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お店のバックヤードにある休憩室でテーブルにもたれかかり、まだ残っている就業時間に対する気だるさを隠さないでいたら、続いて休憩に入ってきたのがノアだった。
もっとも「ノア」はこの店における源氏名であって、彼女が教えてくれた実際の名前は、もっと一般的なものだった。源氏名の由来は「ノアの方舟」。この店で圧倒的な一番人気を誇る彼女の名にふさわしい……と、密かに個人的な感想を抱いている。
制服であるゴスロリ風のメイド服に身を包み、腫れぼったいアイメイクをしたノアは、あたしを見るなり人懐っこい笑みを浮かべる。きっと彼女は天性の人誑しとして、神に認められた存在。今日も今日とて、バックヤードを一歩出ると、絶対自分のものにならない彼女へ金をつぎ込む男どもが群がっている。あたしたちは整えられた場所で、与えられた役目どおりの振る舞いをすることでお金を稼ぐ。それは水族館の水槽の中で泳ぐ、可愛らしい海のいきものたちと同じようなものだと思う。
「ルルちゃん、おつかれ」
もちろん、あたしの本名もルルではない。
片手を上げてこたえた。
「何読んでるの」
言いながら、ノアは小走りにこちらへ寄ってきて、あたしのスマホの画面に注目する。いつも動画かゲームしか表示されていない画面に、文字がおどっているのが不思議だったらしい。別に隠すものでもないから、あたしは光る画面をノアのほうへ向けた。カラコンで不自然な色の瞳が、何度か左右に動く。
「あー、人魚姫の話? ノアも読んだことあるなあ。いきなりどうしたの」
「きのう水族館に行ったら、急に思い出したんだよね」
最後に水族館へ行ったのは、あたしを振った男と二人。その記憶を上書きしたかった。たとえひとりぼっちだとしても、二度と自分のものにならない男の面影に引き摺られるほうがよほど惨めだ。家族連れやカップルがひしめく水族館を、あたしはひとりでゆっくりと巡った。そうしてる最中に、子供の頃「人魚になりたい」と話していた自分自身のことを思い出したのだ。
吐き捨てるような声色で、呟いた。
「最終的には、なんかいい話ー……みたいで終わったけど、現実ってこんなに甘くないよね」
「わかるわー。物語なんて、読み手によって解釈違うもんね。ノアは大人になってからお姉ちゃんといっしょに読んだけど、感想は全然違ったもん」
ノアに姉がいたのは初耳だ。そして、あたしも他人のことを言えたクチではないけれど、ノアも活字を読むことがあるんだ……と二重の意味で驚いてしまった。あたしの中で、最後に彼女が紙に刷られた字を読んでいたのは、クレジットカードを滞納していたら届いたという督促状だったからだ。
「どんな感想だったの」
「ノアはルルちゃんと同じだったなぁ。ノアも自分と、自分の大切な人が幸せならそれでいい。それ以外は割とどうでもいいなーって思うから、なんか釈然としなかった。どうせ絶望させるならとことん堕として、読み手がページで頸動脈切って死にたくなるくらいにしてほしかった」
大抵の場合、こういうコミュニティでは、一番人気を集める存在はやがて孤独になる。周囲が後ろに引いてゆくか、あるいは本人の
訊ねる。
「じゃあ、お姉ちゃんはどうだったの」
「やっぱ愛のためにはある程度の自己犠牲が必要なのよね、って感心したように言ってた。自分の気持ちが届かなくても好きな人が幸せならそれでいいー、なんてさ。ばかくさくて、ほんと吐き気がしちゃうよ。どんだけ好きだと思っても、自分のモノにできないなら意味ないじゃん、そんなの」
おそらくこの店に足繁く通う連中は、ノアの姉寄りな考え方を持っているのだろう。少しの時間だけだとしても、ノアが自分だけを見つめて話してくれるなら、笑ってくれるなら、自分の払った金で彼女が生きてゆけるならそれでいい。そんなことを言いつつも、優しくしてりゃどこかでワンチャンあったりしないかなー、という微かな欲望。狭い店内にむせ返るほど渦巻く思惑とアプローチが、彼女にはいっさい届いていないと明らかになったとき、きっとこの店には堕落した人間どもを滅ぼす大洪水が起こるに違いない。
思わず、素朴な疑問が口をついて出てしまった。
「それ言っちゃうと、ノアは悲しくなんないの? こんな仕事してる
あたしが言えたクチじゃないのは知っている。あたしは水槽の外から眺める客じゃなく、客の視線が望んでいることを感じれば、いくらでも可愛い子ぶれる同類だから。
但し、あたしはノアのように誰かに選ばれてなどいない、モブキャラでしかない存在だけれど。
ノアは自分のネイルに視線を這わせながら、つまらなさそうに呟いた。時折見せる、あの気だるそうな表情こそが、彼女の本性なのかもしれない。
「別になんとも思わないなぁ。ノアがたくさんお金を遣うことで、担当の中でノアの立ち位置が他の女よりも上になるなら、なんでもやってやるもん。警察に捕まったりすることじゃないならね」
自らはこの店で絶対的な立ち位置を確立しているノアでさえ、せっせと通うホストクラブの客の中では、他の女とたったひとつの席を争っている。乱れ飛ぶ札束と積み上がるタワー、すり減ってゆく心と身体。しなやかによく動く彼女の指はいつも、入れ込んでいるホストにメッセージを打っている。
あらゆる犠牲を払いながら、ノアはただ一人、好きな男にとっての一番になりたがっている。それは世間的に自己犠牲と呼ばれるものかもしれないが、ノアが違うのは「好きな相手が幸せならそれだけでいい」ではなく「好きな相手を自らの手中におさめた上で、共に幸せになりたい」という点だろう。
それでもノアが好きな男はいつまで経ってもノアのほうを向いてくれないだろうし、いつかまだ現れていない見知らぬ女と結ばれるだろうし、それでも自分には男を殺せないとなれば、だまって自分が泡となって消えるくらいしか選択肢が残されていない。
ホストに恋なんかするもんじゃない……とは、友達のホスト狂いが自嘲的にこぼした言葉だ。それを聞いていたはずなのに、一度恋をして潰れてしまった残渣のような存在が、今のあたしだった。
もう二度と同じ轍を踏まないと決めたからこそ、あたしにはわかってしまう。
人魚姫を嗤うこの女は、まさしく、人魚姫なんだよなあ。
ただ、それを口にしてしまったら最後、すべてが滅ぶその時に方舟へ乗せてもらえなさそうだと思ったあたしは、だまってにこやかに頷いて言った。
「ノア」
「なに」
「今度、一緒に水族館行かない?」
一瞬きょとんとした表情になったあと、やがてノアは破顔した。
「よくわかんないけど、いいね」
たとえ、傍から見れば叶わぬ恋に呪われたあたしたちにだって、自分の小さな幸せを選ぶことはできる。
そして、あたしにとっていま必要なのは、ひとりぼっちであの水族館に行った切ない記憶を、もう一度上書きすることだった。
掬われない女 西野 夏葉 @natsuha
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