薔薇の棘
長月いずれ
第1話 花
あんた、男が好きなの?」
四月の新入生歓迎展示会で、俺の描いた絵を見るなり、その男——三井満(みついみつる)はそう言った。
♢
私立金沢園田美大、三年、洋画専攻、園田美央(そのだみお)。苗字からわかるように、父はこの美大の理事で、俺は七光りと呼ばれている。俺の絵は本当に平凡で、絵の才能なんてさっぱりないせいで、「親の力で無理やり入学させてもらった」説は入学当初からささやかれていて、遠回しに嫌味を言われることもある。だけど、本当は入試を受けて正規のルートで入学した(補欠合格だけど)俺は、その嫌味を聞くたびに複雑な気持ちになる。
周りが裏でそんな俺をどんな目で見ているか、俺がいない場所でなんと言っているか、知っている。俺たちがこの学校に入学するために、どれだけの汗と涙を流したと思っているんだとか、大した絵も描けないのにレベルの会わないクラスに出て浮いているとか。
だけど、実際は俺も死に物狂いで入試のために準備をして、うまくできなくて泣いて、それでもあきらめずに努力して、自分を信じて、受験した。みんなと同じなのに、誤解されて、誤解をとこうとしても苗字に邪魔される。
それを見返してやろうと、ひたすら絵に打ち込んでも結果は出なかった。高校のころはコンテストに参加すれば少なくとも審査員奨励賞ぐらいは必ずもらえていたのに、入学してからは一度も表彰されたことがない。
高校から大学へ進学することを機に自分の才能に見切りをつけた学生たちは絵の道をあきらめて、コンテストに参加しなくなる。残るのは、才能とやる気にあふれた猛者たちだけだ。そんな猛者たちの集団で、俺は見事に輝きを失った。
そして、そんな入学してからもその前もずっと淀んだ川に浮かんでいるような人生を送る俺の、唯一の光、それは教授だった。
教授とは、教授が学生だった頃からの顔見知りで、幼い頃、父に連れられて大学のキャンパスに来るたび、当時から頭角を現していた教授の作品を見た。作業室にお邪魔して、出来上がる前の下描きに触れた。教授が真っ白なキャンパスに何をどんな構成で描くかを考え、頭の中で形にし、鉛筆で下絵を描き、何層にも絵の具を重ねる工程を、その頃は全然想像できなかった。ただ、何もわからないまま、壮大さと繊細さを併せ持つ色の塊に虜になった。
窓から夕陽が射す教室は、幼い頃の僕にとって特別な場所だった。油絵具の匂いが染みついたイーゼルと、描き途中の絵が無造作に置かれた部屋は色彩に満ちていた。教授はそんな鮮やかで暖かな印象のその部屋で、木製の古い椅子腰かけ、俺を膝にのせて筆を握らせてくれた。大切なはずの描き途中の絵の上に「好きに絵の具をのせてごらん」と言って、一緒に絵を描いてくれた。幼稚園でクレヨンやクーピーを紙に色を塗るのとは全く違う感覚。まるで、水でゆるくした泥に感情をのせてゆっくりと紙に擦り付けるみたいな。
今思えば、俺はその時絵の描き方を初めて人に教えてもらったのかもしれない。
そして、今は——。
「きょ・・・、教授・・・あの、今日の夜・・・その、もしよかったら・・・」
「ごめんね、今日は家で妻と子供が待っているから」
(向こうにとって)都合のいい相手だ。
♢
——話は冒頭に戻る。
「あんた、男が好きなの?」
「は、はあ⁉」
「だから、男が好きなの?」
無骨な雰囲気のある背が高くてがっちりした、おそらくこの大学の学生であろう男はまっすぐにこちらを見ながらずけずけと至極失礼なことを尋ねてくる。
「・・・いや」
(男、じゃなくて、教授、が好き・・・)
