マリオネットに花束を

蒼井 芦安

1 比羅澤 奏斗

 人は都合のいい出来事を幸運と呼び、都合の悪い出来事を不幸と呼ぶ。

 人は努力が報われると運が良かったと謙遜し、報われなければ運が悪かったと慰める。

 この世界に、人々が望むような神様はいない。

 身勝手で、傲慢で、人々に憎まれ、あるいは親切で、控えめで、人々に愛される。神様とはそういう、人間に最も近い存在なんだ。

 

「比羅澤くん、どこへ行くの?」

 ピクリと動きを止めて、比羅澤 奏斗は足を止める。それを見た橘 花桜はニヤリと笑った。

「なんだよ、俺は用事があるんだ。お前なんかに構ってる暇なんてないんだよ。」

 奏斗は再び歩き始める。

「雛菊 彩寧に会いに行くのですか?」

 奏斗は足を止めた。

「だったら、お前に関係あるのか?」

 花桜は真っ直ぐに奏斗の背を見つめる。

「彼女に関わるのはおすすめしないわ。」

「悪いが、お前の言うことは信頼できない。他の奴らにも聞いてみるといい。誰一人として、彩寧よりお前を信じるやつはいないさ。お前は彩寧に適わないんだよ。」

 早足で立ち去る奏斗の背に、枯葉を巻き込んだ風が一筋。そして花桜の声が街に響いた。

「―――待ちなさい、比羅澤 奏斗。」

 少年の足が、動きを止める。

「お前、俺になにを……」

 振り返った先に、少女の姿はなかった。

 

「彩寧!」

 約束の時間からは既に5分以上過ぎていた。青信号の横断歩道の先で、雛菊 彩寧が振り返った。

「奏斗くん、早く!」

 彩寧に急かされた奏斗は走る。そして、ちょうど右足が1つ目の白線を踏もうとしたとき、比羅澤 奏斗の目の前を1台の大型トラックが通り過ぎた。

 歩行者用信号機は点滅している。

「…………嘘だろ、死んだかと思った。」

 次の青信号で、彩寧は奏斗のいる方に駆け寄ってきた。

「奏斗くん、大丈夫だった?」

「ああ、なんとか無事だよ。はは、もうダメかと思った。」

「そんなことないよ。奏斗くんには私がついてるんだから。」

 そう言って雛菊 彩寧は奏斗の手を握った。それから何度か言葉を交わしたあと、2人は歩き始めた。

 

 快晴。

 呆れるほどの青空が、広がっていた。

 

 行先はいつもの図書館だった。比羅澤 奏斗はここで雛菊 彩寧と出会ったのだ。いつものように一人で勉強していた奏斗にとって、彩寧の登場は刺激的なものだった。

「こんにちは。隣、いいかな?」

 彩寧は同じ高校の制服を纏っていた。話を聞けば、同じ学年だという。それなのに、奏斗は彼女のことを知らなかった。整った顔立ちに、鈴のような声。一度でも会ったことがあれば忘れられないその姿に、心当たりがなかった。

 奏斗が勉強している間、彩寧はずっと本を読んでいた。そんなに真剣に何を読んでいるのかと思って見れば、その手にあったのは『神様』に関する本だった。

 2人は初めはほんの少しだけ大したことの無い言葉を交わすだけだった。それこそ、今日は暑いねとか、ずっと雨だねとか。そうしているうちに、学校でもよく会うようになって。気づけば2人で図書館に通うのが日課になっていた。

「奏斗?どうしたの、ぼーっとして。やっぱりどこか怪我したんじゃ…………。」

 奏斗の手が止まっていることに気づいた彩寧は、本を置いて奏斗の顔を覗き込んだ。

「え、あぁ、大丈夫。ちょっとだけ考え事をしてて。」 

「へえ、どんな考えごとだろう。」

彩寧はイタズラを企んでいる子供みたいに笑って言った。

「秘密。」

それだけ言って、奏斗は再びペンを動かした。奏斗のノートには小さな文字かぎっしりと並んでいる。授業の内容や模試の出題内容までが書き込まれたそれは、奏斗が他人に見せない努力を示していた。

