第2話 手
数十分前まで糊がきいてピンと張られていたシーツが乱れた上に、ぐったりと身体を丸くして横たわる。室内は暖房がつきっぱなしになっていて、全然寒くないけど、のどが少し乾く。ベッドサイトの壁にくっついている小さな物置も、壁に埋め込まれた左右に回す丸い電気のスイッチも、天井の模様ももう何度見たかわからない。電話を何番にかければフロントで、ルームサービスで、レストランの予約なのか、全部記憶している。
足元のほうにあるバスルームからは教授がシャワーを浴びる音がする。その音を聞きながら、ぼうっと天井を見つめる。
(帰っちゃうんだ・・・)
事後、すぐにシャワーを浴びるのは「今日は泊まらずに帰りますよ」の合図だった。関係が始まったのが、入学してすぐだから、もう三年目になる。最初のころはもう少し丁寧に扱われていた気がするのだが、最近は本当にただやるだけになってきている。自分を少しも大切にしてくれない相手に何を期待しても全部無駄だ、ということはわかっている。だけど、教授との関係が切れるのが嫌だった。わずかでもいいからつながっていたかった。その分、寂しい思いをしてもかまわないから。
そう思って目を閉じたとき、教授がバスルームから出てくる音がした。まだいっしょにいたい。なんなら、もう一度抱き合いたい。なのに、別れの言葉を言い合うのが嫌で、狸寝入りをしてみた。そんなことしたって無駄なのに。
「美央くん、起きてるでしょ」
案の定すぐにばれて、教授はベッドに腰かけ、シーツの真ん中で体を丸めている俺の髪を撫でる。
「・・・起きてます」
「合宿、来るでしょ?」
「え・・・?」
てっきり、開口一番に「今日は帰るよ、おやすみ」といつものように告げられるとばかり思っていたから、合宿の話をされて驚き、変な声が出た。
「そのときなら、時間を作れるから、朝まで一緒にいよう」
逆を読めばその時まで時間は作れない、という意味だとわかっていても、こちらが次のことをねだる前から、「時間を作れるから」と言ってもらえるなんて、いつぶりかわからないくらい久しぶりで、トクン、と胸がときめくのを感じる。自分でも呆れるくらい俺の心は単純にできている。
♢
午前十時、金沢駅で、団体に合流する。
「お前、絵、終わったの?」
有紀が汚いものを見るように、俺を見た。実際、俺は「汚いもの」だった。目の下には遠くから見てもはっきり分かる青い隈があって、剃りのこしたうすい無精ひげがところどころに生え、三日間着替えていない作業着は絵の具まみれだ。
あの日、教授に「合宿で朝まで一緒にいよう」といわれてから、「成長する」かどうか、という悩みに結論を出す代わりに、絶対に合宿に参加するという、成長と見事に逆行する決心をしてしまい、そのために絵を完成させなければならなくなり、結果、徹夜に徹夜を重ねることで、こうなった。
「終わった・・・」
いろいろと。
完成した絵は、誰がどう見ても、やっつけ仕事だった。平凡な構成の図に、雑に絵の具が塗り重ねられている。正直、今まで、一度も自分が納得する絵を描けたことはない。だけど、いつもなんとかそこに近付けようと努力してきた。そして、今回の絵にはそれすらない。ただ、描いただけ、ただ、提出しただけ。教授との一晩、そのために。
(絵なんかやめちまえ)
我ながら、そう思う。実際、絵に感じるのはもはや情熱じゃない。執着だ。本当に絵を描きたい、というよりも、「絵を描いている自分」でいたい。だけど、そこで重要な「自分」はスッカスカの中身のない男で、結局、いつもいつもキャンパスは白紙で、話は冒頭に戻る。
(絵なんかやめちまえ)
「ま、そう、思いつめるな」
有紀が心の中を見透かすようにそう言いながら、俺の肩をぽんぽんと軽くたたく。
「うん、ありがと。俺、こんなだから、観光はパス」
「了解」
一足早く、一人で合宿所へ行くことを宣言して、俺はいつもの癖でタクシーを停めた。その瞬間、しまった、と思ったけど、もう遅かった。背中に、俺と有紀のやり取りを聞いていた先輩たちの視線が刺さる。
