2 橘 花桜
「………うわっ!」
朝。校門を通り過ぎたあたりで背中を押された比羅澤 奏斗は、驚きのあまり声を上げた。それを見た雛菊 彩寧は笑う。
「おはよう、奏斗。」
「もう、びっくりさせないでよ。」
「はは、ごめんごめん。さあ、行こう。」
彩寧は奏斗の手を引いて走り出す。憂鬱な学校も、彼女がいるからそれでいい。
靴を履き替えると、彩寧はまた手を差し出した。その手を掴むと、今度は奏斗が彼女の手を引いた。
どうして恥ずかしげもなくこんなことをするのか、奏斗は分からなかった。気にもしなかった。それほどまでに、雛菊 彩寧は奏斗の生活の一部になっていた。
「ねぇ、今日は一緒に図書館に行こう?」
「昨日のこともあるし、彩寧が気にしないならそうしようか。」
階段を1段、また1段と上っていく。それかたまらなく寂しい。この手を、離したくない。
「―――――――!―――今だ!」
頭上から、何者かの声が聞こえた直後、奏斗は咄嗟に彩寧を庇うように抱えた。そのとき、奏斗の背に大量の水が音を立てて降り注いだ。
ドタドタと足音が聞こえる。そして静かになった頃、彩寧はようやく声を出した。
「なにが、おきたの?」
奏斗は濡れた階段を慎重に上った。すると、先程いた場所をちょうど見下ろせる場所の足元に転がるバケツを見つけた。
「バケツ、一体誰が―――?」
「奏斗、大丈夫?」
追いかけてきたのか、振り向くと奏斗の後ろに彩寧が佇んでいた。
「大丈夫、なんとか濡れてない。彩寧は?」
「私も大丈夫。奏斗が守ってくれたから。」
彩寧は頬を赤らめながら呟く。そのとき、再び足音が聞こえたと思うと、あの声が聞こえた。
「……………雛菊 彩寧。」
階段の上から、橘 花桜が見下ろしている。それから、花桜は勝ち誇ったような顔をして笑う。
「お前、なんのつもりだ。」
奏斗は彩寧の前に立つと、低い声でそう言った。奏斗に睨みつけられた花桜は、一瞬驚いたような顔をしてから、思いついたように言う。
「ああ、そういうこと。今からでも遅くないわ。比羅澤 奏斗、私の方に来なさい。」
花桜の瞳が、青く輝くように見えた。直後、奏斗の体は彼女に引き寄せられるように動き始める。
「奏斗!ダメだよ、行かないで?この水も、アイツのせいなんだから。」
彩寧の声で、奏斗は正気に戻る。それに気づいたのか、橘 花桜は舌打ちして雛菊 彩寧を睨む。
「いつまでも、思い通りにさせるもんか。」
逃げるように走り去る花桜を見つめながら、雛菊 彩寧が不可解に笑っていたのを奏斗は知らない。
「彩寧、行こう。気にしたら負けだ。」
「そうだよ、あんなやつ無視していいんだから!」
濡れていた階段は気がつくと何事も無かったかのように乾いていた。あとから登校してきたある生徒が、どうしてこんな所にバケツが?と首を傾げながら片付けてしまえば、そこで起きた事件など誰が知ることができようか。
1時間、2時間と経てばついに奏斗すら朝の出来事を考えなくなっていた。ノートにひたすらペンを走らせる奏斗の姿に周りは不気味さを覚えるほどだった。
昼休みを迎えた教室は急に騒がしさを取り戻し、奏斗はその中に一人取り残されたような気がした。家から持ってきた菓子パンを片手に、机に参考書を広げる。午前の授業を振り返りながら食べるパンは、心なしか乾いていて不味かった。そう言うかのように、最後の一口をペットボトルのお茶で流し込む。
時間にしておよそ5分。昼食を終えた奏斗は、そのまま問題集に取り組み始めた。1問、バツがついた。また1問、その次も。今まで経験したことがないミスに、奏斗は焦っていた。
「………………クソッ。」
短いため息を吐き捨て、奏斗はシャーペンを握り直した。次の1問に取り組もうにも何故か身が入らない。それもこれも、どこかから聞こえるあの声のせいだ。
「――――――!」
怒鳴り声。おそらく橘 花桜のものだろう。先程から大きな声を響かせては時々、ガシャンと物音が聞こえる。
完全に集中力が切れた奏斗は、声の聞こえる方に向かった。そして、たどり着いたのは屋上のドアの前で仁王立ちしている橘 花桜と、2人の男子生徒の姿だった。
奏斗は一つ下の踊り場で、その場の出来事を息を潜めながら見守ることにした。
「お前たち、自分がどんな立場がわかっていないのかしら?今目の前にいるのは私よ。」
「はっ、どんな立場かわかってないのはそっちの方だろ?」
「彩寧みたいに可愛げがあったらまだしも、こんなんじゃ誰もお前の味方なんてしないだろうな。」
「ああ、もう面倒くさいわね。あの女、こんな小細工までして。」
橘 花桜はそこで言葉を区切ると、すぅっと深く息を吸い込んだ。
「言いなさい。お前たちは、一体何がしたいの?」
「………………俺、たちは――――――」
聞こえない。その代わりに、大きな音を立てて何かが階段を転がり落ちた。
「バケツ?」
奏斗は足元のソレを持ち上げると、慎重に階段を上った。
「何してるの、こんな所で?」
奏斗は低い声で言う。その足は、震えている。奏斗が彩寧以外に、まして修羅場に割り込んでまで人に話しかけることなんてない。奏斗は今かなりの精神力を消費しているに違いない。
「…………比羅澤 奏斗。っ、どうしてここに来るのよ。もういいわ、好きにしなさい。」
そう言い捨てて、橘 花桜は走り去っていった。それを見送って、奏斗は息を吐く。
「大丈夫だった?」