もとより奏斗は友達付き合いが得意じゃない。どちらかと言えば一人でなにかすることを好む。そのせいで周りからは真面目とか、頭良さそうとか評価されている。実際は勉強なんて大の苦手で、こうして毎日図書館に引きこもらなければ授業にもついていけない。それがかえって奏斗の評価を過剰に底上げしているとも知らずに。

そんな中、奏斗に友人ができたという噂が広がった。話題になるのも仕方ない。友達がいないとはいえ、奏斗は学年全体においてかなりの有名人だったから。

部活にも入らず、友達と遊ぶわけでもなく、塾にも行かずにただ黙々と勉強している奏斗の姿は周囲には物珍しく映るのだろう。奏斗が一体どんな人間なのか、興味はあっても近づき難い。クラスメイトにとって、奏斗とはそういう存在だった。

今日の分の予習をやり終え、奏斗は大きく伸びをした。吐き出したため息が、やけに大きく感じられる。

「もうこんな時間。」

雛菊 彩寧が呟く。時計の針は既に日が沈みかける時間を指していた。2人は言葉を交わすことなく荷物をまとめ始めた。教科書、ノート、参考書、ワーク。全部使う訳でもないのに、毎日持ち歩いている。鞄の中にぎっしり詰まったそれを見る度に、奏斗は満たされたような感覚を覚えるのだ。

「彩寧、先に行ってて。」

ふと思いついたように、奏斗はささやいた。そして、目的の棚の前へと迷わずに歩いた。ふいに足を止めると、奏斗は一冊の本を手に取った。


『神様の真実』


古びた表紙にはそう書かれていた。初めて雛菊 彩寧に会った日、彼女が読んでいた本。少しだけ彼女を知りたくなった奏斗は、ちょっとした思いつきでこの本を借りることにしたのだ。

カウンターに行って本を差し出すと、司書は驚いたような顔を見せた。それから、こう続けた。

「あら、あなた本も読むのね。」

奏斗にはその意味がわからなかった。困った顔のまま固まっていると、司書は笑った。

「ほら、あなた、いつも勉強ばかりでしょ?だから、てっきり読書に興味が無いのかと思ったけど。」

そこで言葉を区切った司書は、奥の方にある机の方に視線を向けた。それは、先程まで奏斗と彩寧が座っていた場所だった。

「うちの司書は、みんなあなたのことを知っているわ。勉強熱心だって、みんな応援してる。というより、最近までは心配してたのよ?毎日ここに来て、たまには遊んだりしないのかって。でも、今は違うわね。さぁ、いってらっしゃい。引き止めて悪かったわね。早く、彼女さんのところに行った方がいいわ。」

イタズラをする子供みたいな顔でそう言った司書の前で、奏斗は固まっていた。それは、急に褒められたせいなのか、それとも彩寧を『彼女』と言われたせいなのか、とにかく動揺を隠しきれない奏斗は、逃げるように図書館を出ることになった。


