3話 雛菊 彩寧
「それじゃあ行ってくるね、シェーラ。」
そう呟いて、奏斗は部屋を後にした。その姿は今までとは全く違って、どこか楽しそうだった。
いつもなら、ため息をついて俯いたまま部屋を出ていくのに。これはきっと喜ばしいことなのだ。それなのに、奏斗は心のどこかでそんな自分を受け入れるこどができないままでいた。
快晴。
その青さが、奏斗の足取りを軽くする。
「―――――と、奏斗。」
ふいに名前を呼ばれた奏斗は勢いよく振り返った。そうして喜びを隠しきれないまま口にした言葉を言いきる前に、奏斗は自分の間違いに気づいた。
「おは、よう。」
「悪かったわね、雛菊 彩寧じゃなくて。」
そう言って橘 花桜は奏斗を睨む。
「何の用だ。」
「別に。用なんてないわ。」
「じゃあなんで呼び止めたんだ?」
奏斗は自分の口調がいつもより強くなっていることに気づく。橘 花桜のことになるといつもそうだ。どうしてか、彼女はいつも奏斗を苛立たせる。
「時間が、ないのよ。」
そう呟くと、花桜は逃げるように校舎に入っていった。すれ違いざまに、ある言葉を吐いて。
「雛菊 彩寧に気をつけて。」
その意味を、奏斗はまだ理解できなかった。
結局、教室に入るまで奏斗は彩寧に会わなかった。それどころか、見かけることも声を聞くこともなかった。彩寧と離れて、奏斗はようやく自分にとって彼女がもつ意味を理解した。彩寧がいない一日は、不安でいっぱいだった。
授業に身が入らない。何をするにも集中できない。気づけば彼女のことを考えている。そのことになんの違和感もない自分が不思議だった。
そうしてとうとう、奏斗は昼休みに彩寧のクラスに乗り込んだ。しかし、そこに彩寧はいなかった。
「彩寧は、休みなのか?」
扉近くにいた生徒にそう尋ねると、その生徒は首を傾げた。
「彩寧って、誰?」
奏斗は驚いて固まった。知らないはずがないのだ。雛菊 彩寧は、校内のほぼ全員に知られているはずだから。それなのに、彩寧と同じクラスの人が、彼女を知らないわけが無いのだ。
「なんの冗談なんだ?」
「冗談?それはこっちのセリフだって。
あんた、寝ぼけてんじゃないの?」
ピシャリと言われて、奏斗は困惑した。間違っているのは僕か、それとも周りの人たちか。もしかしたら僕はまだ夢を見ているのかもしれない。それなら早く覚めてしまえと、奏斗は思う。
彩寧が奏斗の前に現れたのは突然のことだった。容姿端麗な彼女に誰もが目を奪われた。だけど、誰も気にとめていなかった。一体、彼女はどこからやってきたのか。
「雛菊 彩寧という生徒はうちにはいませんよ。」
そう言ったのは、彩寧のクラスの、正確にはいつも彩寧がいたクラスの担任だった。奏斗はついに自分が信じられなくなった。頬をつねったときの痛みが、余計に不安をかきたてる。同時に、奏斗は橘 花桜の警告をようやく理解した。
それはまるで、魔法が解けたみたいだった。自由になった気がするのに、自分という存在が意味を失い始めたような気がして。奏斗は怖くなった。
「………………シェーラ。」
無意識に呟いた名前。何か意味がある訳でもない。ただ、奏斗がこうした不安にさらされた時、いつもそばにいたのがあのぬいぐるみだったというだけだ。
「少し、落ち着こう。」
何度か深呼吸をした。震えた指先を握りこんだ。比羅澤 奏斗は、冴えない頭を総動員してひとつの答えに辿り着こうとしていた。
突然現れた雛菊 彩寧。
彼女を中心に明るくなった生活。
橘 花桜の警告。
トラックに轢かれそうになったこと。
階段で水をかけられそうになったこと。
突然いなくなった彼女。
それから、
神様の真実。
「彩寧、君は………………」
「どうしたの、奏斗。」
突然、背後から聞こえた声に奏斗は振り返る。いつもと変わらない笑顔を浮かべた雛菊 彩寧が、奏斗を見つめた。
