第18話 聖殿軍団と聖騎士

 ルオプマス・ポスタ・ジュマランピルッカ。


 摩訶不思議な響きの名を持つ老人が、法衣をまといそこに立っている。居丈高な長身だ。かぎ鼻の上に並ぶ双眸は鋭利で、猛禽類の残酷さを思わせる。白い鷹に高みから値踏みされているかのような薄ら寒さが、アレンヌの頬を乾かしていく。


 大僧師だ。祭殿の頂点にして聖殿派の中心人物であり、この場においては軍団の顧問軍師でもある。


「言え。何があった」


 皇女が問うてきた。特等の椅子は座り心地が悪いらしい。


「聖騎士ロイトラ卿がコムニカッティオ公爵閣下へ刃傷に及びました。大僧師猊下の密命によるもののようです」


 大僧師は眉一つ動かさない。鼻の一つも鳴らしたならアレンヌは襲い掛かるつもりである。寸鉄も帯びていないが手枷もされていない。


「公爵の容体は。傷は深いのか浅いのか」

「回答を差し控えさせていただきます。暗殺を命じた者に成果を伝えるがごとき愚行を犯すつもりはありません」

「何ぃ?」


 老人の視線がチラと動いた。皇女が立ち上がったからだ。つまり老人は皇女の動向に気を配る必要があるということだ。聖殿軍団の上層部も一枚岩ではないらしい。


「……この私と問答をしていながら私を見ないか。なるほど。短剣の一本でもこの場でくれてやると言ったらどうだ?」


 上等な鞘と拵えだ。刃渡りは拳三つ分ほどか。左右、上下と振られた。皇女がニヤリと笑んでいる。


「説明しろ」


 アレンヌは再び断ろうと口を開いたが。


「左様、義勇軍を小都市に留めるべく聖騎士を派遣しておりました」


 老人が答えた。そしてそれは皇女の意図を正しく汲んだものであったようだ。皇女は聞く姿勢である。


「公爵を思いとどまらせられれば良し。思い切らせてしまった場合は非常の手段をもって阻止……旧神国派による私軍を聖騎士一人で阻むとなれば取りうる手段は二つ。一つには神剣の回収。一つには首魁の殺害。件の聖騎士は後者を実行した……そういうことかと」


 いけしゃあしゃあと述べる様はいっそ見事なほどだ。アレンヌの耳は周囲を探ってもいる。天幕の周囲には近衛兵が並んでいるが、今、彼女の間合いには老人と皇女しかいない。


「私は義勇軍への妨害を命じていないが?」

「イモータルレギオンの拒絶に賛意を頂戴しましたな」

「それはな。さては我が軍が後れを取るとでも思ったか」

「鮮やかな勝利は一度きり。その後は健闘が精々であるがゆえに」

「それがお前の賭け方か」


 皇女が剣を手に取った。かつては宝剣であったのかもしれない古錆びの大剣を。


 聖剣だ。


 しかし以前にアレンヌが見た時と様子が違う。刀身には無数の赤黒い傷がつき、茶褐色であったものが赤褐色へと変じている。血生臭さが、見た目だけでなく臭いとしても漂ってきそうだ。


 霊威もまるで違う。


 神剣のそれのような神秘の雰囲気は感じられないが、苦戦激戦を経たアレンヌをして息を呑ませるような迫力がある。筆舌しがたき熱狂……鬼気迫る戦意と咆哮……人間の戦争が武器の形を成したかのようだ。


「足りないか、これでは」

「あるいは及ばざるかと」

「……それほどか、狼は」

「報告にいわく、個としては虎に劣るも軍としては無比」


 両軍の間では頻繁に使者が行きかっていた。聖殿軍団側が百騎からなる連絡隊を複数運用していたからだ。互いの位置を確認し合うようなそれがロイトラの内偵報告にも使われていたのだろう。


 暗黙の了解であったに違いないそんな事実よりも、気になる二つの単語があった。


 狼。虎。


 どちらも特別な灰騎を意味する言葉だとアレンヌは知っている。


「剛毅なものだなあ……血眼の暴威へ挑みつつ味方に出し抜かれることを恐れるとは……いやはや呆れるも恐れ入る」

「全ては大陸から災厄を一掃するためにございますれば」

「で、あるか……大僧師が戦後を生きることはなくなった。遺言を用意しておけ。それを飾る美談もな」

「なるほど、それもよろしいでしょう」


 聞き違えたと思ったから、アレンヌは両者の顔色を繰り返し確かめたが。


「いっそ私を庇って死んだことにするか?」

「いささか信憑性に欠けますな。殿下はお強くていらっしゃるゆえ」

「では、病身を押しての従軍で力尽きたというあたりかな」


 誤解ではなかった。目の前で老人の死が決定し、その利用法が話し合われている。


「義勇軍は動くだろうよ」


 さらりと述べられた確信に老人の片眉が上がった。


「公爵が生きていようが死んでいようが関係ない。それで頓挫する程度の戦略を、イクス・レギオ・コムニカッティオ公爵ともあろう男が立案するわけもない。ピウマイネンも合流したのだろう? あの韜晦者のことだ、もしかすれば陰謀を逆手にとった鬼謀なのかもしれんぞ。事実、暗殺者は死に、首謀者も死ぬことになった。しかも、それを公爵配下の聖騎士が見届けているではないか」

