第4話 涙

ミケランジェロ破損事件は、すぐに学内に広がった。「七光りが天才をひがんで作品を割ったけど、学長の息子だからお咎めなし」という不名誉な噂話もついて、みんなが俺を見る目はますます厳しくなった。

 教授はと言えば、俺に浮気現場を見られたことを知ってか知らずか、はっきりと別れ話を切り出してきた。俺は追いすがったけど、教授を引き留める言葉を発するとき、女学生とのキスシーンとミケランジェロが割れたときの音が脳裏をかすめた。

それと同時に、なぜか三井の「割れるのも悪くない」という言葉を思い出した。そして、そんな俺の説得もむなしく、教授から着信拒否をされ、露骨に避けられ、無視を決め込まれた。ここまで来たら、別れを受け入れても受け入れなくても同じだった。そんな事実を目の当たりにして、俺の心は心は粉々になった。

「そこに座って、楽にしてください」

 どんよりと落ち込んでいる俺に、三井はいつも通り接した。三井のアトリエ教室に夕方呼び出されて、行くと、ミケランジェロたちは教室の隅に追いやられていて、部屋の真ん中には木製の椅子が一つ用意されていた。言われるがままにそこに座ると、三井は何も言わずに手にスケッチブックを持ち、鉛筆でクロッキーを始めた。

 数十分、お互い何もしゃべらなかった。だけど、十七時のチャイムが鳴るかならないかのとき、俺のお腹が大きく、ぐう、と鳴ってしまって、俺は気まずくなり、口を開いた。

「お腹・・・、空かない?」

「そうですね」

 三井はクロッキーの手をとめた。

「学食行く?おごるから」

 お腹がこれ以上鳴らないように、何となく手でおさえる。

「もう少しそこにいてください。まだ描きたい」

 三井は腹の音なんかどうでもいいじゃないですか、とでも言いたそうにしている。あんまり細かいことは気にしないタイプのようだ。

「・・・わかった」

 それからまた、三井は話さなくなった。だけど、俺は三井に聞きたいことがあった。

「なあ、三井」

「なんですか」

 スケッチブックから目を離さないまま三井は答える。夕日が教室に射し込んで、逆光になって三井の表情はよく見えない。

「ずっと、聞きたかったんだけど」

「はい」

「初めて会ったとき、なんであんなこと言ったの?」

「あんなことって?」

「男が好きなの、って。俺の絵を見て・・・」

「ああ。あれは、顔にかいてあったんで」

「絵じゃなくて顔?」

「俺の家、複雑なんです。俺は死んだ母さんと離婚した父さんとの子供で、母さんは再婚してから五年くらいして、癌で半年闘病した後、死んじゃって。俺はその時、高一で、それからほとんど一人暮らしだけど、やっぱり家族だから顔を合わすし。血のつながってない家族とうまくやるために顔色伺うのが癖になってるんです」

 三井は悲壮感ひとつ漂わせずに突拍子もないことを話す。それと、「あんた男が好きなの」という言葉と何の関係があるんだろう。

「それに、がんで死んだ母さんの介護してたのはたった半年なのに、なぜかその時から人の顔見るとすぐに何考えてるかわかるんです。母さん、辛いとか一回も言葉にしなかったけど、いつも心の中で泣いてたんで」

「そっか・・・」

 俺は三井の話に聞き入って、相槌を打った後、あの日、教授がほかの絵を見ているのを見つめていたのを思い出した。それに、思い返すと三井は何かと察しがいいところがあった。

「だから、泣いていいんですよ」

「え?」

 三井が手をとめて、俺のほうを見る。

「あんた、泣きたいって顔してる」

「あ・・・」

 教授と別れて、落ち込んでいることを見抜かれていた。

「えっと・・・」

「まあ・・・、好きにしてくださいってことです」

「・・・・・・」

 俺はすぐには返答できなかった。見抜かれているのが、恥ずかしかった。何なら、有紀にさえ話していないミケランジェロを割ってしまった理由さえ知られているような気がした。最悪だ。

でも、最悪だけど、なぜかほっとしている自分もいる。それがなぜなのかはわからない。わかりたくもない。

 三井には変な包容力がある。抱っこだのおんぶだの、熱々のカップルでもなかなかしないようなことをあっさりとやってしまう。そして、それを「介護」と呼ぶ。

もちろん、介護の相手は俺だけじゃない。この間は「天才くんが靴ずれした女子生徒をベンチまでおんぶした挙句、購買に走って絆創膏を買って、貼ってあげたらしい」と噂になっていた。三井のこの手の噂は後を絶たない。というか、噂ではなく、事実なんだと思う。

あれこれ考えて、考えるのをやめて、また考える、を繰り返していると、ついさっきまで夕陽が出ていたのに、いつのまにか外には月が出始めていた。三井はかなり集中した様子で俺のことをスケッチし続けていた。

 そして、月が一番高くに昇って、部屋に月明かりがはっきりと射し込んだ時、俺はポロンと一粒、涙を流した。

「俺さ、両親が八歳のころに離婚したんだけど」

 三井は何も言わなかった。

「母さんが、浮気してる父さんに突きつけた離婚の条件がさ、慰謝料じゃなくて、俺を引き取ることだったんだよ」

 話すたびに涙が零れる。

「だけど、父さんも俺のこと要らなくて、親権を擦り付け合ってたんだ。幼心でもそのことに気づいてた。寂しかったよ。俺は要らないんだ、って。そんなとき、手を差し伸べてくれたのが教授だった」

 三井は涙(それ)を見ているはずなのに、何も言わなかった。こないだ合宿所で涙を拭ってくれた時のようにタオルを差し出してもくれなかった。

 そんな、三井の俺に対する「無関心」は、俺の涙を加速させた。泣いているところなんて誰にも見られたくない、という気持ちと、悲しすぎて一人では抱えきれないという気持ち。そんな矛盾した思いに三井の態度は見事に応じた。

 教授に対する思いはまだまだ消えそうにない。粉々の破片を無理に拾い集め、またもとの形に戻そうとする自分がいる。だけど、その破片に触れたとき、割れたガラスに無理に触った時のように心が切れる。その痛みに耐えきれず泣く。

 三井には、そんな俺がさぞ滑稽に映るだろう。過去の恋愛、終わった恋愛に縋り付いてなく男なんて、情けなさ過ぎて目も当てられないはずだ。なのに、どうしてか、三井は俺のことを見つめ、目を逸さなかった。見つめて、涙跡の一筋すら逃さぬように俺の姿を描き続けた。俺が、泣き疲れて眠るまで、ずっと。

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