4 レバー(鼻血描写注意)


 古い魔法の本を閉じて、猫のようにぐっと背伸びをする。小さな窓から差し込む日差しは暖かで、研究机に置いた手を柔く包む。


 コンコン、とノックの音がした。


「失礼いたします。ニルナです」

「どうぞ」

「キヌヨ様、そろそろおやつの時間ですよ……ってまたそんなにクマを作って! 昨日徹夜なさったから今日は仮眠をとると仰ってたのは誰ですか!」

「私です。仮眠はとりました」

「何時間……いや何分ですか?」

「1200秒……」

「20分しか寝てないじゃないですか! 秒数にしてあたかも寝てる風を装わないの! おやつ食べたら寝ましょう。さもないと、この間シロール様が作ったキヌヨ様への特製の歌をこの部屋にずっと流し続けます。ずっとですよ」

「脅迫じゃないですか」


 私はしぶしぶ頷き、ニルナさんとともに部屋を出た。


「まったく、キヌヨ様ってば働きすぎです。俺は心配ですよ。せっかくこの屋敷に来たばかりの頃より顔色も良くなったのに。いつか24時間働ける魔法とか生み出しそうで怖いです」

「はっ……! ニルナさん天才ですか?」

「こらこらこら部屋に戻ろうとするな」

「冗談です」

「キヌヨ様の言うことは冗談に聞こえないからなぁ」 

 

 ニルナさんに今日のおやつのシュークリームがいかに美味しいか話を聞きながら、食堂へと向かった。


 この屋敷で過ごすようになり、数ヶ月が経った。最初は慣れぬ書類を使った作業や魔物との戦いで大変だった。聖女としてこの国の基本知識はあれど、書類を処理することには日本にいた頃からずっと慣れてなかったし、魔法の研究と実戦は違う。魔物といえど命を奪う行為は、未だ慣れない。


 それでも毎日楽しくやっていけているのは、周りの人たちのおかげとしか言いようがない。私はたくさんのものを、素敵なこの屋敷の方々、そして大切な領民の方々からもらった。


 オニキス領は魔物が生まれる瘴気があるため、魔物との第一戦線として知られている。王都などからわざわざやってきて危険な地に好んで住むものは殆どいない。


『やってくるのは元犯罪者か命知らずの馬鹿などが多いですね。それでも来てくれるだけありがたい方ですが』


 ニルナさんにこの領地のことについて教わっていたとき、そう聞いた。それでも領地運営が破綻しないのは、シロール様のお父上、オニキス辺境伯の敏腕と、その後継者であるシロール様の優秀さが一番の理由だとか。


 後から聞いた話だが、ニルナさんとシャインさんも、幼い頃は犯罪者の一味にこき使われていたらしい。道具のように扱われていた環境で、ひょんなことからオニキス辺境伯とシロール様に救われ、今があるのだという。「俺がこんな口調であの方と話せるのも、腐れ縁、綺麗に言えば幼馴染というやつが理由です」とニルナさんは少し恥ずかしそうに笑っていた。


 話は逸れたが、もちろん、これまでの日々の全てが順調だったわけじゃない。一番手強かったのは私の心だった。何をするにも「これやったらご迷惑じゃないか」と不安に駆られ、何度もニルナさん、シャインさんに確認してしまう。そんな自分が嫌で、周りの優しい人に申し訳なくて、もし嫌われたらと不安で。しばらくの間毎日、私は夜は寝ずにずっと魔法の研究をしていた。夜にベッドに入ると手足の指先が冷たくなって眠れなかった。役立たずのままでいる事実が、ひどく私から体温を奪っていった。


 そんなことをしていたから、バチが当たった。昼間のニルナさんとの事務作業中に私は眠くなってしまい、こっくりと危うく眠りそうになってしまう。あまりに自分が情けなくて、私は咄嗟に、氷の魔法で作った氷柱で己の手を思い切り刺した。眠ったらいけない、とにかくその一心で。


 幸いニルナさんにすぐに治癒魔法をかけてもらったおかげで傷は残らず、そこまで痛くなかった。医者に休養が必要だと言われ、しばらくの間ベッドに寝かされた。ふかふかの枕に頭を預けたまま、ずっと呆然としていた。判断力が鈍っていたとはいえ、なんてことをしてしまったんだろうと。慌てて駆けつけたシロール様があまりに辛そうに眉を下げるから、私もつい本音をこぼしていた。


『私はもう人間としての感情がないんです。役立たずで不気味で壊れてて、本当にごめんなさい。でも、どうか捨てないでください。迷惑な上わがままでごめんなさい。生きていてごめんなさい』


