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手応えが変わってきた。
自分を取り囲む青い壁を叩き続けていた彼女は、その感触の変化に気付く。最初はぴくりとも歪まなかったのに、今では少し弾力のような感触を帯びてきたのだ。
電磁マテリアルフィールドを知らない彼女に、それが波形の補正が追い付かなくなった(修復にエネルギーを割く余裕がなくなった)証だとは分からない。だがもうすぐ壊れそうな気がする。
その予感は正しく、止めとばかりに渾身の拳を叩き込めば、電磁マテリアルフィールドはついに破れた。バチバチと飛び散る放電を少し眩く感じつつ、彼女は辺りを見渡す。
まず、アステア達が彼女を包囲していた。それなりにダメージを与えた筈だが、閉じ込められている間に回復したらしい。とはいえ彼女にとってこれは想定内。自分も再生能力を活かせば、血反吐を吐く程度のダメージはすぐに回復する。自分に出来て相手には出来ない、なんて都合の良い考えを抱くようでは生存競争を生き残れない。それが侵入生物にとっての常識である。
「フシュウゥゥゥ……」
それはそれとして、彼女はとある『個体』を探す。
ユミルだ。何故彼女はユミルを探すかといえば、とても美味しそうに思えたからである。
比喩や冗談ではなく、本当にそれが大きな理由だ。美味しそう、というのは侵入生物にとって単なる嗜好の話ではない。そもそも『美味』というのは、その生物が求める栄養素を積極的に取り込むための仕組みだ。人間が糖質や脂質、塩分を好むのは、それらが生きていくために必要な物質であるため。
つまりユミルの身体に含まれる『栄養』の比率が、エルフ達よりも侵入生物の身体に近いため好ましく思えたのだ。どのような栄養が含まれているかは匂いで判別しており、百パーセント正確ではないが、本能的に惹かれる程度には有意差があるように感じられた。他にはアステア達は倒れつつも(魔法や小道具による)反撃がありそうだったが、ユミルにそうした力は感じられず全く脅威に思えなかった点も挙げられる。敵側戦力を少しでも削っておきたい、という思惑もあった。
しかし今見回しても、ユミルの姿は何処にもない。どうやら青い壁を破るまでの間に、逃げてしまったようだ。惜しいとは思うが、いないならわざわざ探すつもりはない。
此処にはアステア達という、ユミルほどではないが魅力的な獲物がいるのだから。
「フシャアッ!」
真っ先に狙うのはイリアナ。この女エルフが二番目に美味しそうだと彼女は感じており、故に真っ先に喰いたかった。
戦略的な意味も大きい。彼女はアステア達三人との戦いで、誰がどのような戦闘を得意とするか解析した。ゾアックとアステアは近接戦を主体とし、イリアナは遠距離戦を主体としている。
彼女が得意とするのは近接戦だ。ブレスのような遠距離攻撃は出来るが、本来彼女の種はあんな小手先の技など使わない。純粋な身体機能、それに伴う肉弾戦こそが彼女達の『得意技』なのだから。
故に遠距離攻撃で援護されるのが、一番鬱陶しい。反面、遠距離主体ならば近接すればこちらが有利に戦えるだろう。
それに身体付きが一番華奢だ。ならば恐らく三人の中で一番脆く、殺しやすい。頭数をとりあえず減らしておくためにも、弱いものから狙うのが定石だ。
「うおおおおおおおっ!」
それは相手も理解しているようで、だからこそゾアックは即座に彼女の背後から接近。自身を叩き付けた尻尾を両手で掴み、彼女の動きを阻もうとする。
されど、もう彼女はゾアックを脅威と思わない。
武器一つないゾアックは身体能力だけで彼女を抑え込もうとする。同じエルフ相手なら、その強化された力で骨折ぐらいは起こせただろう。だが彼女の肉体相手では通用しない。局所的に細胞を集めて高密度化。パンパンに高めた圧力により簡単にゾアックの怪力に耐え抜く。
