第2話
身体が浮いている。いや、これは沈んでいるのか。身体を動かしてみる。どうやら全身が何かに支えられているようで、ゆったりと寝返りを打った。そうして上を向いた青年の顔は何かに照らされて、瞼の裏は一気に明るくなる。
腫れぼったく重い双眸をやっと開くと、視界はまだぼやけていた。目に皺を寄せるようにぎゅっと瞑ったり、目を凝らすように絞ったりして、何度か瞬きをする。段々と意識がはっきりしてくると、目線の先には一面が白色の見慣れない空があった。その空には薄い雲も、照りつける太陽も、そして黒い夜を照らす星も、月もない。
いや、
途端、青年は上半身を飛び上がらせた。目の前に、一人の女性が現れたのだ。
そうしてやっと、青年は訪れたことのない部屋で触れたことのないくらいに柔らかい寝床に寝かされ、見たことのない女性に看病されていたという状況に置かれているのを順番に噛み砕いた。
改めて、女性の方にまじまじと視線を向ける。月だと思っていたものは、彼女の双眸だったのだ。月が欠けては満ち、満ちては欠けるのを繰り返していたのは、白銀色の睫毛が羽のように瞬いていたのだった。
「おはよう、ガイア。お目覚めね」
彼女は子守唄をうたうような調子で、静謐だけれども芯のある声を響かせた。青年は体をこわばらせたまま、頭の中に疑問を巡らせる。自分の名をガイア、と呼ばれたことよりも、今のこの不思議な状況よりも、何よりも驚いたことがひとつ。――彼女が今、発した声。地上から聴いた月のこえと同じだった。
「呼んでいたのは君か」
「ええ。やっと来てくれたのね」
彼女はただ広く白い部屋の中、青年が寝ているベッドの周りをゆっくりと歩いて回る。青年は妙に落ち着かなくて、貰ったコップ一杯の水面と、一定のペースで視界に入り込む彼女の歩行をちらちらと交互に見ていた。
「何をしている」
「私はあなたの周りを回っているの」
「それはわかる。回るのに、何の意味がある」
「習性かしら。私があなたの視界に入るとき、あなたの世界は夜になるのよ」
「それなら、君が夜を連れてくるというわけか」
「違うわ。私はあなたと一緒に夜に行くのよ」
どういうことだろうか。青年はコップを脇の卓に置いて、彼女に構わずベッドから抜け出した。櫓と同じように、この部屋にも景色を眺める高台があった。そこに出てみると、最初に涼しい夜風が青年の頭を優しく撫でて冷やした。手すりの柵に手を添えて、いつものように身を任せながら空を見上げると、青年は息をのんだ。
深い色の夜空、一面に瞬く星々。だが、そのひとつひとつが眩むほどに輝いている。いつも見ているものとは比べ物にならないくらいの満天の星空だ。
「綺麗でしょう?あなたがいつも見ている空とは比べ物にならないくらい」
心の内がまた、聴き慣れた甘い囁きとして出てきたのに、青年は驚いた。いつの間にやら、彼女が自分のそばに立って、柵に頬杖をつきながらこちらを見つめていた。青年は胸から勝手に熱く込み上げてくるのをぐっと堪えて、また上空に目線を移した。この空にも月がある。周りを取り巻く小さな星々を率いるように白金色の光を放つ大きな月の姿は、いつしか爺に見せて貰った鏡の装飾に似ていて、それ以上に美しい。――爺や、爺だけでなくむらの皆は俺のことを心配しているだろう。俺も半ば強引に、この見知らぬ地へ連れてこられた身だ。されどもどうしてももう少し、ここにいたいと思った。彼女を見る。ずっとこちらを覗き込んでいて、目が合うと柔らかく微笑んだ。彼女の声にいつも吸い寄せられていたように、今度は瞬きをするたび、二つの月の瞳に吸い込まれそうになる。しかし、すぐに新月になると、二つとも沈んでしまった。突然、彼女の全身が揺らぐと、糸が切れたように崩れ落ちたのだ。青年は咄嗟に受け止める。細い彼女の身体は体温が低く、微かに震えている。
「ごめんなさい。あんまり眩しいひかりには弱くて」
目を伏せながら冷や汗を滲ませる彼女を、青年は室内へと肩を貸しつつ導いた。だが、彼女はまっすぐ寝台にはいかなかった。ふらつく足取りで進んでいくのを追いかけていくと、反対側にもうひとつ、外を見ることのできる高台があった。彼女は手すりにぶつかるような形で受け止められると、その衝撃を味わうかのように真っすぐに立ち直す。夜風を受けて、白銀色の長髪がさらさらと揺らめいた。青年はゆっくり近づいていくと、彼女が見ている先に、また別の巨大な星が見えてきた。それはいつも見ている月や星々とはまた違っていた。妙に暗くて、それでも見たこともないほどに深く青い肌をもち、そこにいくつかの模様を浮かべている。その色は月に似ている部分もあれば、むらを取り囲んでいた山々にそっくりなところもあった。その上をまた、白や灰色の薄衣が纏わりついている。青年は今まで見た星の中で――こんなにも暗く浮かんでいるものが、星であればの話だが――一番大きく、興味深い星だった。それでいて、どこか懐かしささえ与えてくれる星だ。青年はもっと近くで見たくなって、外の青い星の景色へと駆け寄ろうとする。そこで彼女が身を翻すように振り向いた。
「だからね。私はあなたの、あの青い星が好き。
夜風の旋律。鈴虫の奏で。そのどれにも形容しがたく美しい彼女の甘い囀り。今度は青年の方が鼓動が跳ね上がったのを自覚して、熱い汗が噴き出した。青い星を背に、彼女の表情はなぜか逆光を受けたように暗く見える。だが、頬に薄い紅色が差し込み、瞬きは二つの月の色を取り戻しているのはわかった。ふと、強い風が一迅、彼女を連れ去らんとするように吹いた。だが、激しく揺れたのはまたしても長髪だけで、彼女は覚束なかった足が嘘のようにしっかりと立っている。彼女の全身を包んだ闇の中、浮かぶ三日月の笑みは、優しさも妖しさも両方持ち合わせていて、まるでほんとうに、愛おしい月のようだ――。
「私は
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