 何度も謝ることしかできない。そのくせ、身勝手な言葉しか出てこなかった。


 シロール様は目を見開いた後、私としっかりと視線を合わせる。初めて見る、見ているこちらの意識がはっきりと戻るほどに真剣な表情だった。


『壊れてたっていい。わたくしはこの領地のために、感情など不要だと押し殺して、貴族社会に立っています。けれどキヌヨ様は、悪意で心を壊された。自分で押し殺すのと壊されるのは違います。貴女様は何も悪くない』


 手がじんじんと痛む。手だけじゃない。身体の中の手が届かないほど奥にある、心も。いや、痛みじゃない。この、心が色づいて滲むような、何かが甦るような感覚は、なんだろう。


『わたくしが窮屈極まりない貴族社会でも、運良くのらりくらりと生きているのは、お人よしな周りの人々の存在と、貴女様という光があったから。だから今度は、わたくしがキヌヨ様を照らす番です』


 私は唇を小さく折り、噛み締める。どうしてこんなに優しいのだろう。どうしてこんなに、私を光だと言ってくれるのだろう。私のファンだから、という理由だけじゃない彼の優しさが、鼻に残る自分の手から出る血の匂いを消していく。


『貴女様が不気味な聖女なら、わたくしは辺境の呪われ魔術師ですよ? おそろいで嬉しいですね』


 私はずっと、自分が間違っていると思っていた。実際そうだったことも十分にあった。けれど、貴方は悪くないと、その一言がずっと、私はずっとずっと、欲しかった。


 その後私が眠りに落ちるまで、シロール様はおしゃべりをしてくれた。話す内容は「この間不当な行為を行う貴族くずれをボコボコにした」だとか、「この間の貴族主催のパーティーで魔法を馬鹿にする奴がいたから今弱みを探っている」だとか。


『ほら、わたくしなんて今言ったような性格悪いことたくさんしてますよ。血だっていっぱい見てきました。だからキヌヨ様の手から出ている血の一滴や二滴、なんにも迷惑じゃないです。ゆっくりおやすみください』


 シロール様の言葉に微笑みを返し、私は眠りについた。


 この一件以降、私はなんだか前向きに、背筋を伸ばして様々なことに打ち込むようになる。迷惑をかけたニルナさんには何度も謝罪した。そしたら明るい笑顔で「今後は俺も遠慮なくいきますから! まずは健康第一!」と言われた。その後、シャインさんも合わせて私たち3人は、毎日一緒に運動をする仲になった。


 シャインさんには人付き合いの練習をお願いして、笑い方や話し方の練習などに付き合ってもらっている。彼女の自己肯定感が高い上に明るい性格のおかげか、私も少しずつ人間らしい会話ができるようになっていった。話す練習の一環として定期的に催されている、屋敷のメイドさん4人を集めての女子会は何度やっても楽しい。第一回のときなんか、しばらくたっても思い出すだけで心が弾むほどだった。


 そして、今がある。まだ完全に取り戻したわけじゃない私の感情や、魔物の討伐等、まだまだ問題はある。けれど、一歩ずつ進んでいる。そう思えるくらい、人生の中でが一番今が、明るい光の中を歩いている心地がするのだ。



 夜。湯浴みの後、シャインさんに髪を熱魔法で乾かしてもらっている時だった。


「キヌヨ様、街づくりって興味あります?」

「街、ですか。憧れはあります。自分が好きな美味しいご飯屋さんを集めた街とかあったら楽しそうですよね」

「あはは! キヌヨ様らしくて素敵です!」

「けれど急に街づくりなんて、どうしたんですか?」

「それがですね、シロール様が今日、街を買ってくるそうです!」

「……はい!?」


 いきなりの言葉に声が裏返る。街ってそもそも買えるものなのか。貴族ってすごい。


「買うっていうか、オニキス家が統治権を手に入れたってことですね。なんでも住民を面接で審査し、街を作るそうですよ」

「面接? 魔術の研究家とか医療の免許を持っているとか、あっ、人と楽しく話す力があるとか、そういう?」

「いえ。住民に求めるのは『キヌヨ様への愛』です」

「ん?」

「いかにキヌヨ様への熱い想いを持っているか、あとは応援年数や今までのグッズ代の総額や、キヌヨ様のためにこれから何ができるかで判断します。まさにキヌヨ様およびキヌヨ様ファンのための、夢の街!」

