黎明のスターダスト-プロローグ

冠城唯詩

第1話

 一

 この世界に――この地にまだというものもなかった頃の話から始めようか。

 ある集落、緑に富んだ山々と田園に囲まれた肥沃な集落にも、この日も夜が訪れ始めていた。空は西の方に明るい日の色をぐずぐずと残しながら、その反対側から訪れる青と黒を混ぜたような色に染まっていく。住民たちは焚火を囲むのをお開きにして、満たされた腹を抱えてそれぞれの住処に寝床を設えた。

 灯りの炎が消え、人々の笑い声が消え、全てが寝静まる夜。地が静かになると、今度はそらの番だ。その空間の暗い色の一面に、大小さまざまのひかりが点を描いて瞬き始めた。色とりどりの星々は、見えなくなった人々を噂するように明滅を繰り返している。

 だが、集落の隅、物見櫓の天辺にわずかな気配があった。灯りひとつない中で蠢くそれは、ひとりの青年であった。青年は櫓の柱にもたれかかって、ただずっと、夜の空を見つめていた。暗い色を湛える青年の瞳にも、星々が燐光のように揺らめいて小さな空をつくっていた。だが、数ある小さな星々には目もくれず、青年の視線の先にはただひとつ、この空で一番大きい星があった。

「月」と人々が呼んでいるその星を毎晩見上げるのが、物心ついた時からの青年の日課だ。白金色の肌から放たれる白銀色の光に目が慣れて、周りの星が見えなくなるくらいに、毎晩ずっと見ている。いや、星が見えなくなるのは、月がほんとうは白い穴で周りの小さな星々を吸い込んでいるからに違いない。そうやって月に対する思考を巡らせるのも、青年は好きだった。

 しかし、青年は月をただ見ているだけではなかった。月をただじっと見つめていると、風の音に混じって雑音のような微かな音が耳に入ってくる。それに耳を傾けるうちに、音は言葉の形をとって、「声」となって聴こえてくるのだ。


 ――きこえる?青い星の君、愛おしいあなた。

 ――早くこちらへいらっしゃい。


 唄うような女声は、甘い囁きで青年を手招きする。それに誘われて、青年は無意識にも腕を月の方に伸ばしていた。この夜の空に開いた大きな穴に、ほんとうに吸い込まれてしまいたい。私もそちらへ行きたいのだ。しかし、月はなおも甘言を囁くのみで、青年の手を引くことはない。当然だ。青年はゆっくりと腕を下ろして、やがて俯き顔で空から背を向けた。

「オオチ様、今日もおはなしですかな」

 いつの間にか、櫓の真下で長老が青年を見上げていたようだった。優しく細められた目に、オオチと呼ばれた青年はゆっくりと首を横に振った。

「早く、星様たちの声もきこえると良いですねぇ」

 青年はただ、何も言わずに微笑んだ。青年と長老はおやすみを言い合って、それぞれの棲家へ帰っていった。


 二

 青年にはたくさんの「声」が聴こえる。昨晩の月のこえだけではない。風の呻きはこれから雨が降ることを教えてくれて、草や稲の囁きはその成長具合を伝えてくれる。しかし、聴こえるのはいい知らせだけではない。集落の人間が食物を調達するために狩られた猪や鳥は、苦しみの断末を遺して生き絶える。青年がそうやって狩猟には手をつけなくなると、今度は人々の不満が耳に入ってくる。俺たちは妻や子供のために、命からがら気性の荒い動物たちと戦っているというのに。お前は集落の穀潰しだ。――そんな言葉が、青年と集落の人々とをさらに隔てていった。青年は様々なものの声を聴くことができる。集落の人々には周知のことであるが、それを気味悪がる者がほとんどであった。

「――様。オオチ様」

 寝ぐらに篭って目を瞑り、ひたすら鳥たちの声を聴いていた青年は、やっと目を開いた。額には汗が滲み、残暑の風が吹き込んでくる。目の前には、穀と木の実を両手いっぱいに抱えた長老が、にこやかに立っていた。

「朝から何も食べんで、お腹すいたでしょ。穀を拵えてきましたよ」

 青年の前に、色とりどりの粒が広げられた。その中から赤い実を取り上げて、口に含む。腹に棲む虫が喜びの唸り声を上げると、青年は口を動かしながら口角を上げた。腹の虫は言葉を持たず、何を言っているのかわからない。それが青年にはいつもおもしろかった。長老はそんな青年を見て、わざとらしい笑声を大きく発するだけだった。その心には、僅かな畏れがずっと燻ったままだ。青年はもうただ無心になるしかなく、木の実やら穀物やらを口に放り込んだ。