「ねぇ、奏斗。奏斗にプレゼントがあるの。」
雛菊 彩寧は奏斗の手を握った。その瞬間、奏斗の中の不安感は消えた。その代わりに、今までで1番の幸福感を覚えていた。
それはまるで、魔法にかかったみたいに。
これは比喩なんかでは無い。本当に、奏斗は魔法にかけられたのだ。与えられた幸福のその意味を、彼は知っているはずなのに。
「私ね、奏斗のためにいっぱい準備したんだ。
だから、一緒に来てくれる?」
「もちろん。」
奏斗に迷いはなかった。当然だ。だってこれは、奏斗が望んだことだから。いや、正確には彼が望んだことの一つだから。
奏斗は彩寧の手をとった。そして、彼女に手を引かれるまま階段を上った。屋上の扉の前、立ち止まった。
「ねぇ、奏斗。」
「どうしたの、彩寧。」
「奏斗は、今、幸せ?」
「そう、だね。そうなのかもしれない。」
「そっか、そっかぁ。」
彩寧は満足そうに笑った。それから、ドアノブを掴むと、一気に扉を開く。
眩しい光が目を突き刺す。視界が白く染って何も見えなくなる。風が勢いよく吹き付けて、1歩目を拒む。少ししてから屋上に目をやると、それは、奏斗が想像していた屋上とは違っていた。
「全部、奏斗のために準備したんだ。」
屋上にはカラフルな花が咲き乱れていた。空高く昇った太陽は、何故か影を作らない。なにかに導かれるように屋上の真ん中へと歩み出す奏斗の背に、雛菊 彩寧がつぶやく。
「私だけの
もう誰にも、邪魔させない。」
神は大きくわけてふたつに分類される。1つは生を司る神、もう1つは死を司る神だ。
生を司る神は、人々に試練を与える。それは辛いことばかりだ。しかし、あなたが神に愛されているならば、それらを乗り越えるために神々は様々な力を貸してくれるはずだ。
一方、死を司る神は、人々に幸福を与える。その人が望む幸せでいっぱいに満たした後、死へと導くのだ。一度死神に魅入られた人は後に戻ることはできないだろう。なぜなら彼らは、本当の幸福を知ってしまったのだから。
彼女は、雛菊 彩寧は後者だ。彼女は奏斗の望みを叶えるためにこうして現れた。彼が望んだ幸福を与え、彼にとって最高の最期を用意する。
今まで何度も邪魔された。あの橘 花桜とかいう女に。だけど、もう誰にも邪魔できない。なぜなら、奏斗は幸福を知ってしまったから。
「ねぇ、奏斗。奏斗は、よく頑張ったよ。
だから、もう無理しなくていいんだよ。」
苦痛な日々の中で、奏斗は2つの願い事をした。
1つは、もう死んでしまいたいと。
そして、もう一つは……………。
「だからね、奏斗。2人で、楽になろう。」
1歩、また1歩と奏斗に歩み寄る。奏斗はぼんやりとした目で彩寧を見ていた。
「俺、は。」
奏斗の声が、静寂の空に響く。
「俺は、もう、大丈夫。」
「なにを、言ってるの………………?」
奏斗は笑った。
「だって、俺はひとりじゃないって、彩寧が教えてくれたから。だから、俺は。」
まだ、生きていたいって思う。
はっきりと、奏斗はそう言った。その瞬間、空は暗くなり、風が吹き荒れ、枯れた花びらが飛んでいった。それと同時に、奏斗は自身にかけられた魔法が再び解けたのだった。
この状況を前にしても、奏斗は冷静だった。今の奏斗は、雛菊 彩寧が何者かを理解している。そして彼女を生み出したのが自分で、また彼女を狂わせたのが自分であることにも気づいていた。
死神は人を愛し、愛した人を死へと導くのだ。死神の思いは強く重い。それゆえに死神の多くが人の姿をしていると言う。愛する者が死を拒んだとき、死神は悪魔にすら堕ちていくだろう。
奏斗が生を選んだこと。それはすなわち、彩寧が悪魔に堕ちてしまうことを意味していた。
「どうして、どうして、どうして!
