第2話
久方ぶりの道後温泉は混んでいた。道理で混んでいると思ったら、今は一階「神の湯」だけの営業で、広さは通常の半分。東西の浴室のうち、女子が西、男子は東浴室のみ使用可能となっていた。
浴室内には愛大生の運動部連中がわんさといた。彼らが洗い場を占領しているので、湯船から直接掛け湯をした。
湯に入ってみると相変わらず熱い。熱いからしばし足だけ浸ける。立ち上がり御影石の湯釜を撫でるとすべすべとしていて涼しげで気持ちがいい。
壁にかかった木札「坊っちゃん泳ぐべからず」。見るたびこんな熱い湯で泳ぐ奴があるものかと思う。すると向かいに座っていた男がざぶざぶと泳ぎだした。
居た。自称「夏目漱石」氏だ。
「おいおい君」
彼にそう声を掛けた人物は、若かりし姿の自称「正岡子規」氏。かの「横顔坊主頭の肖像」ではなく、あえて髪がある子規氏を再現している辺り並々ならぬ「子規愛」を感じる。とはいえ本物である訳がないから、私は「偽漱石氏」「偽子規氏」と名付けた。
面倒臭いので今まで声をかけたことはなかったが、もはやなりふり構っていられない。観光親善大使の類に違いあるまいが、これだけの再現度だ。当然知識面も期待できよう。私は偽子規に思い切って話しかけた。
「あの、お願いがあるのですが」何度か声をかけた末、偽子規氏は「私?」という顔でこちらを見る。「ほうほう」と偽漱石氏も来た。私は恥も外聞も無く、事情を話して教えを請うた。よもや彼らから愛大生に話が漏れることはあるまい。
話を聞き終えた偽子規氏は「銭湯をいづる美人や松の内」と詠み、
「なるほど、俳句で恋の告白とは風情がある」と偽漱石氏は宣う。
「君、見てあげ給へよ」
「なぜ私が」
「良いじゃ無いか。どうせ我々は暇を持て余しているのだから」
意味深な言葉を遺して偽子規氏は湯を上がった。
「未だに大将風を吹かすのだから」と偽漱石氏は右口髭を触る。
物欲しそうに偽子規氏の姿を追う私に気づき、
「私も俳人であるのだよ」と偽漱石氏は憮然とする。
確か漱石氏は「I love you」を「月が綺麗ですね」などと訳すようなオクユカシイにもほどがある人物だ。「一体どういう了見でそんな翻訳を」と尋ねると「『心』を言葉に封じ込めるのが私の仕事だ」とムツカシイ顔をする。
「季語や型も大事だが、告白が目的であるのだから、想いを載せることが肝要だ」と続けた偽漱石氏は、まるで本物本人に見えた。彼を信じても良いかもしれない。
一しきりレクチャーを授かり、湯を出た私は飛鳥の湯泉前のスタンディングバーで冷えた甘酒をなめた。
「恋すればしみじみとひとり」
彼女に捧げる句を頭に浮かべにやにやする僕はさぞや気持ち悪かったであろう。
【つづく】
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