奏斗が2人に声をかけると、彼らは困惑した顔で固まった。
「お前、自分が誰に言ってるのかわかってるのか?」
「誰って、君たちだよ。確か彩寧と同じクラスだったよね。俺は比羅澤 奏斗、知ってるかもしれないけど。」
2人は顔を見合せて、それから小さな声で一言二言交わしたあと、奏斗に向き直った。
「ああ、助かったよ。えっと、急にあいつに呼び出されて、こんなことになって。」
「そうそう、それにあいつ、怒鳴る時なんか目の色が変わって気味が悪いんだ。アンタも気をつけた方がいいぞ。えっと、じゃ、じゃあ僕たちは戻るから、うん。そういうことで!」
そうして2人もどこかへ行ってしまった。それからしばらく、奏斗は一人で佇んでいた。手にバケツを持ったままで。予鈴が鳴ってようやく、奏斗も慌ててバケツを片付け教室に戻って行った。
放課後、約束通りに奏斗は彩寧のクラスを訪ねた。窓際の席で、たくさんの友人に囲まれて微笑む彩寧を、少し羨んだ。自分にもあんなふうになれたかもしれない。少なくとも、一人で菓子パンをかじる生活ではなかっただろう、と。
「彩寧、来たよ。」
教室の入口から、奏斗は彩寧に手を振った。すると、彩寧はすぐに立ち上がって荷物をまとめた。
「あやねぇ、もう行っちゃうの?」
「うん、奏斗と約束してるから。」
「えぇ〜、いっつもそればっかり。たまにはウチらとも遊んでよ。あんなヤツほっといてさ。」
「そうそう、アイツのどこがいいのか知らないけど、絶対図書館行くよりカラオケ行く方が楽しいって。」
奏斗は聞こえないフリをした。わざとらしく大きな声で発せられる言葉の槍からみを守るように、奏斗はぴったりと壁に背中をつけて俯いた。
「残念だけど、君たちといるより奏斗と居た方が楽しいんだ。だから、――――――。」
ゾクッと、背筋が凍るのを感じた奏斗は、思わず顔を上げた。それは確かに彩寧の声だったのに、今まで感じたことがないほどに冷たい声のように聞こえた。
『彼女に関わるのはおすすめしないわ。』
ふと、橘 花桜の言葉が脳裏に浮かぶ。なぜ今思い出したのか、やはりあれは警告なのか。いくら考えても奏斗には分からない。
「奏斗、どうしたの?」
いつの間にか教室から出てきた彩寧は、いつも通り声で言った。それにすっかり安心した奏斗は、さっきまでの不安感を全て気のせいだ、と忘れることにしてしまった。
その後、いつものように奏斗は勉強を、彩寧は読書をしていた。不思議なことに昼休みに感じていた焦りもなく、奏斗は彩寧の隣で安心して問題集に取り組むことができた。そうして日も暮れかけて図書館をあとにした奏斗は、彩寧に気になっていたことを聞くことにした。
「彩寧、彩寧は神様を信じてるのか?」
すると、彩寧はピタリと立ち止まっていつもより少し暗い声でこう言った。
「どうしたの、急に。」
「え、いや、ほらいつも読んでる本。神様に関する本ばっかりだから、てっきりそうなのかと思ってたんだけど。」
慌てて言い訳を並べる奏斗に、彩寧は笑った。その表情はどこか、満足そうに見えた。
「神様は、いるよ。」
彩寧は真っ直ぐに奏斗の瞳を見つめて、ゆっくりとそう言った。
「そう、だね。それなら、きっと昨日も今日も、神様が俺たちを助けてくれたのかもしれないね。」
「そうかな?あれは神様は神様でも、疫病神の方だよ。」
それから少しの間、いや、長い時間だったかもしれない。2人はあれこれと思いつく話をしては帰らなければならないことを惜しんだ。そうして影も伸びきって見えなくなった頃、ようやく手を振って別れたのだ。
夜、奏斗は例の本の続きを読んでいた。
「神様、か。」
奏斗の手元のページには、昨日読んだところよりも詳しく神様について書かれていた。
神は大きくわけてふたつに分類される。1つは生を司る神、もう1つは死を司る神だ。
生を司る神は、人々に試練を与える。それは辛いことばかりだ。しかし、あなたが神に愛されているならば、それらを乗り越えるために神々は様々な力を貸してくれるはずだ。
一方、死を司る神は、人々に幸福を与える。その人が望む幸せでいっぱいに満たした後、死へと導くのだ。一度死神に魅入られた人は後に戻ることはできないだろう。なぜなら彼らは、本当の幸福を知ってしまったのだから。
神は時々、物に化ける。それは公園に生えている木かもしれない。或いはお気に入りのあのぬいぐるみかもしれない。名付けられた神はより強い力をもち、そして時に人の姿で現れると言う。
神の本当の力を借りたいのであれば、その瞳の輝く時に神の真名を呼ぶといい。神との強い繋がりが、必ずやあなたを助けるだろう。
「物に宿る、だって。シェーラ、君にはどんな神様が宿っているんだ?なんて、そんな訳ないよな。」
この時、奏斗はページの隅の方に小さく書かれた文章を読み飛ばしていた。それは、こんな内容だった。
死神は人を愛し、愛した人を死へと導くのだ。死神の思いは強く重い。それゆえに死神の多くが人の姿をしていると言う。愛する者が死を拒んだとき、死神は悪魔にすら堕ちていくだろう。
奏斗は本当の意味で、神様の真実をまだ知らない。いや、知らない方がいいのかもしれない。それでも。
『私は貴方を守りたい。そのためなら、私は何者にだってなれるのよ、奏斗。』
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