全部、あなたが望んだことなのに。」
どうして、私の言うことがきけないの。
ああ、そうか。
きっと、あいつのせいだ。
全部、あいつが悪いんだ。
あの女が私から奏斗を奪った。
あの女が奏斗から私を奪った。
きっとそうだ。
「ねぇ、奏斗。私と一緒に逝こう?」
雛菊 彩寧の瞳が、金色に光る。威圧感を乗せた言葉が、奏斗の思考を奪う。
そうだ、これでいい。
だって、君が望んだんだから。
可愛い私の
どうせ悪魔に堕ちるならその時は一緒だ。
だって君のせいだから。
さあ、こっちに来て。
私の、私だけの奏斗。
「あや、ね、めを、さま、して。」
奏斗の声が聞こえる。
どうして、どうして?
私が望んだことなのに。
あなたが望んだことなのに。
私は、あなたを傷つけたくないのに。
雛菊 彩寧は泣いていた。彼女は知っていたから。悪魔に堕ちた死神は、やがて自我を失い、愛するものと共に死を望むと。今の彼女には、愛する人を守る力は無いと。初めからそんな力は持ち合わせていなかったと。
奏斗と2人で過ごす時間は彩寧にとても幸せだった。いつの間にか、彼女自身も生を望んでいたほどに。だけど、それは許されない願い。あと数分もすれば、彼女は悪魔に堕ちてどんな手を使ってでも愛する人を死へと導こうとするだろう。
運命とは残酷だ、と彩寧は最期にそう思った。願わくば奏斗のもう1つの願いが叶うようにと、そう祈って、雛菊 彩寧は消えた。
そう、奏斗の目の前にいるのは、もはや彼女では無くなった悪魔にすぎなかった。
「こっちだよ、奏斗。」
声も、姿も、笑い方も。全部彼女と同じ。だけど、彼女とは決定的に違う何かがあった。
「彩寧、彩寧!お願いだ、元に戻って!」
叫んでも無駄だと気づいても、奏斗は叫び続けた。気づいたときには腕を掴まれていて、そこの見えない闇に引きずられていた。
これは報いなのだ。
我儘な願いを並べた、俺への罰なのだ。
俺は選択を間違えた。
もしあの時彼女に応えていたら。
俺は、彩寧は。
死神が彼を愛していたように、彼もまた死神を愛していた。それだけは、疑いようのない事実だった。だけど、奏斗にはもうどうしようもないこともまた事実なのだ。
「待ちなさい、比羅澤 奏斗。」
突然聞こえた声は、聞きなれたものだった。
「勝手に諦めるなんて許さないわ。」
橘 花桜はそう言って奏斗の方に歩み寄る。その瞳は、水色の光を帯びていた。
「比羅澤 奏斗。お前には2つの選択肢がある。
1つはこのまま雛菊 彩寧と死ぬこと。
そしてもう1つは、生きること。」
そこで少し間をあけて、橘 花桜は続ける。
「選びなさい、比羅澤 奏斗。」
「俺は………………。」
奏斗は選べなかった。このまま2人で死んでしまってもいいとも思った。だけど、叶うならまだ生きていたいと、彼女とまた生きたいと思っていた。
そう、奏斗の願いは決まっていた。生きること、雛菊 彩寧と2人で。
「俺は、彩寧と生きたい。」
「雛菊 彩寧はお前を殺そうとしたのよ。トラックも、階段で水をかけるように仕向けたのも、全部あいつ。それでもお前は、彩寧と生きることを望むの?」
「ああ、だって、俺が望んだことだから。死にたいと、そう言ったのは俺だ。俺は、彩寧を責めようとは思わない。少なくとも、俺にとって彩寧は生きる理由をくれた人だから。」
橘 花桜は目を閉じて考えた。
それから、頬笑みを浮かべた。
「合格よ、比羅澤 奏斗。
お前の願い、私が叶えてあげる。」
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