第3話 割
シンとした真っ暗なツインの部屋に戻ってきて、電気をつけると、じわっと涙がにじんだ。我ながら情けないけど、それくらい教授に会いたかった。
教授は自分の人生の光だった。両親が離婚したとき、いろいろあって不登校になってしまった。一日中何もすることがなくて、ただ膝を抱えてぼんやりと外を見て過ごした。そんなとき、教授は俺に絵の具をくれた。外の景色を描いてごらん、と絵筆を握らせてくれた。暗く感じるなら黒で描いてもいい、写真じゃないんだから感じるままに色をのせなさいと教えてくれた。それからしばらく、ひたすら黒い絵を描き続けた。黒いスイカ、黒いもみじ、黒い雪。
だけど、春が来て花が咲いたとき、俺の絵は色彩を取り戻した。理由はわからない。ただ、時間の経過とともに気持ちの問題になんとなく整理がついたのだった。
学校にも教授に会いたくて行くようになった。小中高一貫校で、校舎が入り組んでいるから、移動教室のとき大学のキャンパスを横切ることがある。そのとき、まだ学生だった教授が教室で絵を描いているのが窓から見える。その一瞬のために俺は学校へ通っていた。
時がたって、中学に進学したころ、教授の結婚に胸が張り裂けるほどの痛みを感じたとき、自分の心の中にある特別な感情に気が付いた。教授に憧れているだけでなく、恋をしていた。会いたかった。もっと言えば触れたかった。
そんな俺の気持ちは教授にバレバレだったと思う。気持ちを隠すすべを知らなかったから。中学生のころはやんわりと拒絶されていたが、高校に進学してからは徐々にそういう関係になって行った。そして、俺の十八の誕生日に思いは実を結んだ。一線を越えた。
「ずっと好きだったよ。今日をずっと待ってた」
淫行教師にならないために、俺が成人するまで思いを秘めていたと告白されたとき、俺は感激して泣いた。
これが、俺の八歳の時から続く壮大なラブストーリーの全容だ。
ベッドに倒れこむと、いつもの癖で丸くなって目を閉じる。目のふちが涙で濡れているのを感じながらも、まだ三徹の疲れが取れ切っていないせいで、そのまま意識を手放した。夢の中で、誰かが真っ白で清潔なタオルで俺の涙を拭いてくれた。
♢
「おーい、起きろ~」
有紀の声がして目が覚めた。
「ん・・・、今何時」
「十三時だよ」
「えっ!帰る時間過ぎてんじゃん!」
俺は飛び起きた。
「よく見ろ、アトリエだ」
あたりを見回すと、俺はいつもの教室の床で、タオルを敷いた上に寝転がっていた。
「天才くんがおんぶして、タクシーに乗せて連れてきてくれたよ」
「おんぶ⁉タクシー⁉」
「ほら、タクシー代の領収書。半額くれってさ」
領収書を受け取りながら、動揺を必死で抑えようとする。なんで起こさずにおんぶなのか
説明してほしかった。
「あいつ、すげえ優しいよ。お前のこと壊れ物みたいに扱ってた」
有紀が窓のほうへ歩きながらつぶやく。
「優しいって・・・」
「まあ、慣れてるともいえるけど」
「・・・・・・」
有紀が窓をあけると、すっと柔らかい風が通ってカーテンが揺らめいた。
「じゃ、お前の目が覚めたことだし、俺は行くわ。天才くんによろしく伝えといて」
そう言いながらドアのほうへ歩き、有紀は姿を消した。
「・・・・・・はあ」
しばらく考え込んだあと、大きなため息が出た。立ち上がり、床に敷かれたタオルをとって、綺麗にたたむ。さっきもらった領収書の金額が七千八百二十円だということを確認して、財布から一万円を取り出す。封筒がないか探したけどなくて、その辺にあったA4の紙で万札をくるむ。
「あいつ、いるかな」
日曜日の十三時にアトリエにいるか微妙なところだった。
正確にどの教室かはわからないけど、手に粘土がついていたのは覚えているから、造形系の部屋をしらみつぶしにあたろうと思った。
三井はあっさりと見つかった。絵画専攻の教室の一つ上の階——二階、にある彫刻専攻の教室の、一番端にいた。教室を覗いたとき、はっと息を吸った。三体ほどミケランジェロがいて、その中の一体が異彩を放っていた。造形自体の解像度が、ほかの二体とは圧倒的にちがう。黒のツナギを着た三井は、そのミケランジェロの、ごく自然なカーブを描きながら作られた輪郭に、優しく彫刻刀を沿わせていた。
(天才・・・)
そう思った。
そして、俺はこの男にお姫様だっこだの、おんぶだのをさせていたのかと思うと、急に恥ずかしくなってきた。それに、集中しているのを邪魔したくなかった。だけど、お金はなるべく早く返しておきたくて、声をかけた。
「三井」
呼びかけると、三井は彫刻刀を動かすのをやめ、こちらを見た。
「あ、園田先輩」
名前は誰かに聞いたのだろう。たぶん、七光りだってこともついでに。
「あの、運んでもらったみたいで・・・、ありがと。これ、タクシー代」
「ああ、全然いいですよ。俺、介護、慣れてるんで」
「そ、っか」
『介抱』じゃなくて『介護』という言い方が気になったが、まあ、似たようなものだった。三井は素直に俺が差し出した、紙にくるんだ万札を受け取って、中身も確認しないままお礼を言った。そして、俺の顔を見つめた。
「な、なに?」
「いや、泣いてないかな、と思って」
「え?」
「昨日、泣いてたから」
「・・・・・・」
夢の中で誰かに涙を拭われたのを思い出す。気まずくなってうつむくと、三井はそれを察したのか、元居た場所に戻って行って、何も言わずに、また、彫刻刀をミケランジェロに沿わせだした。
