にある金属製の扉の前で立ち止まった。そこで初めてKは足を止めたのだ。

Sは急に何も言わずに立ち止まったKに話しかけたが、Kは振り返らずにただその錆び付いて表面が真っ黒になった扉を見つめるばかりで何も答えなかった。それからKは我々に聞かせるように呟いた。

「この先に、いる。」

私が扉の前にたどり着いて、同時にSが何がいるのかを尋ねた時、Kは突然手を伸ばして扉を開けた。奥は真っ暗でほとんど何も見えなかったが、辛うじてその漆黒の中で身を屈める何かがいることは分かった。漆黒が滴り、地面を這いずり、壁を引っ搔いて、時々低く唸っては床を叩き、濡れてどろどろになった土が鈍く音を立てたそれを、Sは恐る恐る懐中電灯で照らす。

そこには、。さらりとしなった長く白い髪がぐるぐると自らの体に巻きついてその姿を黒く染めあげ、その短くボサボサの髪の隙間から優しい5つの目が私に助けを求めるように笑う。捻れるように曲がった上半身からは多関節の長い腕が伸び、茶色くちりぢりの髪がそれに絡まって操り人形のようだった。しかし、同時に。何度も見た私の顔をした私がそこに立って、私の癖をしながら私の声を発しているのだ。私の衣服を纏い、今この瞬間にも私と入れ替わらんとしている私は私であるが故に私の思考を理解し、私にその存在を認容させる。だが、それは同時に、いくつもの面相がアハ体験のように捩れ、潰れ、膨らみながらその全てが私を見て、笑い、泣き、怒り、私の記憶に存在する全ての表情を写し出し、信頼を乞う。そして私がそれの全てを受け入れようとした時にSが悲鳴を上げ、知覚を取り戻した私は遂にそれの本質を見ることができた。

それは、ギョロリと見開かれた大きな眼球が頭部の上半分を占めていた。人型ではあるが人であると感じさせない無毛にして爛れた肉肉しい肌にはボツボツと先端に孔を開けた複数のでき物があり、それが小児を思わせるガリガリの体の肩と推測できるその部分を細かく痙攣させるたびにそれらの孔から桃色の、生々しく艶やかな紐状の何かを震わせて地獄の門が開くような悪魔めいた呻きを鳴らした。鋭くひん曲がった黒い爪は猛禽類のそれに近かったが、その爪にはベッタリの赤みがかった茶色いヘドロが挟まっていた。その小さな体に見合わぬ巨大な頭部を支える首はぐったりと伸び、頭は地面に着いていたが、巨大な濁った眼は物を知らぬ赤子のように一切の表情無くただじっと我々を見ていた。そしてそれから突然、その筋肉のない身体からは想定できぬ程の素早さで異様に伸び、関節の多い脚を伸ばすと、蛙のように飛び上がり、先頭にいたKに掴みかかった。それは、本来人間の口に位置する部分にぽっかり空いた巨大な孔を、Kの頭を丸呑みするかの如く広げ、内側には無数の細かな鋸歯状の牙を覗かせた。Kがそれを引き剥がそうと抵抗すると、その怪物は床に振り落とされ、それから全身の孔から這い出た舌を震わせて鳴き始めた。

それは明確に文字として分断できぬ曖昧で一本の線のように繋がる粘土質の振動を発して、地面を介して私の足の下、柔らかく私の脚を型取る漆黒の地面を通して空気中に伸び上がる。その形容し難い人類という種に対する冒涜じみた、模造された言葉の集合体は私の脳の底で波打ち、私に人肌の温もりとそれに伴う言いようのない安らぎを享受するように否定すべき歪まされた本能が反芻させる。私は一瞬だけその波に身を委ね、その不快にして平穏なる音の寄せ集めから成る声の抱擁の意味が理解できたのだと錯覚してしまった。。人間という種を凌駕する不可侵の、3次元世界における神を冒涜せんとする多次元空間に潜む渾沌の集合体が放つあらゆる意思表示の一側面に過ぎない色であり、それは人間が愛玩動物に対して示す戯の域を超えない愛情表現なのだ。恐るべき恒久の深淵が我々に与える安堵はさしずめ暴君の寵愛のようなものであり、それを拒めば如何にして自分が絶望の淵で自らを殺すことになるのかを知ることになるが故に、その安らぎは享受せざるを得ないのだと私の理性が言い訳を並べる。私の体には強く重い眠気がのしかかり、全てをそこで中断してしまおうと私の体を動かしていた全ての思考、知覚が粉々に千切れていく。私は自分の体が前方に崩れる感覚を覚え、そのまま現実を諦めてしまおうと思い至った。

