第5話 聖騎士の困惑

 質素ながらも清められた居間で、聖騎士アレンヌは食の悦びを知った。


「ヌッハッハ! ありがたく食べよ食べるがいい! まあ、屑肉を練り丸めたものではあるのだが……細かに刻み炒めた丸葱と、乳を含ませたパン粉とを混ぜ込んであってな? それをただ焼いただけで終わらず、赤果実酒を加え蒸し焼きにすることでもって香り豊かかつふんわり食感に仕上げたのだ! ヌハハ! 噛めば噛むほどに滲み出す芳醇を愉しめい!」


 返答できない。何とかしようとすると「よいよい」と制された。甘える。なぜならば美味すぎる。弾むような歯応えが痛快で、舌へ広がる重層的な味わいには唾液が止まらず、飲み下すと腹の奥深くへ力強く熱が蓄えられる。蒸気のような何かが鼻から漏れ出しそうだ。さすがに無作法であろうか。


 いや、先んじて興奮を噴霧する者がいる。


「はむっ! はむっ! グッフィィィ! はむはむ!」


 ポイという名の少女だ。卓へ前のめりになり皿ごと食らう勢いである。聖別黒衣を羽織っているからには召喚術者であろうし、全体として色の薄い容貌からも察せられるものがあった。


 祝福の子―――口減らしと戦力増強とを兼ね備えた施策に祭殿が美名を飾り付けた、消耗前提の粗製術士。


 かつて戦場で見かけた彼女らに比べると、随分と印象は違う。瞳に力があり鼻息が荒く、血色が良くて鼻息がとても荒い。あと咀嚼が高速だ。確か祝福の子らは聖水の他には飲食できないはずだが。


「どうしたアレンヌ卿。匙が止まっておるぞ? ヌハハァ、さては息継ぐ清涼をお望みかな?」


 パンが追加され、水が注がれ、野菜を盛った小鉢が差し出された。至れり尽くせりとはこのことか。


 イクス・レギオ・コムニカッティオ公爵はいかにも大貴族らしい風体で、なるほど噂通りの言動ではあるが、どうにも全貌を捉えがたい。神国派といえば既得権益に固執する高慢な集団と聞いていたものの、目の前の実際は公爵手ずからの調理と給仕である。


 村の雰囲気も奇妙で見慣れない。


 砦以東とも思えない明るさと健やかさがあって、敗残兵同然のアレンヌを暖かく迎え入れてくれた。聖騎士であることを明かしても態度は変わらず、公爵を筆頭として村人たちの誰もが下にも置かない扱いをしてくる。


「不思議かね?」


 静かに、しかし聞き逃せない響きで問われた。公爵が微笑んでいる。


「確かにここらの村々には軍の保護が及んでおらんし、祭殿の援助もまるで届かん。しかし、だからといって、必ずしも人心が荒廃し悲惨無残に成り果てるわけではないのだ」


 頷けなかった。アレンヌはそう成り果てた人々を見てきたからだ。


 泣かれた。怒鳴られた。すがられた。「お前らが」と凶器を突きつけてくる手の隣から、「この子だけでも」と赤子や子どもが差し出す手が伸びてきた。痛切な声が、今もアレンヌの耳にこびりついている。廃村に転がる遺骸も声なき声で糾弾してくるのだ。覗き込めば、眼球なき虚ろに血が沸いていたのかもしれない。理不尽な被害を恨み抜いて。


 棄民だからだ。


 縮小を続ける生存圏の外縁に置かれ、もはや仕方がないと見捨てられて、その死を誰に惜しまれることもない……生きたいと願うことをすら我儘と蔑まれる……それが不憫でなくてなんだ。不正でなくてなんだというのか。


 アレンヌは聖騎士だ。捨てられた民からすれば冷酷な権力者の側の人間だ。


 しかし、彼女もまた捨てられたからここにいる。生還を、誰にも望まれていない。


「人は、希望があれば生きられる」


 希望。どこにそんなものがあるのだろうか。血眼は際限なく襲い来るというのに。


「儂のような年寄りからすれば若者たちは希望そのものだ。そんな若者たちが希望を抱けるよう、儂も威風堂々たる背中を見せねばならんがな? それがまあ、大人の甲斐性というものだ」


 理想論や空論の類に感じたから、アレンヌはうつむいた。善性には違いないから腐したくなかった。


「さておき、だ。アレンヌ卿。神剣を知っているかね?」

「……存じ上げております」


 この人物は夢の語り手なのかもしれないと思う。民衆の心を安んじるために弁を振るうことは一つの正しさだ。政治や宗教の本質でもあろう。


「どう知っておる? んん?」

「始祖帝が神より賜った至宝でありましょう」

「正確には、佩剣へ神が直々に祝福を恵みお授けになられたものだ。それは世界の中心に灯った篝火であり、降臨の道標であるとの御言葉も伝えられておる。それゆえに皇帝の証として継承されてきたのだ」