ただ、「違います」と否定すれば終わる話なのに、なぜか即座に否定できなかった。頭と心がすれ違って、結果的に歯切れ悪くそう答えれば、男は関心なさげに「ふーん」と返事が返ってきて、これからどんな会話がはじまるのか、と身構えていたのに、男はそのままあっさり次の展示のほうへ歩いて行ってしまった。
(興味ないのに聞いたの⁉)
言葉通り、嵐のように来て、嵐のように去って行った男と、俺は数日後に同じ部屋で寝ることになる。
♢
思い出の中で、教授と一緒に絵を描いた特別な場所は、今はただの「自分の教室」になった。そして、ゼミの作業室であるこの部屋に、今は誰もいない。ただ部屋の窓から、あの頃とかわらない夕日が射す。窓の外に目を向けると、冬の間丸裸だった枝に、いつの間にかみごと葉をつけた広葉樹林が等間隔に植えられている。
(俺もそろそろ成長しないと・・・)
そう思う俺の前にあるのはイーゼルに立てた白紙のキャンパスで、俺はその前に置いたキャンプ用の折りたたみ型の椅子の背にもたれながらぼんやりとそんなことを考える。
右手に持った鉛筆で下絵を描こうと思うのに、構成が全く思い浮かばない。いろいろと資料を探したり散策して写真をとったりもしたが、まるで、この世にモチーフなんて一つもない、というほど何を見てもピンとこなくて、結果、いま、キャンパスの前でただぼけっと座っている。
ちなみに、いま俺が思う「成長」、とは、絵のことはあきらめて就職用の実務資格の予備校にでも行こうかという意味と、教授とのただれた関係を清算しようか、という二つの意味だ。一年以上前からずっと同じことばかりなやんでいる。去年の今も、ここでこうしていた。十分すぎる時間悩んだのだから、結論なんて出ている。絵はあきらめ、教授と別れる。それしかない。というか、いまのまま続けたところで、いずれそうなる。なのに、どうしても、踏ん切りがつかない。
考え込むうちに、いつのまにか浅く眠って、鉛筆を落としていたらしい。教室のドアが開く音がして、そちらに目を向けると、同級生で親友の佐上有紀(さかみゆうき)が俺の鉛筆を拾いながら「なになにまた悩んでんの~?」、と軽い調子で話しかけてくる。
有紀は背が高く、ひょろりとした眼鏡をかけた男で、渋い、といったらいいだろうか、味のある容姿をしていて、それは女子たちにまあまあ好評だった。そして、俺と教授の関係を知っている唯一の人物で、「アイツはやめとけよ」と真面目に諭してくれるありがた迷惑な存在だ。
油絵具で汚れまくった作業着にたすき掛けの大きなカバンを背負った有紀が俺に鉛筆を渡す。そのついでに、おれの白紙のキャンパスを覗き込む。
「えー、まだ、これ?真面目にやべえぞ」
四月のこの時期にあと一週間で提出しなければならないキャンパスがいまだに白紙なのがどれくらい「やべえ」ことなのかは重々承知していた。プライドをかなぐり捨てて、興味がわかなくても何でもいいから書き始めるべきだった。
「ぐぬう・・・」とうめく俺を無視して、有紀は話を変える。
「そういえばこれ、ダメだったんだってな」
教室の端に乱雑に立てかけてある、「あの日」、展示してあった薔薇の絵を指さして、有紀がフラットな口調でそう言う。ダメだった、とはコンペで落ちた、という意味だった。そんなことはみんな日常茶飯事だから、いちいち結果を指摘するのにびくついたりもしない。有紀はただ、日常会話として、「ダメだったんだってね」、と言っているだけだ。そんなことよりも、
——「あんた、男が好きなの?」
あの日、この絵の前であの男に言われた言葉。俺の絵のモチーフは普通過ぎるほどに普通で、構成もありきたりなものだった。平たく言うとただの薔薇だ。セクシャルな何かを遠回しに表現しようとしたわけでもない。なのに、暴かれた。
(なんでわかったんだ?)