「なんですかその狂った条件……!? シロール様のお父上は許可してるんですか?」

「してます」

「なんで?」


 シャインさんの話によると、街を作る予定地の統治権は今日からオニキス家にあるらしい。というのも、人一人いない隣領の枯れた土地、それもこの領に一番近いところの統治を、多額の補償金と引き換えにオニキス家が行うことになったそうだ。もう関係機関の許可は降りたらしい。そういえば以前シロール様と2人でお茶をしたとき「関係機関の権力者を脅……その方々とお話するときのいい切り札が手に入ったんです」と悪い笑みを浮かべていたような。


「楽しみですね。だって住んでる人がみんなキヌヨ様のことが好きな街なんて、楽しいですよ! シャインちゃんも住みたいなぁ」

「シャインさん、このお屋敷を出て行くんですか?」

「まさかぁ。この屋敷の全員がキヌヨ様のこと大好きですもん! わざわざ行かなくたって、楽園はここにあります」


 私は無意識のうちに振り向き、シャインさんを見上げていた。


「……よかった。シャインさんがいなくなったらと思うと、きっとおやつが喉を通らなくなるほど心が苦しいから」

「きゃああああ! キヌヨ様ってば、シャインちゃんのこと大好きじゃないですか! シャインちゃんもシャインちゃんのこと好きだし、もちろんキヌヨ様のことは、とびっきり大好きです! えへへっ」


 シャインさんが熱魔法をやめて、私の首に腕を回して優しく抱きつく。私は目を細めて、そっと彼女の腕に己の手を添えた。



 翌日の昼、シロール様にピクニックに誘われた。


『たまには2人きりでお話したいです。ピクニック。2人きり。誰にも邪魔はさせません』といつもの礼儀正しさはありつつも、まるで子供のように駄々をこねられた。目が雨上がりの水たまりのように濁っていた。シロール様は連日の業務で疲れると、たまにこうなる。今回はあまりに私に土下座をするから、ニルナさんが「もうこの人うるさいんで、キヌヨ様折れてもらっていいですか? 我々の鼓膜と精神を助けると思って」と匙を投げた。シロール様が心配なのでもちろん頷いた。


 バスケットを持って屋敷の四阿に向かう。天気は快晴。シロール様の希望通り2人きりだ。彼は鼻歌を歌いながらにこにこと歩みを進めている。


 白いテーブルに広げたランチョンマットの上に、ランチボックスを並べる。私の好きなリンゴのシロップ煮があって、私が小さく「リンゴ……」とこぼすと何故かシロール様が「可愛い。ありがとうございます」とお礼を言った。


 2人でお弁当をつつく。私がオレンジの乗った一口サイズのフレンチトーストを、ちまちまフォークでつついているときだった。


「キヌヨ様、もし自分の住むところの近くに、どんなお店があったら嬉しいですか?」

「お仕事のお話ですか? 少し休んでください。心配です」

「なんと。ふふ、ご心配ありがとうございます。けれどこれはキヌヨ様を幸せにするための、この世で一番わたくしが楽しい会議でございます」


 私の舌に乗ったバターの風味が消えないうちに、シロール様は魔法で空間に穴を開ける。腕が通るほどの大きさの穴から、書類を取り出した。

 

「オニキス領は農作物がうまく育たぬ呪われた地。ですので食糧は魔法温室栽培か、陸路での他領との取引で賄っております」

「はい。ニルナさんから教わりました。温室栽培は美味しいですが、作る方は本当に大変だと思います。感謝ですね」

「えぇ。課題はそこです。魔法を使った温室栽培は管理が大変だ。かといって、陸路では野菜等の保存に限界があり、氷魔法で定期的に温度調節が必要だから、魔力の消耗が激しい。氷魔法担当を交代制にしているため、人員も他領より割かなくてはならない。浮遊魔法で空を飛んでの取引の方が速いが運ぶ数に限度がある」


 シロール様がいきいきと喋るから、私もつい姿勢を前のめりにする。


「私が元いた世界では、飛行機と呼ばれる空輸機がありましたが、それも難しいですよね」

「そこです! さすがはキヌヨ様」


 彼の瞳は生き生きと輝いていた。


「時代は空。わたくしは、貿易都市を空に浮かべたいのです。空に都市ごと浮かべる魔法の技術はまだ研究中ですが、いずれ必ずやり遂げて見せましょう」


 シロール様の話によると、この前私のために買った領地というのも、実はこの貿易都市づくりの練習だという。さすがに何もない土地に街を作るのは、シロール様は初めてだから、その練習としてお父上も許可したとのこと。


