6 眠れない夜に
夜の森の奥、月明かりのスポットライト。ターコイズブルーの水面が美しい小さな泉の上で、私たちはワルツを踊っている。
夢のように清廉な空間で、シロール様の手は私をこの場に繋ぎ止めてくれる。ここにいるだけで、全身が身体の先からきらきらと輝きを放つような気がする。
この人とこの星屑が煌めく空間で踊ったまま、朽ち果ててもいいと思えるくらいに。
私は、今。
*
遡ること数刻前。私はベッドで寝返りを何度もうっていた。もう深夜だというのに、欠片も眠れない。起きて魔法の研究でもしようかと思ったが、また昼間寝不足になっては大変なので、少し眠りに入れるか努力してみようと、寝返りを打っている。
ミークさんの件から3週間が経過した。たったひとり、されど大事な領民のうちのひとりを拒絶しても、日々は続いていく。彼女は荷物をまとめて別の領地へと移ったらしい。
シロール様は今も、ミークさんの両親が営む菓子屋を利用している。もちろん私に一言断りを入れて、私もそれを了承した上でだ。
『わたくしは性格が恐ろしいほど悪いので、嫌な相手と話すときに手土産であそこの菓子を持っていくことにします。娘の幼稚な行為が原因で、腕のいい菓子職人に死なれでもしたら面倒ですから。それにオニキス家の者の顔を見せれば、嫌でもわたくしの大事なキヌヨ様に楯突いたことを思い出すでしょう?』
言っていることはあまりよろしくなくとも、あそこの菓子を気に入っていることと、菓子職人の心配をしていることは本当のようだった。
ふわふわの枕の感触がなんだか鬱陶しくなってきた。私は起き上がり、雷魔法を指先に貯めてライト代わりにし、部屋を後にする。どうせなら今日の魔法の研究の続きでもしようと、月明かりに照らされた廊下を進んだ。
夜の屋敷は昼間と違ったおどろおどろしい雰囲気があって、私は唾を飲み込む。指先の雷と月明かりを頼りに廊下を進んでいくと、このふたつの光以外の、部屋から漏れるぼうっと柔い明かりが見えた。あの鉄の重い扉は、シロール様の執務室だ。まだ起きているのか。私は以前電気をつけっぱなしで寝てて、シャインさんに「暗くして寝た方がすっきりしますよ。ただでさえお忙しくしてるんですから」と助言をいただいたことを今思い出した。
ドンドン、と扉を叩く。返事はない。が、小さく足音が近づいてくる。
「ニルナですか? 王城からの手紙、やっぱり____」
「あの、こんばんは」
「……キッキッキ、キヌヨ様!? お茶とお菓子を用意せねば。あとこの世にある全ての美しいものをこの場に」
「落ち着いてください。私は何もいりません」
「だめですよもっと欲深くないと! せっかく森羅万象はキヌヨ様のためにあるのですから!」
「深夜だから情緒おかしくなってますね」
私がじっと見つめると、シロール様は咳払いをする。
「失礼いたしましたキヌヨ様、こんな夜更けにどうされました?」
「それはこちらの台詞です。シロール様はこんな夜更けまでお仕事ですか? 私でよろしければお手伝いします」
「あぁ、いえ。仕事というよりかは趣味です。様々な領地の情報を探っておりました。新聞読んだり、空間魔法で小さく穴開けて会話聞いたり」
「お疲れ様です。私だって耳あるんだから聞き役くらいしますよ」
「ありがとうございます。けれど大事なキヌヨ様に、わたくし以外の心が汚い者の戯言を聞かせたくないので」
さらっと流してしまったが、盗聴はよろしくない。いくら敵だらけの世を生きるとはいえ。けれどこの人は盗聴してることがバレるようなヘマは絶対しないし、たとえやめろと私が言おうとも絶対にやめそうにないので、私はスルーしている。
シロール様に案内され、私は部屋に入る。革のソファにずしりと腰かける。彼は新聞を閉じて、どさりとゴミ箱に入れた。
「そうだ、キヌヨ様。今はお疲れではないですか?」
「はい。まだすごく体力あります。最近ニルナさんとシャインさんのおかげで、筋肉もついてきましたし」
「よかったよかった。虫は平気ですか?」
「えぇ。貧乏だった頃よく食べてました」
「な、なんと……。その情報は初耳です。ま、では決まりですね」
「何がです?」
彼は空間魔法を発動した。ぶうん、と心地よい低音がささやかに鳴る。