ゾアックが抱きついても、彼女の尻尾はびくともしない。むしろわざわざ近付いてくれた事に感謝したい。
ちょこまか動き回るコイツが、一番捕まえ難いと思っていたのだから。イリアナよりもこっちを優先して捕食する事にした。
「フシャッ!」
彼女はくるりと振り向き、ゾアック目掛けて噛み付こうと迫る。
即座に攻撃対象を切り替えると思わなかったのか、或いは受けたダメージがまだ残っているのか。ゾアックはすぐ彼女の尻尾を手放すが、ぎこちない動きでは攻撃を躱せない。
左右に開く彼女の口は、ゾアックの手を手首まで咥える。後はそのまま閉じてしまえば、ボリッ、と小気味良い音が鳴り響く。
エルフの手首の骨など、彼女にとっては心地よい歯応えでしかなかった。
「ぐ、ぎぃあああああああああがっ!?」
痛みで叫ぶゾアック。だが彼女はその隙を突き、大きく振るった腕を叩き込む。小さめの身体が石のように突き飛ばされ、血飛沫を草原に撒き散らす。
「おのれっ! よくもゾアックを!」
激昂するアステアが背後から迫るが、彼女は既に気付いている。
だから身体を横にずらした。
アステアはぎょっと目を見開いている事だろう。何故なら彼女が退いた先に、弓矢を放っていたイリアナがいたのだから。
イリアナもまたゾアックの手が食い千切られ、咄嗟に攻撃を仕掛けていたのだ。怒りは素早い動きと高い攻撃力を生み出す。されど冷静な判断力を奪い、視野を狭くする欠点を持つ。
彼女達侵入生物――――その起源であるネビオスからすれば、実にお粗末な思考回路だ。ネビオスは感情を持たず、全てを数学的に判断する。その末裔たる彼女の思考回路も基本的には数学的なもの。高度化した神経束は多少の感情を持ち合わせているが、戦闘という重要な局面で感情が『行動理由』になる事はない。
同士討ちの誘導に成功して多少嬉しくは思うが、それで彼女の動きが鈍る事もなかった。
「ぐぁっ!?」
矢はアステアの肩に命中。着ていた鎧のお陰で刺さりはしなかったが、命中時の衝撃は屈強なアステアさえよろめかす。
その隙に彼女は尻尾を振るい、アステアの胴体へと叩き込む。
アステアは腕を構えるなど防御態勢も取れず。身体強化と鎧がなければ、今頃アステアの内臓は打撃の衝撃で潰れていただろう。そこまでには至らずとも、肋骨は折れ、筋肉や臓器を傷付ける。
アステアは血反吐を吐きながら、大きく突き飛ばされる。ゴロゴロと転がったアステアの身体は、石か何かに引っ掛かったのか、大きく跳ねて地面に落ちた。
「こ、この、ぁ」
最後にイリアナ。素早く回り込んで、腕の付け根からばくりと噛み付く。
後は口を閉じれば、イリアナの腕はあっさりと食い千切れる。
片腕になった彼女は傷の断面を抑えながら大地に横たわり、悲鳴を上げた。足を失った虫のように藻掻き、立ち上がる気配もない。弓矢など手放している有り様だ。
彼女には、どうしてイリアナがそんなに苦しんでいるのか分からない。
侵入生物には痛覚がないからだ。より正確には『痛み』を感じないと言うべきか。
そんな彼女にとってイリアナの動きは奇妙、というより不気味。もしかして病気持ちなのではないかと、警戒心まで抱かせた。食い千切った腕は平らげたものの、これ以上食べるのは念のため止めておこう――――彼女はイリアナへの追撃を止めたが、どの道腕を喰われたイリアナはもうろくに戦えない。
軽く腹を満たしたところで、改めて彼女は辺りを見回す。
イリアナは今も叫びながら藻掻き苦しんでいる。しゾアックは尻尾の一撃で気絶したのか、先のない片手を押さえる事もなく地面に倒れたまま。アステアは起き上がろうとするが、這うような動きしか出来ない状態だ。アステアはまだ戦えそうだが、あの調子なら回復には時間が掛かるだろう。
