Day30 色相

 自分の息の音だけ聞こえる。さっきまでうるさかった蝉時雨は、なかったことみたいで。やけに冷えた手が汗に濡れてて気持ち悪い。ズボンで拭って息を吐いた。スマホはなぜか電源が切れて、入る気配もない。

 抜け出すためにはどうしたらいい? 熊があの三人に俺をちゃんと送るように言った。熊のとこに戻ったら家まで送ったか確認するかも。そしたら気づくか? ちゃんと送ったって言いそう。じゃあ、ええと、熊人形を発動させるのに千切ってみるとか。やっこさんは千切ったらそのまま消えそうだ。それで動かなければ本当に終わり。

 ゾッとする。俺がいないなんて誰も気づかない。男が家に来たとして、いないから帰るだけ。こんな普通じゃない場所、警察にも見つけてもらえない。

 立ってられなくて座った。どうしたらいいかなんてわからない。望みがありそうな熊や三人やあの男が頭に浮かぶ。俺は助けを待ってるんだとわかってしまって、笑った。消えたいとか言っておいていざとなったらこれだ。誰か助けてなんて、なんて中途半端。目じりに涙が浮かぶ。だって仕方ないだろ。助けてほしいんだから。

 俯いてぼんやりしてた。だいぶ経ったような、あまり経ってないような。まだかなと思った。よくわからないけど、まだかな。

「迎えにきた」

 聞き慣れた声。振り向いたら男が立ってた。

「危なっかしいなぁ」と笑う男が信じられない。なんでいるんだ。

「なんで」

「視えた」

「……いなかった」

 信じられなくて声にトゲが出てしまった。迎えにきてくれたのに。口をつぐんで俯く。

「ごめ」

「視えるんだ。ほれ」

 俺の声をさえぎった男は俺の前にしゃがみ、片側の前髪を上げた。現れたのは光を湛える目。黒の中に青と紫、赤や黄色、虹みたいにいろんな色が浮かんでは沈んで、揺れている。美しく儚く瞬く光。

 前髪が降ろされて、びっくりした。見つめすぎてた。男は立ち上がり、俺も慌てて立ち上がる。

「ごめん、見すぎた。綺麗で」

「ああ、見た奴はそう言うなぁ。視え過ぎてしょうもないけどなぁ」

 歩く男の背中についていく。現金なもので、助かったと思ったら男の目が気になりはじめた。

「見えるってどうやって見えんの?」

「視たいものを考えて視れば視える。家が空だったから、どこにいるかと思えば迷子だったなぁ」

「置いていかれただけで迷子じゃない」

「あんまり変なのについていかんようになぁ」

 まあ、それはそう。大人なのに知らない人についてっちゃダメって言われるとは。

「ありがとう。迎えにきてくれて」

「十三には世話んなったからなぁ。気にしなくていい」

「爺さんに? なんの?」

「片方になっても視えすぎてなぁ。おかしくなりそうなときに十三が髪にな、まじないして隠してくれて、そんでずいぶんましになった」

 へえー。爺さんが、まじないを。どんな。というか。

「かたほう」

「ああ、片方は店主にやった。礼にな」

 えっ、片目を? なにしてんのあのマスター。片目もらってなにすんの。

「両方やっちまってもよかったんだけどなぁ、取り出したらすぐダメになったから、入れたまま使ってんのよ」

「……もったいない」

「なにがだ?」

「あ、いや、あげちゃうのもったいないって思って。綺麗だから」

「礼だからな」

 なんの未練もないような言い方になんとなく寂しくなった。マシになったって言っても持ってると辛かったりするんだろう。もったいないなんて無神経だった。

「あ、もし、あげちゃったら、今度は俺が喫茶店まで案内するよ」

 邪魔だろうけど何も見えなくなったら不便だし。迎えにきてくれたお礼だ。

「ははははは。そうか、そんときは頼む。迷子になんなきゃいいけどなぁ」

 男の笑い声が空に溶けるみたいに広がって、俺たちは庭に立ってた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る