「さぁ、わたくしの鬱憤ばらしもとい、気分転換というやつです。わたくしとワルツを踊りに行きましょう、レディ」
*
魔法で開けた空間の穴をくぐると、そこは夜の森の中だった。シロール様に手を引かれ、手入れされていない雑草が生える地面へと足をつく。
「足元お気をつけて。暗いのでわたくしの手を離さないでくださいね」
「はい」
ざあざあと草を切って歩く。気分転換。その言葉の意味はまだわからないけれど、夜の涼しさと、シロール様と繋ぐ手の感触が心地よく、私は自然と星を見上げていた。口には出さないが、このままずっとこの夜を歩いていても構わないとさえ思う。
「緊張しますね、こうやって手を繋ぐのは」
「ふふ。初めて会った日に、もうしっかりと繋いだのに?」
「あの時も実は内心、汗をダラダラかいておりました。憧れのキヌヨ様の手を握る日が来て、そして同時に貴女様が美しすぎて、舞い上がっていましたよ」
「シロール様、実は可愛いですもんね」
「かっ、かか、か、可愛い? 初めて言われました……録音するのでもう一回」
「いやです」
私はふい、と首を横に振った。シロール様が肩を落とす。彼に気づかれないよう視線を向けて、私は隠れて口だけ「可愛い人」と声にならない声でつぶやいた。
少しして、小さな入り口の、真っ暗な草のトンネルに辿り着く。「ここです」とシロール様に言われるがまま、身をかがめ、天然の草の洞窟を進む。
「ふぅ、足は辛く、ないですか? もうすぐ……ほら、あそこ」
シロール様の手を握る力がわずかに強くなる。私はうずうずとした気持ちのまま、足を進め、トンネルを抜けた。
澄んだ蒼の香りがする。鼻をかすめると思わず姿勢を正してしまうような、美しい森の香り。ぼう、と月明かりを反射する白い葉の木々に、底までしっかりと見通せる透明度の泉。夜光虫がちらちらと、穏やかに飛び回る。湿った草原に咲く小さな青い花は、夜風にさらさらと揺れていた。
私の手を離し、シロール様は気持ちよさそうに伸びをした。
「わたくしのお気に入りの場所でございます。誰にも言わないでくださいね。頭を透明にしたいときにくる、子供の頃からのわたくしの秘密基地ですので」
「そ、そんな大事な場所を、どうして私に教えてくれるのですか?」
「……今の貴女様に、見せたかったのです。ここに来ると、どんな現実も薄れていくから」
彼の顔は真剣だった。私は少し目尻を下げて、斜め下に視線を逸らす。
「やっぱり、シロール様には隠せないですね」
「あの無礼極まりない勘違い女のことですか? キヌヨ様が気に病むことは何ひとつありません」
「それもありますが……。情けないんです。自分自身が」
親指で耳に触れ、すぐに手を戻す。私はおずおずと口を開く。
「彼女に罵倒されたとき、怒りを感じました。自分で思う以上に、しかも久々に怒ったせいで、私は彼女を脅すような言葉を口にしていた」
「それは、あの女が」
「いいえ、あれが本来の私なのでしょう」
ゆっくりと俯く。今自分がどんな顔をしているのか、わからない。
「己を馬鹿にされた怒りに任せて、己の得意な魔法で人を脅すような、そんな野蛮な人。それが私です。いくら私が本当に雷魔法が得意で、本当に人間ができていなくとも、ひとつ間違えれば言い逃れできない状況だったのに。あんな安い挑発、きっと貴方様ならすぐにわかった」
あの時、もしシロール様たちが魔法で聞いていてくれなければ。怖い。考えてしまうと、指先が震えるほどに。
「たまに恐ろしく思うのです。もし今の私が王城や、元の世界の優しくなかった人たちに会ったら、怒りに任せて人を殺すような魔法を放ってしまうのではないかと。自分の感情を抑えきれず、衝動が止まらなくなってしまうのではないかと、そんな妄想をすることがある。それも、頻繁に」
私は幸せになれば、全てを笑顔で迎えられると思っていた。悲しかった記憶を温かく抱きしめて、これからの未来も、笑顔で乗り越えていけると。
私は今、幸せだ。なのにどうしても、過去のことを未だ睨み続けている。笑顔で温かく抱きしめてなんかいられない。言われた陰口の一言一句を忘れることができない。
「こんなことを口走っている時点で聖女失格です。いつだって私は人をがっかりさせる。昔から、今も」
「ふざけないでください!」
