第28話 荷台上の聖騎士

 頬を濡らす冷たさが、アレンヌを真白の闇の淵から引き上げた。


 砂埃と焦げ木が臭う荷台である。秣の上に敷かれた厚布を寝台に強行軍の物音を聞いている。視界一杯に広がる曇り空……日の光を遮る不穏な灰色を見るともなしに見続けて、思う。


 ―――私など、捨て置けばよかったのに。


 状況が最悪であることは確かめるまでもなく推察できた。


 あの夜を越えられたところで義勇軍の被害は甚大であり、聖殿軍団と合流するより他に選択肢は残されていない。帝都を前にして血眼と決戦することになるだろうが。


 アレンヌはもう灰騎を呼べない。


 召喚術の代価が支払えないからだ。いっそ笑えるくらいに身体がだるく、力が入らず、渇いている。ずっと血の味がしている。呼吸のたびに喉の奥がザリザリと音を立てる。背がぬるりとする。こすれて皮膚が破けたのだろう。


 荷台の揺れで背がひどく痛み、声が出た。咳き込むことでより痛む。情けなさに涙もにじんだ。


「よかった! もう目を覚まさないんじゃないかとハラハラしましたよ」


 嬉しそうにそんなことを言うのはウラタだ。荷台のそばを歩いていたらしい。


 あれやこれやと世話焼きなことも言ってくるから、アレンヌは水だけを求めた。起き上がれば出血を知られる。ウラタの手間を増やしたくなかった。


 ぬるむ鉄錆びの味を飲み込んで、問う。


「兵力は、どれほどか」

「六百と少々……ですかね、戦える人間は。同じだけ戦えない人数もいます」

「後方へ送らなかったのか」

「……公爵閣下の最期を伝令しました。城伯閣下は拠点を引き払ったはずです」


 アレンヌは予想済みの痛みを静かに耐えた。あの笑い声が真っ先に聞こえなかったからには、わかっていたことだ。


 公爵はもういない。二度と、共に過ごせない。


「……そうだったな。この作戦には二度目などない」


 公爵亡き今、義勇軍は敗残兵の集まりに等しい。それでも進む。兵站が放棄され安全圏へ戻る術もなく、負傷者を抱えたまま休息もろくにとらず、ただ黙々と敵勢力圏の深くへ進んでいく……一つきりの目的を果たすために。


「ポイは、どうしているかな」


 彼女を護るためだ。そのために組織された義勇軍なのだから、行く先は彼女のもと以外にありえない。


「まだ日も高いし、寝てるのでは?」

「心配しているだろうな」

「伝令は出しました」

「……そうか」


 どちらともなく空を仰いでいた。灰雲のどこかに切れ間を探し求めた。澄明な瞳をした彼女のことを心から想う。


 公爵の死を、ポイはどんな顔をして聞くのだろう……アレンヌはうなった。


 思えばむごいことだった。彼女を護るために大人たちは戦い死んでいくが、そんな大人たちの死を、彼女は見聞きし続けるのだ。これまでも、これからも、ずっとである。


「……公爵閣下は言っておられました。何事にも順序があって、それをまげてはならんと」

「フム? いかにも仰りそうなことだが」

「嬢ちゃんは十年ちょっとしか生きちゃいないだろうし、アレンヌ殿だって二十年以上ってことはないですよね?」

「ああ」

「公爵閣下やラマウット殿がまさか三十年より短かったってこともないでしょうし……だからまあ、つまりは、そういうことなんですよ」


 あいまいで、雑で、それでいて世界の真理とでも言わんばかりの口振りだったから、アレンヌは苦笑した。


「私の順番は、最後か」

「はい。大変ですよ? なんせ嬢ちゃんと思い出話をしなきゃならない」

「皆のことをか?」

「たまには。二人で美味いもんでも食いながら、笑ってください」


 泣かないためにつとめて笑った。叶えるのが難しい未来の中ですらポイとアレンヌの二人きりだった。心交わした大切な人たちとの愉快な食卓は、もう夢見ることすらできやしない。


 ゴロゴロと車輪が回る。最後の昼間が、分厚い雲におどろおどろしく遮られたままに過ぎていく。


「どうして」


 アレンヌの心にずっとわだかまっていた問いが、吐息のように漏れた。


「どうして血眼は、ああも恨みがましいのだろう……血涙を流しつづけて……」


 大陸東方より突如として湧き出でたとされる化け物の群れ。人間だけを執拗に狙い、なぶり殺すことを欲する。陽光の明るさを嫌い、夜に巣食い、鬱々とした瘴気に浸って不気味に蠢く。