 この長老のように、青年に積極的に近づいてくる者も少なからずいる。そういった人々は、青年がなる者――地を照らし、雨を降らせ、稲や木に実を生らす存在――に近しい者と信じていた。人々は青年に微笑みかけ、食べ物をくれて、話を聞いてくれる。しかし、その心の内にあるのは、隠しきれない青年への畏れであった。青年をかみさまそのものであるかのように崇め、大切に扱う。それが青年には鬱陶しく、そして少しだけ、淋しくもあった。かみさまなんてそんな、目に見えないものなど、この地にいるはずもないだろう。もしいるとすれば――。

 青年は長老の後ろ、寝ぐらの入り口の方に目を向けた。日は青年の背の方へ傾き、青年が見ている方角には月が浮かび始めている。昨晩より僅かに満ちた、より広がったと言うべきか、白く輝く穴はこの夜も青年を惹きつけてくる。だが、麗しの声は音調だけが耳元で響いて、何を言っているのか聴こえない。きっと、遠すぎるのだ。青年はおもむろに立ち上がり、寝ぐらの内から覗くように入り口にもたれた。熱心ですねぇ、と呆れを漏らす長老を尻目に、青年は問いかけた。

じい、この近くで一番高台になるのはどこだ?」

「高いところですかな。そりゃ、向こうのあの山でしょう」

 長老が言い終わるのが早いか、青年の脚は速くなっていった。長老が慌てて追いかけると、袖を引いた。

「もう夜になりますよ。暗い山の道は危のうございます。明朝になると、月が反対にいくでしょう。あちら側の山も十分に高いですがね」

「夜になるから行くのだ。夜ではないと駄目なのだ」

 青年は長老の腕を強く振り払った。そうだ。月は夜の星、夜に輝く穴だ。周りの小さい星々を従えて、一等瞬く夜のかみさま。俺のかみさまはこの世に月だけで、だから俺にだけ、その声を聴かせてくれるのだろう?俺も、早く会いたい。

 月への渇望。自分を手招く月の声。それだけが、青年が暗い夜へと足を踏み入れるのを後押ししていた。


 三

 草木の生い茂る山道を、青年はひたすらに駆けていた。しかし、山道といっても獣道だ。幸いにも夜行性の獣の荒々しい声は聞こえず、穏やかな動物たちの寝息だけが耳に入ってくる。それでも無作法に生える枝に麻の服は破れ、足の皮膚を草花で擦っては被れてしまった。それに、青年の最近の食事といえば先程長老が恵んでくれたものばかりで、久々に感じた底なしの空腹感に足はもつれ、ついに根か石か、固いものにつまづいて転んでしまった。

 青年はしばらく動けなかった。顔を地面につけたまま、気分を落ち着かせるように土の香りをゆっくりと吸い込む。それが意外にも芳しいことに、青年は気づいた。思えば、見て、触れて、聴いて、嗅いで、触れるもの――五感で感じ取ることのできるあらゆるものが、青年は好きだった。それが青年を傷つけるような畏れの声、人びとを襲う雨嵐や恐ろしい獣であったとしても、些細なことである。そのすべてが、この地にもたらされるのだから。けれども、月はそうではない。真白い月の肌が遠くに見えて、清廉な声は聴こえても、どうしたって腕が届かない。

 そうだ、月だ。青年は土を握りしめたまま、身体を仰向けに回す。月は今夜も無事に浮かび、光は薄く漂う雲を払って霞ませていた。ははっ、と青年の口から泥混じりの笑声が飛び出し、瞳は霞んだ。――あぁ、届かなくてもやはり美しい。青年は月を見上げた姿勢で立ち上がり、また例によって白い穴に目を惹きつけられたまま、耳をじっと澄ませた。


 ――やっとこちらを見てくれた。

 ――さぁ手を伸ばして。早くこちらへいらっしゃい。

 ――届かないのね。もっと近くへ来て。


 首を仰向けにしたまま、青年の歩は無意識にも進められた。月は思えば随分と大きくなっていた。月がこちらへ迎えに来てくれたのか、それとも青年が月に近づいたのか。青年には知る由もなかった。けれども、そのどちらでもよかった。きみは手招きしてくれて、自分はそちらへ行きたい。それで十分だったのだ。

 やがて、知らぬ間に青年は山の頂に達していた。もうこれ以上、お互いが近づくことは叶わない。ぼんやりとした意識の中に、きみの声が響き渡る。灯に屯する羽虫のように、青年は巨大な顔の月の下で、行ったり来たり、回ってはふらついた。側から見れば酔狂の姿だが、青年の目にはもう、月しか映ってなかったのだ。


 ――そう、そのまま。引っ張ってあげる。さん、に、いち。


 ついに青年の足はもつれて、視界がぐらついた。身体は地に引かれるようにして、柔らかい土に倒れ込む。もう土の冷たさも、木々の呟きも青年には届かない。それでも青年の顔は、穏やかな笑みに包まれていた。


 やがて、一陣の風が吹き込んだ。瞬間、月が瞬きをしたことを、地上の誰もが見逃していた。そのまま素知らぬ顔で、月は何もない山の頂を優しく照らしている。

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