(七光りはいいな、金持ってて。そのタク代、俺たちの学費だった金じゃねーの)
幻聴を聞きながら、逃げるように車内に乗り込んで、一刻もはやくその場を立ち去るべく、早口で運転手に行先を告げた。
♢
金沢の市街地から離れて、山間の道を三十分ほど進むと、合宿所がある。古いロッジが二つと、宿泊棟が男女に分かれて二棟。その真ん中に食堂と台所。外に出れば、BBQができるスペースがある。田舎なだけあって全体的にひとつひとつのスペースが広く、かわりに中はがらんとしている。虫除けスプレーは必須で、足元はぬかるんでいる部分もあるのでトレッキングシューズ推奨。朝と夜の寒暖差が激しいので、体温調節ができるは織物があるとなおいい。
俺は何度もここへ来たことがあって、そのすべてを知っているのに、今日は全部忘れてきた。
(どんだけ教授に必死なんだよ・・・)
投げやりになりながら、名前を告げて男性用の宿泊棟の一室の鍵をもらい、トボトボと階段を上がり、二〇三号室にたどり着く。鍵を開けると、ダブルルームで、もしかして教授と同室になるように予約してくれてあるのかもしれない、とおもうとときめいた。
「あ~、絵の具くせえ・・・」
独り言を言いながらバスルームに入って手早くシャワーを浴びる。こんな時、どんなに丁寧に洗っても手についた匂いだけは絶対にとれない。だから、あきらめている。そして、それは俺にとって当たり前だけど、特別なことだった。子供の頃、離婚して他の男の元へ行ってしまった母さんも油絵をやっていて、幼い頃、この匂いがする手がいつもそばにあった。その匂いが当たり前すぎて、大人の女性の手はみんな、油絵具の匂いがするんだと思っていた。いまだにその記憶が残っていて、全身から濃く匂いがすればさすがに臭いと思うけど、手にしみついてうっすら香るぶんには安心する。
備え付けのバスタオルで、ガシガシと身体を雑に拭いて、風呂から上がると、下着だけ履いてベッドにダイブする。糊のきいたシーツの清潔な匂いに包まれると、徹夜に徹夜を重ねた脳みそが溶ける。もう何も考えたくない。考えられない。アラームもかけず、湿ったタオルを握ったまま、俺は眠りに落ちた。
あまりにも久しぶりに眠ったから、夢も見なかった。普段は眠りが浅く、嫌な夢もしょっちゅう見るほうだから、気持ちがよかった。それだけ疲れていたのだろう。なんとなく寝返りを打とうとすると、「危ねっ」と声が聞こえて、目を覚ました。
目を覚ますと、そこには知らない——正確に言うと、一言だけ話したことのある、男に抱えられていた。
「う、うわあ!」
状況を理解できないままとっさに身をよじる。
「暴れないでください、マジで落ちますよ」
そう言われたときにはもう遅かった。ドスン、と鈍い音を立てて固いフローリングの上に身体を打ち付ける。
「いっ・・・、つ!」
痛みに顔を歪めながら細く目を開けて、あたりを見回す。そこは、間違いなく自分が眠りについたダブルルームで、俺はベッドとベッドの間に落ちていた。そして、自分の斜め上に立っている男を見る。
「おまっ!」
つい、そんな言葉が出た。
——「あんた、男が好きなの?」
そこにいたのは、あの日俺にそう言い放った男だった。がっちりとした骨格に細くついた筋肉質な腕を組みながらあきれた顔でこちらを見ている。
「暴れないでくださいって言ったじゃないですか」
特徴的な真っ黒の瞳が俺を見つめると、思わず吸い込まれそうになる。
「なんでいるんだ!」
「俺もこの部屋なんすよ。こっちのベッド、冷房が直射するんで隣に運ぼうと思っただけなんすけど・・・裸だし」
そう言われて俺は自分がパンイチだということを思い出した。
「ちょっ!うわ!」
床に両手をつき、膝立ちになってきょろきょろとその場を見回して、自分がベッドに持って入ったはずのタオルを探す。だけど、見つからない。すると、「男同士じゃないですか」という声と一緒にタオルが上から落ちてくる。
「・・・まあ、そうだけど」
そのとき、ふと我に返った。
「ここ、お前の部屋って言った?」
「・・・ああ、そうですね。言いました」