最早この三人は脅威ではない。
「フシュウゥゥゥゥ……」
ぺろりと舌舐めずりをしてから、息を吐く。
食べた有機物は消化管へと運ばれ、消化液により分解される。量子ゆらぎ操作の力があれば消化液など不要、と言いたいところだが、侵入生物の中には特殊な毒や、量子ゆらぎ操作を拒む強固な繊維なども含まれている。それらの分解には異次元物質による化学反応を使う方が効果的だ。なのでこの消化管は彼女独自のものではなく、種が持ち合わせた臓器を『応用』して使っている。
分解出来れば、後は貪欲な細胞達が栄養分を吸収していく。
戦闘により消耗したエネルギーが身体中に行き渡る。まずは細胞が生きるための『蓄え』が補充され、次いで怪我の回復などで失われた分のタンパク質や無機栄養が補われていく。
しかしまだまだ足りない。戦闘で消耗した栄養分の補充は完了せず、細胞内のタンパク質も十分とは言えない。このままでは細胞分裂し、成長するなんて事は出来ない。
そして成長出来なければ子孫を生めず、自分の遺伝子を増やせない。
だからもっと喰らう。狙いは一番美味しそうな、即ち自分の身体構造と最も近いエルフと感じたイリアナ。最初は病気持ちかと疑ったが、アステアなどの動きから彼等にとって平均的な反応と判断する。非合理にしか思えないが、元々彼女目線では非合理な生命なのでそういうものなのだろうと考えを改めた。
病気でないなら、食べるの躊躇う必要はあるまい。次は頭から食べようと、彼女は大きく口を開けた。
だが、その動きがぴたりと止まる。
「み、皆さん! 大丈夫ですか!?」
宇宙船からユミルが出てきたがために。彼女が即座に振り向けば、ユミルはびくりと身体を震わせて固まってしまう。
その姿は極めて隙だらけで、何処から攻撃しても簡単に仕留められそうに見えた。
仮に隙がなくとも簡単に殺せるだろう。高度な知能を持つ彼女はアステア達との戦いの中で、相手の『戦闘能力』の計測方法も学んでいた。自分を見た時の反応速度、身長や体格から推定される体重、力を込めた時の大地の陥没具合、戦闘に対する集中力……様々な要素を総合的に計測して判断を行う。サンプル数がたったの三なので、正確なデータとは言えない。だが余程変な個体でもなければ、この計算法から逸脱するとも思えない。
測定結果を言えば、ユミルはとんでもなく弱い。今まで戦ってきたエルフと比べれば、十分の一ぐらいの戦闘力しかないのではないか。恐らく非戦闘タイプの個体なのだろう。
とはいえ油断なんて言葉は、彼女の中には存在しない。例え身体能力が低くとも、自分の知らない能力を使う可能性もある。それは侵入生物の世界で散々見てきた事であり、この世界でも『魔法』という形で経験した。
それに、ユミルの手には茶色い塊が握られている。
武器だろうか。ここまでの戦いで『武器』の存在を知った彼女は、それがなんらかの攻撃をしてくる可能性を考える。剣や弓矢は脅威とならなかったが、あの塊もそうだとは限らない。
一旦観察が必要だ。それにイリアナの止めも刺しておきたい。様々な状況に対応するため彼女は一旦立ち止まり、ユミルとイリアナに意識を集中させた
瞬間、
「うおおおおおおおおおおおっ!」
咆哮と共に、何かが自分の背後に迫っていた。
彼女は瞬時に振り返る。背中を攻撃されるのは不味いと感じたがために。
咆哮を上げたのは、アステアだった。
確かにアステアはまだ死んでいなかった。だが内臓にダメージを与える程度には痛め付けている。致命傷ではないだろうが、このまま戦い続ければ確実に
なのに、どうして自分にしがみつく?