しかしその瞬間、この唄に重なるように我々と怪物のいる部屋のさらに奥、小さな横穴が導く深淵の向こうから低く轟く巨大な音が響いた。まるで大地が鳴動し、アビスから全ての生物の王が怒り叫ぶような、我らの崇拝すべき偉大なる岩石の球体の内部から食い破るかの如く熔岩が爆発して溢れ出すそれを思わせる、我々に足掻く事すら許さない得体の知れぬ怒号だった。しかし、それは自然現象が生み出した音とは思えず、妙な人間臭さがある声だった。奇妙なことに、私の眼前にいる人の域を外れたそれはこの地響きを合図に襲いかかるのをやめ、小さな横穴へと入っていった。Sはこれを母親の怒りだと言った。我が子を傷つけられ、我々に憎悪に満ちた罵詈を放つ母親がこの先にいるのだと言ったのだ。明確な脅威に遭遇するまでどこか他人事のように考えていた私はようやく正気を完全に取り戻し、正常な判断能力に基づいて二人を止めた。進むべきではないと強く言った。KとSは聞かず、大丈夫だと言った。その目には現実を写すことのないように真っ暗に闇が掛かっていた。二人はとっくの昔から過信され続けた経験則が築き上げる正常性バイアスに囚われ、動物として当たり前に習得されねばならない本能としての危機管理能力は完全におかしくなっていたのだ。次に私は帰りたいと言った。二人は少し驚いたような表情を浮かべた後、一人で帰るのは危険だと言ってここで待つことを提案した。それからSは私のリュックから無線機を取り出して私の手に持たせた。実況してやると言ってSは笑うと、Kと共に更に奥へ続く闇にその後ろ姿を消した。

それから私は遠くから響く二人の足音に自らの安心を託しながら、無線機から響く不穏な風のさざめきに耳を傾けた。足音が遠くなっていくと、川のせせらぎがあったはずなのに私の周りからの一切の音が分からなくなる程には無線機から微かに聞こえるノイズに自分の精神の支えを見出していた。やがて無線機からの音も段々と縮んでいき、私がほんの僅かな彼らの存在をも求めて全ての神経を無線機に近づけた片耳に集中させようとした時、それは突然辺り一帯を引き裂く甲高い、喉を千切るような怯えた叫びを小さなノイズと共にそこに潜んだ混濁する感情を余すことなく響かせた。疑問、衝撃、驚愕、不安、恐怖、絶望、後悔、悲嘆、諦観、そして結果の甘受。グラデーションのように混ざり変容しながら滑らかに、如何に人間の精神と生存本能が脆弱であるかを証明するかのように漆黒の帳を下ろしたその喘ぎは、紛れもなくKの特徴的なやや掠れてこもった声であった。それから液体が飛び散る音、地響き、何かが床に叩きつけられる音がして、そうして砕ける音が聞こえてはじめて私はそこで何もかも取り返しのつかない事態へと至ったのだと痛感した。私は手に握っていた無線機を投げ壊したかった。そうして全て無かったかのように忘れ、自室のベッドの上で目を閉じて休みたかった。だが私を責め立てるように差し迫る脅威を体現するこの狂気に満ちた叫びは無線機だけでなく洞窟全体、私のいる空間の全てにこびりついて暗闇から私を睨み続ける上、私の役目を果たすことの無かった判断能力がこれだけは逃げてはならないと私に囁き続けるのだ。それ故に私は自分をこの場、この立場に縛り付ける善性の鎖と一刻も早く外へ連れ出そうと自分を安らぎに満ちる光の方へ引っ張る本能の首綱によって感情と人格が引き裂かれそうになって、何も行動することが出来なくなっていた。それから空気の歪むような引き伸びるノイズが入ると、次に困惑、後悔、怒りと恐怖の満ちたSの悲鳴がざらざらとしたノイズと混ざって聞こえた。それから悲鳴の確かな感情を繰り返す洞窟の反響と共に何か大きな質量を持った滑らかで粘液を纏う何かが床を擦る音が私の座り込む地面から聞こえてくると、無線機と「防空壕」全体から何度も何度も何度も何度も何度も固いものを砕き、潰し、柔らかく複雑な造形の肉を粘土のように混ぜ込み、練り上げながら巻き込んでその動物の肉体を乱暴に捻じ曲げて弄ぶ音が不等間隔に連続して様々な大きさで響き渡った。Sが叫び、喚き、自身の運命を定めた神への嘆き、懺悔、罵倒、怒号、愚痴を意味する単純な言葉の数々を複雑な感情のままに乱雑に吐こうとして、同時に自らを襲う本来人が体験し得ない人智と表現の歴史を破壊する程の認識の限界を超える苦痛に呻くが為に、正確な意味を成さない単語の混合物を精一杯に口から投げ出すと、それは遂に豆腐のような柔らかさを内蔵した容器状の骨を破壊したらしく、Sの口から吐き出される音が段々と崩壊し、バグったように震え、割れたように破裂すると、最後の力を振り絞って全く正しくない抑揚と発声で言葉を遺した。