「つまり、俺と、お前が今日この部屋に泊るってことだよな?」
「はい」
「・・・・・・」
俺は教授に約束を破られたことに気づいた。気づくと同時にすっと血が身体の下のほうへ落ちていく感じがした。涙が目の奥からじわん、と滲んでくるのを感じた。俺が変に黙ったせいで、部屋は静まり返っている。
(どうしよ、なんか話さなきゃ)
「あの、起きたなら、カレー作りにいきます?」
男は俺の心の声が聞こえたかのように俺が何かを話そうとしたちょうどそのとき、そう切り出した。
「カレー?」
目を合わせないまま立ち上がって、脱いだままになっていた、汚れているツナギを拾ってそれに袖を通す。
「皆で作るから、起きてたら呼んで来いって言われてきたんです」
「そっか、じゃあ・・・行く」
心なしか男の表情が緩んだ気がした。
♢
ロッジの外にある、小さめのキャンプ場のような台所で、みんな米を研いだり、野菜の皮をむいたりしていた。気が早い連中は「ゼロ次会」を始めていて、その中に有紀もいた。
「おー、起きたか」
有紀はジャージに着替えサンダルをはいた姿でチューハイを飲んでいた。周りの数人も似たような恰好をしていて、半袖半ズボン——ツナギが臭すぎて三井が貸してくれた、の俺は少し寒そうに見えたと思う。
「んー・・・」
「なんだよ、低いじゃん」
たぶんもうすでに少し酔っぱらっているのだろう。肩を組まれたかとおもうと、ほっぺたをチューハイ缶でぐりぐりとやられる。しかし、それに突っ込む元気もない。
「んー・・・」
「あれか?教授がドタキャンのせいか?」
教授、という単語が出た瞬間、ビックンと身体が動いた。こんなに分かりやすいのは、地球上で自分位だ、と自虐する。
「・・・・・・」
「なるほど、ね」
有紀はそう言うと、肩に巻いていた手をおろし、厨房のほうへ歩いて行ったかと思うと、デカいボウルを持って戻ってきた。
「ほい」
そう言いながら俺にそのボウルを持たせる。
「なに?」
「ジャガイモと人参。剥いてこい、無心になれるから」
有紀はそう言い終わるか終わらないかのうちに去っていった。楽しい会で、落ち込んでる奴のフォローをするのはなかなかにつらいことだと思う。もしかしたら有紀に嫌な気持ちにさせてるかも・・・と、また落ち込みながら仕方なく洗い場にボウルを持ってトボトボと歩く。そして、人参を剥こうとしてピーラーを探す。だけど、包丁しか見当たらない。
炊事していると、また母のことを思い出す。母さんが作る料理はどれも切って焼くだけのものだった。だけど、俺はそれが好きだった。作るために一緒にスーパーへ行ったり、手伝っているのか邪魔をしているのかわからないような感じで台所の周りをうろついたり、今日の出来栄えに二人で点数をつけあうのが楽しかった。
父と母が離婚したのは俺が八歳の時だったから、そうして笑っていられた時間はごくわずかだった。父に引き取られて、すぐに継母ができ、それから炊事なんてほとんどやっていない。継母と義妹が似たようなことをしているのを遠くから眺めているだけだ。
人参を持ったままぼうっとそんなことを考えていると、よこからひょいっと人参をとられた。
「あんた、人参剥いたことないんですか?」
俺がぼんやりしていたのが目に入ったのであろう、三井は声をかけてくる。
「いや、え?」
「貸してください」
三井は話を聞かずに包丁まで奪う。そして、ためらいなく人参に包丁を入れた。人参のほうから包丁へ引き寄せられるみたいにするすると皮がむけていく。皮の厚さはごく薄く、だけど均等だった。皮をむく手に迷いはなくて、まるでその人参の形を最初から知っていたようだ。くぼみや、出っ張りにもあっさりと包丁を添わせ、あっという間に一本剥き終わってしまった。俺はそれにすっかりと見惚れた。
三井の手は、大きくて、分厚くて、骨ばっている。どんなに洗っても落としきれない粘土が爪の間にところどころ残っている。粘土造形を専攻しているんだと思う。手に触れた物の形を瞬時に理解する手。大きな手。
「おーい、天才くん、飲んでる?」