「……いかさま左様で」

「そこで笑えんところが御坊の至らなさだな。絶望の底にあっても笑ってのける……その強さをわかっていない」


 ほろ苦く笑んで、皇女はアレンヌへ手招きしてきた。短剣を手渡された。


「大僧師の死を保証する、その約束手形だ。どうしても我慢ならん時が来たなら本来の使い方をしてもいい」

「……私は義勇軍へ戻れませんか」

「好きにしろ。何なら馬も武装もくれてやる」

「難しかろうと存ずる」


 初めて老人に声をかけられた。いや、これも皇女への言葉か。それともあるいは、アレンヌを逃さず殺すという宣告か。


「すでにして連絡隊は解散し、再編成の予定はなし。かの軍も進軍しているとすれば、単騎での探索行とならざるを得ません……あるいは護衛隊を組織されますかな?」

「そこまでしてやる義理はない。今や我が将兵は我が武運と共に駆け征くのみ」


 皇女の勇ましい言葉が、アレンヌには危ういもののように聞こえた。公爵にお供して面会した時のことが思い出される。くつろぐというよりはむしろだらけきった様子で皇女は言ったものだ。


「精々、思い残しのないよう賭けるといいさ」


 あれは心底からの本音だったのではあるまいか。勝敗や成否を軽んじ、どこかで諦めてやしないか。自棄の投げやりさで決戦に臨もうとしていないか。


 老人も、何かが危ういように思われる。


 今しがた死を宣告された人間が、なぜああも表情を変えずにいられるのか。人としての何かが壊れているのか。それとも自らの命よりも重んじる信念や目的があるのか。


 ―――戻るべきだ。私が戦い果てる場所は、ここではない。


 どうたどり着くかを脳裏に検討し始めた、その矢先だった。天幕の外から切羽詰まった声が届いた。


「ご無礼仕る! 殿下!」


 近衛兵だ。入口の幕の払いかたが荒い。


「東より敵! 総騎兵! 数、およそ二千! 奇妙な血眼に統率された、すさまじき速さの集団であるとのこと!」

「迎撃の陣を組め。騎兵をまとめろ。灰騎は―――」


 鐘が打ち鳴らされた。目視できる距離にまで迫られた。斥候隊は何をしていたのか。いや、どうして斥候兵でなく近衛兵が報告している。


「―――騎兵を出せ。全騎で牽制させろ」


 一人の近衛兵が走り去った。別の者が十数人と控えている。周囲が剣呑さに騒々しくなっていく。


「灰騎召喚を急げ。全て出させろ。温存はなしだ。立てん者も火の前へ連れていけ」


 悠然と命令を発しているが目元は険しい。武装もそこそこに急ぎ歩く。恐らくは篝火へ向かっている。走りはしないが明らかに気が急いている。老人が聖剣を抱えて後に続く。音から察するに法衣の下には鎖帷子を着込んでいるようだ。


 兵士たちの動きはいい。どの一人も指示されるより早く動いている。そうすることでしか生き残れないし、そうやって生き残った者だけがここにいるのだろう。早くも騎馬隊が出発していく。列を乱す一頭とていない。馬もまた調教とは別のところで洗練されきっているのかもしれない。


 黒衣の一団がいた。


 幼きから年嵩まで様々だが、どの一人も痩せ衰えていて生気が感じられない。よろよろと並び歩く様は死出の行列とでもいうべき不気味さだ。まっすぐに歩くのは兵士ばかりで、それらの手には木の棒や毛布の端が握られている。病臥するがごとき女を……やはり幼きから年嵩まで……黒衣をかぶせて運んでいく。


「……ああ……」


 声が漏れた。


 ロイトラの声が、息遣いが、体温が、手のひらのやさしさが思い出される。


「……私たちは、哀れだ……」


 血の色に染まっていく空へ馬蹄の巻き起こす砂煙がもうもうと上る。近づいてくる。歩兵隊の喊声が上がり、早々に怒声から悲鳴へと変わっていった。


 来た。遠く、その姿が見えた。


 血眼だが血眼のようではないあれは、何だ。


 暗黒を騎兵の形に圧縮したかのような姿だ。漆黒の甲冑には光沢がなく、無数の死を思わせて禍々しい。身に備えた三種の刃はいずれもおぞましく蛇行して奇怪極まる。兵列越しに目が合った気がした。死よりも酷薄な紅色が、お前は死ぬのだと告げている……そう思われてならない。


 叫んだのはアレンヌか、それとも他の誰かか。


 アレンヌはただ願った。希望があることを願った。神々への祈りではなしに、月に照らされる灰色へ、この世のものとも思えない剽悍へと願ったのだった。

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