「奏斗、遅かったね。」

図書館を出ると、頬をふくらませた彩寧が立っていた。

「ごめん、落し物したみたいで。」

「なんだ、そんなこと?言ってくれたら一緒に探したのに。」

雛菊 彩寧はぷぃっと顔を背けると、それから、声を出して笑った。

「あっはは、そんなに泣きそうな顔しないでよ。怒ってないんだから。ほら、帰ろう?」

そうして差し出された手を、奏斗は優しく握った。それがかなり恥ずかしかったのか、奏斗には何か話しかけることも、彩寧の顔を見ることもできなかった。

「奏斗、奏斗!聞いてるの?」

「え、あぁ、うん。」

「奏斗、やっぱりどこか怪我してるんじゃない?おかしいよ、今日。何かあったの?」

そう言って、雛菊 彩寧は奏斗の顔を覗き込んだ。奏斗は何を言うべきか少し迷ったあと、彩寧に会う前のできごとを話すことにした。

「実は、橘さんに呼び止められたんだ。それで、ここに来るのが遅くなった。」

「そんな!遅くなったなんて、たった5分でしょ?気にしないよ。」

彩寧は急に立ち止まると、奏斗の方に向き直した。それから、奏斗を安心させようとめいっぱいの笑顔を浮かべる。

「ありがとう、そう言ってくれて。でも、遅れたことは本当だから。」

「気にしない、気にしない。それより、私が怒ってるのは、橘 花桜の方だよ。」

彩寧は急に頬を膨らませて、歩き出した。少し遅れて奏斗が追いかけたとき、彩寧は呟いた。

「橘 花桜が呼び止めなかったら、」

「轢かれかけることもなかっただろうね。」

奏斗が続きを言うとは思わなかったのか、彩寧は目を見開いて奏斗を見た。それが可笑しくて、奏斗はたまらず吹き出した。

「でも、そんなふうに考えるのは良くない。確かに呼び止められなかったらこんな目に合わなかったかもしれないけど、悪いのは信号を無視したあの運転手なんだから。」

「そう、そうだよね。でも……………。」


――――――悪いのは、アイツなんだ。


「…………………彩寧?」

「なんでもないよ。ほら、帰ろ?」

そう言って雛菊 彩寧は、奏斗の手を引いて走り出した。いつも通りの、笑顔を浮かべながら。



――――その夜。

比羅澤 奏斗は本を読んでいた。図書館で借りた、あの本。急にこの本を読んでみようと思い立ったのも、彩寧と会った日を思い出したのも、全部橘 花桜の言葉が引っかかっていたからだった。

『彼女に関わるのはおすすめしないわ。』

橘 花桜はその理由を言わなかった。それどころか、奏斗の気を引こうとする素振りも見せなかった。それが余計に『警告』されているように感じられて、奏斗は彩寧への好意の中に無理矢理不信感を埋め込まれた気がしてたまらなかったのだ。

「馬鹿だな。信じないって言ったのに、結局踊らされてるみたいだ。」

そう呟いて、本のページを指先で撫でる。そこには、こう書かれていた。


 人は都合のいい出来事を幸運と呼び、都合の悪い出来事を不幸と呼ぶ。

 人は努力が報われると運が良かったと謙遜し、報われなければ運が悪かったと慰める。

 この世界に、人々が望むような神様はいない。

 身勝手で、傲慢で、人々に憎まれ、あるいは親切で、控えめで、人々に愛される。神様とはそういう、人間に最も近い存在なんだ。


「神様、ねぇ……………。」

奏斗は神様を信じているわけではなかった。ただ、自分以上に彩寧の気を引く『神様』が何か、知りたかったのだ。

「………………あれ?」

改めて見返すと、この本にはおかしいところがあった。奏斗はようやくそれに気づいたのだ。

「無い。」

そう、この本にはなぜか作者名とか、発行日とか、そういう本にあるはずのものが書かれていないのだ。

「こんなことも、あるんだな。」

そう呟いた奏斗は、暗い天井を仰いだ。いつの間にか時間が経っていたらしい。部屋にある明かりは机の上のLED電灯だけで、奏斗の手元の本を照らすだけだった。

「久しぶりだな、寝る前に予習以外のことをするのは。そう思わないか、シェーラ?」

くるりと椅子を回して後ろを向いた奏斗は、誰もいないベッドに、正確にはそこに置かれたぬいぐるみに話しかけた。

シェーラと名付けられたそのぬいぐるみは、水色の瞳のクマの形をしている。子どもの頃に祖母から受け取ったそれは、子供にあげるには少々不気味なものだった。

「シェーラ、今日はね……………………」

暗闇の中、独りぬいぐるみに語りかけていた奏斗は、そうしているうちにやがて深い深い夢の中へと落ちていった。




――――――――気づいて、奏斗


――――私は、あなたを


――――――だから、早く



『夢から醒めて。』

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