「あ、ちなみに練習は二の次です。もちろんキヌヨ様のための街を作ることが第一ですからご安心ください。貴女様のための街なんていくつあっても足りませんから」

「何個もはいらないです」

「やだぁ。キヌヨ様のための街あと4……いや6は作りたいんですぅ」

「可愛い子ぶらない。それとリアルな数字やめてください」


 彼はたまに子供のような顔を覗かせる。私は口では冷静なものの、実はこの軽いやりとりが気に入っていたりする。シロール様に言うとまた鼻血を出しそうだから、言わないけれど。


「それよりシロール様。少しおやすみになってはいかがでしょうか?」

「そ、そんなにわたくしは疲れてるように見えます? まぁ確かに、足と肩は岩のように重いですけれど」

「やっぱり疲れてるじゃないですか。それに私がなにより、最近頑張ってらっしゃった貴方様にゆっくりしてほしいんです。私にできることがあればご協力いたします」

「キヌヨ様……」


 私はむむ、と口元に手を当てる。彼のためにできること、私が。と、そこまで考えて、私はぱん、と手を合わせた。


「シロール様、両手を出してください」

「はい」


 彼は綺麗な手をさしだす。長い指を携えた両手をとり、私は親指でマッサージを始めた。


「元の世界にいた頃、図書館で読みました。手にもツボと呼ばれるものがあり、疲労回復などに効くんです。それにシャインさんと手を繋いだりしたときに知ったのですが、誰かの体温ってとても安心するんですよね」


 生まれてから今までずっと知らなかった、誰かの温度。


「いきなりなこと言いますけど、ずっと思っていました。私、貴方様に助けていただいてよかった。貴方様の手を握ってよかったし、心からここに来てよかったと思うんです。本当に、ありがとうございます」


 心からの声が口から溢れる。うららかな日差しが差し、私たちを照らしている。暖かい。背からうける暖かさと、胸の内に煌めく感情が、私に小さな微笑みをくれる。


 シロール様は何も言わない。いつもなら大袈裟なくらいに喜ぶところなのに。私はふと、顔を見上げた。


 彼は顔を耳まで真っ赤にし、鼻血をだらだらと流していた。


「しっ、シロール様!? ちょっと、せめて拭うとか……」


 そこまで言って、彼の両手は私が握っていたんだと気がつく。申し訳ない。


 こんな至近距離で人が硬直したまま鼻血を流しているところを初めて見たので、私はあわあわと視線を泳がせる。どうしよう。シロール様微動だにしない。

 

 動揺した私は手を離し、素手で溢れ出る鼻血を拭っていた。彼が纏う綺麗で高級な服に、血がつくのは大変だと思って。元服屋店員の性である。


 私の手の血を見て、はっ、とシロール様の意識が復活する。


「きっきっ、キヌヨ様!? 汚いですよ!? こんなわたくしめの鼻血など! 何か悪い病気になってしまったらどうするんですか!?」

「あとで洗うから大丈夫です。それよりお洋服」

「服こそあとで洗いますけど!?」

「だめです! 一度汚れがついたらなかなか落ちないんですよ! この世界あんまり洗剤の種類ないんですから!」

「いやあああ……わたくしの女神がわたくしの鼻血で手を赤くしているうう……辛すぎる……」


 シロール様は鼻血を流しつつ、ランチボックスをどかしてランチョンマットを引っ張る。そのまま自分の鼻ではなく、私の手をとって拭いた。結局私の努力虚しく、彼の服には何滴か鼻血がついてしまった。


「キヌヨ様。今のはわたくしが悪いとはいえ、動揺したときに突発的な行動を取るのは控えてください……。さすがに素手でわたくしの汚い鼻血は……。女神の暴走恐ろしすぎる……」

「貴方様が私に前おっしゃったように、私も貴方様の血の一滴や二滴、迷惑でもなんでもありません」

「えっ!? あっ!? えっ!? キヌヨ様とわたくし、相思相愛ですね!?」

「もっと鼻血出てますよ」


 私は手を拭かれながら、小さく笑う。


「血をいっぱい見ていると」

「は、はい」

「臓物が食べたくなりますね」


 シロール様はきょとんと驚いたように瞬きをして、手で顔を覆った。どうやら変なツボにハマってしまい、笑っているようだ。


「ふ、ふふ、せめてレバーって言ってください、ふふ」

「だって、この世界の人にレバーって伝わるか迷ったから……」

「ふふ。キヌヨ様ってば、本当に目が離せないお人だ」


 鉄の匂いが広がる四阿でふたりで小さく微笑みを交わし合う。その後ふたりで血のついた服で屋敷に帰ると、ニルナさんに「まーた鼻血出して!」とシロール様は叱られていた。

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