♢
それからしばらく、三井とは何もなかった。ごく稀にすれ違っても会釈をかわすだけで、お互い話しかけなかった。月日は巡り、七月になり学期末の試験が終わると、学内のコンペ作品の展示会が始まった。教授とは相変わらず、数週間に一回、突然呼び出され、一、二時間一緒に過ごせばいいほうだった。
展示会は、金沢市の二十一世紀美術館のK展示室を貸し切っての盛大な物だった。展示室は全部で六部屋あり、応募された作品のすべてが展示されている。そして、入場時にわたされるパンフレットには受賞作品のタイトルが書かれていて、選評も一緒に添えられている。
有紀の作品は佳作に選ばれ、俺の作品は落選した。そして、三井の作品は学内全体を通して最も優秀な作品に贈られる、最優秀作品賞を受賞した。
「有紀、おめでとう!」
作品の前で、胸に花飾りをつけた有紀に話しかける。俺の心に黒い物は一ミリもない。最初から何の期待もしていないし、有紀の作品は俺も大好きだ。
「あーりがと」
おどけた様子で有紀は笑う。
「それよりさ、三井の作品見た?」
有紀が俺に問う。
「いや、これから」
「えぐいよ」
「・・・・・・」
俺はあの日見たミケランジェロを思い出す。
「解像度が段違い。荒い場所が一つもない。創造性も高い。正直、本当に天才だ」
「そうなんだ」
「そうなんだじゃないって、見てこい」
有紀が俺の背中をポンポンと、促すように優しくたたく。俺は見たいような、
見たくないような複雑な思いを抱いた。三井は作品の前で有紀のように花を胸に着けて、来た人達に挨拶をしているはずだ。三井と話すのは何となく気まずかった。
(でも、やっぱり見たいかも・・・)
「じゃあ、見てくる」
有紀にあいさつをして、一番奥の彫刻の展示室へ向かう。部屋に入ると、すぐに三井
の彫刻がどこにあるか分かった。人だかりができていたからだ。
三井が天才だという話は、この業界の関係者たちに広く知られているのだろう。三井の作品を一目見るために来ました、とでも言いたげな裕福そうな老人が三井に作品買取の価格交渉をしている声が聞こえる。
肝心の作品は、やっぱりあの日のミケランジェロだった。改めて見ても、やっぱりすばらしい。
ゆっくりと鑑賞したかったけど、人だかりがすごすぎて、断念した。また見たければあの教室へ行こう、と適当に心の中で言い訳をして、しぶしぶその場を離れた。
(もし、今日売れたら、もう見れないな)
頭ではそう思ったけど、なんとなく、三井は売らない気がした。
一週間続いた展示会も最終日を迎え、十三時の最終入場者がはけると、撤収作業を開始して、作品を搬出する。
俺は早々に、自分のさえないパンジーの絵を搬出業者に受け渡して、例のミケランジェロを今ならゆっくりと見れる気がして、こっそり一番奥の部屋へ向かった。
そこで見たのは、衝撃的な光景だった。展示室に入ってミケランジェロの前に行き、なんとなく人の気配がして窓の外を見ると、教授と、女子生徒が手を繋いでキスをしていた。俺は激しく動揺した。視界がぐわんと揺れて、立っていられなくなるのを感じながら、そんな自分をどうにもできなかった。
〝ガッシャーン〟
心が派手に割れる音がした。・・・心だけならよかったのかもしれない。なんと、俺はふらついた拍子に三井のミケランジェロを割ってしまった。
「は・・・?」
自分で自分がしたことが理解できなかった。その後すぐに音を聞いた人たちが来て、俺は学長室に呼び出された。
♢
「美央・・・、自分が何したかわかってるのか」
険しいをした父が静かにつぶやく。
「わかってます・・・」
十分ほど説教をされた後、父は深いため息をつき、三井を呼んであるから、後は二人で話をつけろと言い残すと、学長室から出て行った。
それと入れ替わりに三井が部屋へ入ってきた。俺は三井の顔を見て九十度のお辞儀をした。
「ほんっっとに、ごめん!何でも言うこと聞くから許してくれ!」
怒鳴られる覚悟で、自分の中の謝罪の気持ちを最大限にこめて謝る。すると、帰ってきた言葉は意外な言葉だった。
「良いですよ、別に」
「えっ?」
怒り心頭だと思っていたのに、三井はあっさりとしていた。
「なんで?最優秀作品だったんだろ?売れそうだったんだろ?それに・・・何百時間もかけて大事に作ったんだろ?」
「賞には興味ないですし、売る気もなかったですし、数十時間しかかかってないです」
三井は頭を掻きながらそんなことを言う。
「それに・・・」
「そ、それに?」
「自分の作品が割れたことって今までなかったんで、新しくてよかったです」
そう言って軽く笑う。
「え・・・?」
天才の考えることはわけがわからない。俺はその場で固まった。
「アニメとかで気難しい陶芸家が自分の作品を割ったりするじゃないですか。ああいうニュアンス、というか、たまには割れるのも悪くないと思って」
「は・・・、はあ」
「でも・・・、何でも言うこと聞いてもらえるなら・・・」
「もらえるなら?」
もう完全に三井のペースだ。
「モデルになってください。次のコンペの作品の」
「え・・・、うん」
俺はなんだかわけがわからないまま承諾した。
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