 かの化け物どもは、まるで、人間に復讐するためだけに生まれてきたかのようである。


「……望まずの捨てがまり……」


 冷ややかにつぶやかれた言葉にギョッとした。ウラタが「しまった」という顔で頭をかいた。


「いや、昔、血の涙を流してくたばった奴がいたなあと」


 白布隊をやった時の話なんですけどね、と苦笑する。


「暗い男でした。誰ともつるまないくせに、聞こえよがしに不平不満だけは言う奴で……俺と違って学はあったみたいですが、どうにもままならない境遇というか、家族に捨てられたようなことも言ってましたね」

「……その男も、白布を巻いたのか」

「はい。ただ、覚悟も納得もしちゃいませんでした。恨んでましたよ。家族も、軍も、国も。自分をこんなにもみじめにしたのは自分以外の全員だって……そんな奴らのためにどうして死ななきゃならないんだって、泣いてました」

「そうか……それでも、血眼と戦ってくれたのか」

「……いいえ。陣地に火をつけて暴れたんで、俺が殺しました」


 乾いた風が吹き抜けていく。行軍のあれそればかりで草の香の欠片も嗅ぎ取れない。目眩に襲われてまぶたを閉じた。軍靴と馬蹄の音が戦場の情景を思い起こさせる。


 血の涙を流して叫んでいたのであろう名も知らぬ男と、声なき怨嗟を咆哮して襲い来る数多の血眼と。


 それらがアレンヌの中で重なった。奇妙なことに、それはアレンヌにも似ていた。


「社会に絶望した人間か……ひどい似姿だ」


 軽蔑も嫌悪も感じず、ただ哀しかった。


 アレンヌもまた同様の苦しみを抱え続けていた。父に存在を無視され、騎士団に冷遇されて、辺境戦線へ左遷された身の上である。何をするにも未練の上にのたうち回るような思いだった。誰かを恨まなかったとは口が裂けても言えない。


 ―――誰かに捨てられた人間は、どうするのが正解なのかな。


 幸いかな、アレンヌには出会いがあった。


 未練の末路を見届けるべくたどり着いた村には公爵が意気揚々と生きていた。派閥貴族に見限られ、祭殿から破門もされて、それでも大きな声で笑っていた。呆気にとられ、励まされ、頼もしく感じたものだ。


 そして、ポイ。


 粗製使い捨ての「祝福の子」として文字通り戦場に捨てられた彼女からすれば、聖騎士なぞは鼻持ちならない特権階級でしかないであろうに……アレンヌに対しまるで含むところがなかった。他の聖騎士や祭殿組織そのものに対しても同じだ。社会を恨む素振りは一切なく、むしろ世界に幸いあれと祝福していた。圧倒され、この上なく尊く感じたものだ。


 二人の在り様に心震え、アレンヌは未練に囚われることをやめた。


 もしも二人に出会えていなかったなら、未練と後悔に苛まれたまま、あるいは血の涙を流すような終わり方をしたのかもしれない……そう思うから、やはり哀しいばかりだったが。


「勝たなければな、ウラタ歩兵長」


 無理に上半身を起こし、背を隠すよう身をひねって、アレンヌは微笑んだ。


 衆目が集まってきたのだ。


 戦う気概を失っていない男たちへ恰好をつけなければならない。見れば別な荷台に聖騎士たちの姿もあった。軽く手を振る。互いの無事を喜ぶようにして。


「どれほど世界に絶望がはびころうとも、それに呑まれてやる義理はない。道理に合わない敵へ遠慮する必要もない」

「はい。さてはまた何か、勝つための手段が?」

「そう……だな。ないではないさ。聖騎士であるからには、非力なりの工夫というものがある」


 威勢のいいやり取りを周りへ聞かせつつ、アレンヌは確かに一つの手段を考えついていた。召喚術を使えない、剣を振るうこともできない身であれ戦いに貢献する手段をだ。


 たった一枚、黒衣をもらい受ければいい。あとは炎へと進む一歩だけでいい。


 身を捨てるわけではない。捧ぐのだ。助太刀してくれる者への感謝を胸に。


 恐怖はなかった。ただポイのことだけが気がかりだった。きっと公爵もそうだったのだろうと思い至り、切なさに涙がこぼれそうになったが、耐えた。微笑み続ける。


 刻一刻と暗くなっていく曇天へ、一竿の軍旗が掲げられている。帝都は近い。

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