「……祭殿のものとは異なる伝えられ方なのですね」

「あちらはあちらで正統ではあるがね」


 言葉に出さなかったが、アレンヌにとって神剣とは神国派の象徴としての印象が強い。徒労や妄執の象徴でもあるかもしれない。


「神剣こそ、人類の希望である」


 生真面目な表情だから、アレンヌは戸惑った。常軌を逸した顔をしてくれた方が、まだしも対応を迷わないのだが。


「崇め祀るためではない。決戦戦力としてだ。神々が最後の力でもって人類にお与えたもうた奇跡、すなわち召喚術……それを最も強力に発動できる媒体なのだよ、神剣は」 

「何を証拠に、そうも言い切ってしまわれるのでしょうか」


 非難だったかもしれない。言わずにはいられなかったが、申し訳なくも思い、顔色を窺った。


「帝室の伝承と、我が家門の秘伝と、この村の現在が証左である」


 ギョッとした。あまりにも誇らしげな笑顔で受け止められてしまった。絶品料理を運んできた時よりも得意げである。


「初めは九騎百卒からなる襲撃を打ち払った。次には五百卒へ先制してことごとくを討った。三度目は三十騎による奇襲を跳ね返し、追撃してさらに三百卒を討ち破った。嘘ではないぞ? 三度目の戦いは砦の騎士がいみじくも観戦確認する運びとなったからなあ。さしもの砦司令部も陳情を無視できまいて」


 やってくるであろう部隊と共に帰還するよう薦められたが、聞き流した。それどころではなかった。数字が具体性でもってアレンヌを揺さぶる。


「そんなこと……どうして……どうやって」

「無論、神剣の恩寵である。村人たちの敬虔な祈りの賜物でもある。しかしまあ、抜群の功労者が誰かといえば―――」


 満面の笑顔に慈しみを加えにじませて、公爵は少女の頭を撫でた。


「―――ポイだ。この小娘の大なる献身が、神剣を神剣足らしめておるのだから」

「もっと食べたい」

「ヌハハ! 肉汁を使っての特製キノコ炒めを作ってやろう! しばし待つがいい!」

「伯爵大好き」

「公! 爵! 帝室の藩屏にして名門中の名門たる公爵家であるぞよ!」


 少女が手を叩いて喜び、公爵が意気揚々と台所へ向かう。まるで親子の団らんである。使い捨ての粗製術士と奇行の破門公爵のやり取りには見えない。あまりにも温かい。


 チクリと胸が痛んだ。唇を嚙む。音を立てないよう深呼吸もひとつ。


「ポイ殿……その、君は……」


 アレンヌはためらう。少女を傷つけるつもりはなく、保護すべき対象であると理解してもいる。ただ問いたかっただけだ。同じく召喚術を使う人間としての疑問を、である。


 だから、問いを声に出した時、アレンヌは自らの言葉の鋭さにおののいた。


「君は、あと何度、灰騎を呼び出せる気でいるのだ?」


 吐き出してしまったなら、もう止められない。


「もう、もう、随分と命を使ってしまったのだろう? 祝福の子は皆そうだ……火にくべられた枝木のように、さっと燃え上がり、すぐに燃え尽きていく……なあ、わかるだろう? わかるよ。私もわかるんだよ。かけがえのない何かが身体から消えていく喪失感……避けがたい終わりへ近づく焦燥……ウウウ……そうまでしたって、もうどうしたって! 人類は、血眼に勝てっこないのに!」


 涙が後から後から溢れ落ちて、何も見えない。嗚咽がむせてむせて、息も吸えない。


 とうの昔にアレンヌは絶望していた。聡明であるがゆえに察してしまったのだ。この戦争に勝ちの目はない。血眼は交渉不可能かつ根絶不可能な暴力であり、つまりは致命的で終わることのない災厄である。相手取るには勝敗ではなく存亡をかけねばならず、ただの天災にすら震え怯える人類は滅びることが確定している。


 戦い抗っても、わずかな延命にしかならない。部下たちの死闘も、召喚術による命の消費も、決して報われやしない。そうとわかっているのに、悲しい思いばかりを重ねさせられる。


 ふと、アレンヌは自分が温かさに包まれていることに気づいた。


 ポイだ。


 頭二つは背の低い少女が、アレンヌの頭を抱え、黒衣で包み込んでいる。小さな手で髪を撫で、読経めいた何かを唱えて……歌詞の一つを捉えることでそれが子守唄らしいと推察はしたが、あまりにも抑揚がなく確信は持てない……とにかくも自分を慰めようとしてくれているのだと、アレンヌは感じたのである。


「大丈夫。勝つし。ぼくの灰騎すごく強いし」

「その通りよ! 命も然り! 使ったなら、そうら! 補えい!」


 ドカリと置かれた皿からフワリと得も言われぬ香ばしさが漂った。肉厚のキノコがテラリと黄金の光沢を放っている。


「命とはつまるところが健康のこと! 美味いものをたっぷりと食べ、よく飲み、たっぷりと休む! これに勝る処方などあるまいて! ヌワッハッハッハッハ!」


 あんまりに乱暴な理屈を、あんまりに底抜けの陽気さで浴びせられたから、アレンヌは涙が止まった。呆気にとられてしまったのだ。ポイの分と自分の分と、二つ用意された皿の湯気を胸いっぱいに吸い込む。胸の奥が温かくなっていく。


 彼女の部隊を壊滅させた血眼百騎が村へ来襲したのは、その三日後のことであった。

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