心臓が跳ねる。シロール様の顔を見上げる。彼は破裂しそうな瞳をこちらに向けて、私の手を取り、跪いた。
「貴女様、いえ、貴女は何も分かってない。わたくしの愛がどれほど薄暗く、醜く、執着に満ちているか。わたくしはねぇ、貴女が人を殺そうが、血まみれになろうが、世界を滅ぼそうが、必ず離しはしません。これから永劫に。意地でも隣にいてやります。ネズミのしっぽを噛むように意地汚く這いつくばってでもね!」
「落ち着いてください」
「これが落ち着いていられますか! あぁ……どうやったらわたくしの想いが伝わるのでしょう。婚約なんぞだけではだめか。毎日二人で旅行します? 毎月貴女のためだけに他の領地ぶんどってきます? あ、逆の発想で部屋に24時間一緒に過ごし___」
「飛躍しすぎです……」
「とにかく!」
シロール様が私の右手を、大きな両手で包み込む。
「貴女にがっかりしたことなんて、今の今まで一回もないし、これからも、わたくしの今生で絶対にありなどしない! そもそも聖女なんてものに正解はなく、人間に正解などないんです。わたくしも貴女も、王家に敵対するような人だから、きっと周りの俗物どもに腫物扱いされてきたことでしょう。だからこそわたくしは貴女が好きだ。貴女が悲しむのは身を切られるほど辛かったけれど、貴女に助けられて嬉しかった。貴女を助けることができて、嬉しかった!」
「シロール、さま……」
「貴女はあのときメイド姿のわたくしを助けたこと、わたくしが貴女に婚約を申し出て連れ去ったこと、この領に来たこと、後悔してますか」
「そっ、そんなわけないでしょう……! 助けられたあの日から最高な私の人生は始まったんですから!」
つい口走って、私はシロール様を真っ直ぐに見つめた。彼は笑っていた。それもにんまり、満足が溢れ出る堂々とした、ちょっと腹の立つ笑顔で。私はじとりと湿った視線を向ける。
「シロール様、怒ってるふりして私を誘導しましたね。視線の移り方から口調まで、まんまと騙されました」
「なんと。誘導にお気づきになるとはさすがはキヌヨ様。でも全部が誘導ではございません。貴女に伝えたすべての言葉と、ムッとしたのは紛れもない本心でございます」
いつもの綺麗な微笑みを携えて、シロール様は立ち上がり、膝を手で払う。するりと手が離れる。
「まぁまぁまぁ。そういうことですから、わたくしは宇宙で一番貴女を愛してるってことで。この話は終わり」
彼はまた伸びをする。けれど私はぽつりと、一つの単語が心に引っかかった。
「あの、この世界にも宇宙ってあるんですか?」
「……へ」
「私、天上には女神が住んでいて、その女神様が人々に魔力を与えたから、この世界には魔法があるんだって教わって、宇宙なんて概念この世界には欠片も……シロール様?」
シロール様の眼がぎこちなく揺れる。動揺。開いちゃいけないオルゴールの箱を開けたような、得体の知れない不安が喉元に溜まる。
すっと、唇に彼の指が触れる。
「この話も終わり、ですよ。……いつか必ずお話します。だから今は、夢を見させて」
指が首元に移り、するりと私の手に流れる。ぎゅっと手を引かれていく。
「さぁ今、水の表面を歩くことができる魔法をかけました。何もかも忘れて踊りましょう、キヌヨ様」
「え、わ、泉に落ちる!」
「はは、落ちませんって!」
本当は聞きたいことはまだあった。けれど、彼が子供のように笑うから、笑うから、もう。私は彼の笑顔に甘い。それがどういうことを意味するか、私は本当はもう、気が付いている。
「シロール様、踊りまで上手なんですね」
「えぇ。貴女というお姫様をエスコートするために、たくさん練習しましたからね」
夜の森の奥、月明かりのスポットライト。ターコイズブルーの水面が美しい小さな泉の上で、私たちはワルツを踊っている。
夢のように清廉な空間で、シロール様の手は私をこの場に繋ぎ止めてくれる。ここにいるだけで、全身が身体の先からきらきらと輝きを放つような気がする。
この人とこの星屑が煌めく空間で踊ったまま、朽ち果ててもいいと思えるくらいに。
私は今、恋をしている。
*
同刻、王城で怪しげな取引が交わされていることを、この時の私たちは知る由もなかった。
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