「お父さん、お母さん、ごめんなさい」

彼が最後に謝罪を伝えたかった相手が持っていたはずの4つ目の無線機からの反応は一切なく、その言葉の後に粘土状の肉塊をひき潰す音が聞こえると、私の、恐怖を堪えて潜めた息だけが洞窟内で孤独に残った。それから再び洞窟内に重い地響きのような音が満ちると、彼らがその姿をくらませた横穴の漆黒から肉色のそれがぼんやりと見え始めたので、私は思わず手に持っていた無線機を投げ捨てて逃げ出した。小さな穴からとめどなく溢れ出すが明確な殺意を持って私の方へ蠢き始めたのは暗闇に未だ慣れない私の目でさえもその流動には気が付いた。とっくに懐中電灯は切れていたし、それを付けてわざわざグロテスクなゲル状の捕食者を見る余裕もなかった。走って階段を登る。もはや自分が走れているのかすら分からなかったが、足元で軋む階段の音だけが私に自分が逃げていることを実感させた。その流動体は私がいくら走っても全くその地を這う音を小さくさせず、私が足で階段を叩く音に続いて、その途轍もない圧力によって背後の段差を押し潰す音が響いた。そうして私が階段を登りきると同時にその肉色の粘液は階段を自重によって完全に破壊したらしく、断続的に響いた地面からゲルを引き剥がす音は急激に私の傍から離れて消えていった。私はそれが戻ってくることを恐れ、足早に洞窟から立ち去った。外はまだ暗いままだった。

それから、2人の勇敢なる挑戦者は戻らなかった。洞窟で見たものは何だったのか、更に奥に潜んでいたものは何だったのか。その洞窟は何の真実も明かさぬまま、洞窟の隠匿者達によって埋められてしまった。しかし、今でもそれは「防空壕」の深淵に潜んでいる筈なのだ。結局、様々な証拠を熱心に収集していたSが亡くなった為に、幼稚にして蛮勇なる我が好奇心は何も暴くことも成果を上げることも出来ず、私を不運な悪夢の被害者にして浅短で薄情な殺人者へと至らせたのみであった。私は私以外の他の何にも責任転嫁することはできない。この惨状はまさにSが私に「防空壕」の探索を提案した時から、私が選択を誤り続けてしまった応報の収束であり、禁忌を覗き見てしまった私への、我が子を傷つけられた超次元の存在からの罰なのだ。Kの両親は私を見て何も言わなかった。責めもせず、慰めもせず、ただ静かに我が子の死を嘆いていた。それから私はずっと悪夢に囚われている。あの時無線機から聞こえたSの弱々しい最期の言葉は、今なお私の耳に残って離れないのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る