「うん。まあ、次だな」
動揺を有紀に悟られないように、平静を装う。
「そうだな」
「ん」
有紀はおしゃべりもそこそこに自分のイーゼルの前にカバンをおろし、絵の具の準備をし始める。有紀のキャンパスには一面のネモフィラの花畑が広がっていて、あとは微調整すれば完成、というところまで仕上がっている。
「そういえばさ、お前、今年の彫刻専攻にバケモノみたいな新入生が入ったの知ってる?」
有紀が筆を持ってキャンパスに色を付けながら、こちらを見ずに話しかけてくる。
「バケモノ?天才ってこと?」
「海外のコンペで何回も賞取ってる奴で、国立大への推薦もあったのに、家から近いからってだけの理由で、特待でここに来たっていう。天才が彫刻専攻にいるって大学中大騒ぎだよ」
「へえ・・・ヤな感じ」
国立大の推薦を蹴るなんて、「教育なんか受けなくても自分は一流になる自信があります」、と言っているようなものだ。
この大学でも、国立大でも、絵や彫刻で食っていける奴なんてほんの一握りで、みんな死に物狂いだ。昼も夜もなく、筆を持ち、自分の中に眠っているはずの芸術センスなるものを信じ、それを表現するために悶え、苦しみ、それでも芽が出ずに趣味として描き続ける選択をせざるを得ない奴のほうが多い。
なのに、神様は残酷で、たまに努力なんて必要のない特別な才能を持った人間を創造する。「センス」としか言い表せないなにかをむき出しで持って、それを作品に変えることをためらわない。自分で自分の内面を探さなくても、作品に勝手にそういうもの——センス、が出てしまう。努力では決して獲得できないなにかを持っている。そういう奴はたいていそのことを自覚して、鼻にかけている。努力と忍耐を重ねた凡庸な作家の心を簡単に壊す。でも、それでも、誰も「センス」がある作品を否定できない。「だって、才能があるんだから」という一言でなんでも許されてしまうのがこの世界だ。
「そいつがさ、来るんだって」
「来るって、どこに?」
「専攻ゼミ合同合宿」
『専攻ゼミ合同合宿』とは、毎年四月の第二土曜日と日曜日に開催される、新入生と先輩たちが交流を深めるための合宿だ。合宿とは名ばかりで、絵を描いたり彫刻作品を作成したりは一切ない。小学生の林間学校のような要領で、県外から入学してきた学生向けに昼間は軽く観光地を回り、夜は合宿所の広い厨房を借りてカレーを作り、その後、飲む。ただそれだけだ。単位なども関係ないから、興味のない学生は参加しなくてもいいし、実際に不参加者も毎年いる。
「へえ、そういう奴って、お高くとまってそういう場所には来ないイメージたけど」
実際、二年前に卒業した、特待生だった先輩はそういう類の交流を一切拒絶して、ほかの学生を馬鹿にしていた。とくに、必修でしぶしぶやらされていた、下級生の指導授業のときの、先輩のすばらしい態度は、下級生の中では伝説にとして語り継がれている。
「意外といいやつかも」
「かもな。どのみち、俺は今年は行けない
「え、なんで?行こうよ」
有紀は根明と言えばいいのか、「親睦会」が大好きで、飲み会の幹事なども、いつも率先してやっている。俺はどちらかというとその逆だけど、有紀に手を引っ張られてなんやかんやいろいろな会に参加していた。参加した後は、いつも、「まあまあ楽しかったな」と感じるから、俺も有紀の誘いを強くは断らない。だけど、今年は事情が違った。
「これ見て、よく誘えるな」
俺は顎で自身の前に立てかけてある白紙のキャンパスを指す。
「まあ、確かにそれはなあ・・・」
さすがの有紀も、「いいじゃん、行こうよ」とは言えない。
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