ぼんやりと三井の手を見つめていると、そこに、ゼロ次会をはじめていたチャラい彫刻科の男——山田、が、わざとらしく大声を出して三井に絡みに来る。「天才」という単語を聞いて、俺ははっとした。噂の天才とは三井だったのだ。
「飲んでないです。ジャガイモ剥いてるんで」
「真面目だねえ。適当にして早く飲もうよ」
山田はそう言いながら三井が剥き終わった人参を手に取ってじろじろと見つめる。まるで作品を値踏みするみたいに。
「はい。終わったら飲みます」
三井は返事をしながらジャガイモを剝き続ける。山田の人参へのいやらしい視線を意にも留めていない。そんな三井の様子をつまらなく思ったのか、山田は値踏みもそこそこに去って行った。俺は俺で、もしかして自分もあんな目で三井の手を見つめてしまっていたのかと思い、気まずくなって山田の後を追った。
山田についてきたは良いものの、山田とその友人たちはノリが合わない奴らだから、一緒に飲みたくなかった。机の上にあった冷えてないレモンチューハイを一缶くすねて誰もいない洗い場のほうへ戻る。みんなが食べ終わるまでここには誰も来ないだろう。柱にもたれかかって皆がロッジやベランダ、テラスなど思い思いの場所で飲んでいるのを眺めながら、缶を開ける。プシュッと良い音がして、すぐに缶に口をつけた。
(もう、教授とは終わりなのかな・・・)
本当だったら今頃、部屋に二人でいたはずだった。
(一人で浮かれてた)
深くため息をつく。すると、春の夜の冷たい風が吹いた。空を見上げると月は雲に隠れている。寒い。半袖半ズボンの自分は、ここに立って飲んでいてもろくなことにならないだろう。まだ一口チューハイを飲んだだけだが、自分の中でもうお開きにすると決めて、宿泊棟のほうへトボトボと歩いた。
♢
シンとした真っ暗なツインの部屋に戻ってきて、電気をつけると、じわっと涙がにじんだ。我ながら情けないけど、それくらい教授に会いたかった。
教授は自分の人生の光だった。両親が離婚したとき、いろいろあって不登校になってしまった。一日中何もすることがなくて、ただ膝を抱えてぼんやりと外を見て過ごした。そんなとき、教授は俺に絵の具をくれた。外の景色を描いてごらん、と絵筆を握らせてくれた。暗く感じるなら黒で描いてもいい、写真じゃないんだから感じるままに色をのせなさいと教えてくれた。それからしばらく、ひたすら黒い絵を描き続けた。黒いスイカ、黒いもみじ、黒い雪。
だけど、春が来て花が咲いたとき、俺の絵は色彩を取り戻した。理由はわからない。ただ、時間の経過とともに気持ちの問題になんとなく整理がついたのだった。
学校にも教授に会いたくて行くようになった。小中高一貫校で、校舎が入り組んでいるから、移動教室のとき大学のキャンパスを横切ることがある。そのとき、まだ学生だった教授が教室で絵を描いているのが窓から見える。その一瞬のために俺は学校へ通っていた。
時がたって、中学に進学したころ、教授の結婚に胸が張り裂けるほどの痛みを感じたとき、自分の心の中にある特別な感情に気が付いた。教授に憧れているだけでなく、恋をしていた。会いたかった。もっと言えば触れたかった。
そんな俺の気持ちは教授にバレバレだったと思う。気持ちを隠すすべを知らなかったから。中学生のころはやんわりと拒絶されていたが、高校に進学してからは徐々にそういう関係になって行った。そして、俺の十八の誕生日に思いは実を結んだ。一線を越えた。
「ずっと好きだったよ。今日をずっと待ってた」
淫行教師にならないために、俺が成人するまで思いを秘めていたと告白されたとき、俺は感激して泣いた。
これが、俺の八歳の時から続く壮大なラブストーリーの全容だ。
ベッドに倒れこむと、いつもの癖で丸くなって目を閉じる。目のふちが涙で濡れているのを感じながらも、まだ三徹の疲れが取れ切っていないせいで、そのまま意識を手放した。夢の中で、誰かが真っ白で清潔なタオルで俺の涙を拭いてくれた。
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