彼女にとって最も重要なのは、自分の子孫を残す事。自分の子孫をより多く残すためなら死んでも構わないが、子孫を残せないなら何がなんでも生き抜くのが『正解』である。
だからアステアは(見逃すかどうかは別にして)さっさと逃げ出すのが合理的だと、彼女は考えるのだ。逃げるどころか接近してくるという行動はあまりに非合理。そうする事が何故子孫繁栄に繋がるのか、まるで分からない。騎士の誇りとして、命を賭してでも脅威と戦うなんて考えは思い付きもしない。
おかしい事はまだ続く。
「や、やあぁぁ!」
今度はユミルが走り出したのだ。彼女目掛けて、目を瞑りながら。
こっちはアステア以上に意味が分からない。意味が分からないほど鈍足なのは作戦か? 身体機能が低いとは思っていたがあんなに酷い訳がない。人間の身体の構造を考えればもっと速度が出る筈だ。というか何故目を瞑っている? あれで何か外部の情報を得ているのか? いや見えちゃいない。見えていたら右に左にとよろめかない。なら見えないのに何故目を瞑る?
……人間やエルフなら、それはユミルがどうしようもないほど非力な運動音痴かつ、ケンカすらした事がない非戦闘員だからと分かる。だが彼女には分からない。運動音痴な個体も、敵との戦い方を知らない個体も、侵入生物の生態系ではとっくの昔に淘汰されているのだ。彼女にその概念はない。
あまりにも意味が分からず、彼女は混乱した。より正しくは、ユミルやアステアの『真意』を探ろうと何度も演算を繰り返してしまう。彼女の中に答えがない以上、決して正解には辿り着かないのに。
しかし古臭いコンピューターと違い、彼女の思考が停止する事はない。
分からないものは一時的に思考の隅へと寄せ、自身が置かれた状況の把握を優先。挟み撃ちになっていると理解する。このまま攻撃されるのはどう考えても良い状況ではない。
解決するにはどちらか一方を殺すのが一番手っ取り早い。
ユミルの方が簡単に殺せるだろうが、戦闘能力に優れるアステアの方が危険だろう。距離的にもアステアの方が近く、先に攻撃を仕掛けてくるとしたらアステアだ。
アステアの攻撃が致命傷になる可能性は低いが、背後を取っている事も彼女の中の優先度を引き上げる。ユミルの動きは鈍く、アステアを先に始末しても十分な時間があると計算で導き出す。
「フゥウウ……!」
ならば迷う必要はない。即刻アステアの方に意識を向けた彼女は、ひとまず脳天を叩き割ろうと腕を高く掲げた。
「てやーっ!」
直後ユミルが起こした行動は、情けない声と共に――――茶色い塊を投げてくる事。
彼女は硬直した。
武器だと思ったそれを投げてくるなんて。完全な予想外であり、だからこそ最大限の警戒を呼び起こす。もしかするとそれは自分に致命傷を与えるものかも知れない……相手がどんな力を持っていてもおかしくない、侵入生物の生態系で進化してきた種であるからこそ、彼女は未知を警戒。少しでも情報を得ようと凝視してしまう。
それが『閃光弾』だとは知らずに。
ユミルがレプリケーターで製造した閃光弾は、彼女の眼前二メートルの位置で炸裂した! 炸裂と言っても、撒き散らされたのはあくまでも音と閃光。物理的な威力は殆どない。強いて言うなら、炸裂時に飛び散った破片に当たると怪我をする程度か。
だが放たれる光と音は、火薬などよりも遥かに強力だ。人間とエルフの視点では、目の前が白く塗り潰されるほどの眩しさが辺りに満ちる。音も強烈で、耳が痛くなるほどだ。とはいえユミルは目を瞑り、アステアは彼女の背後にいる。光の直撃は受けていない。
惟一彼女だけが、閃光弾の輝きを直視してしまう。
――――侵入生物はエネルギー吸収能力を持つ。
ルアル文明の戦闘艦が用いた、宇宙さえも破壊する余剰次元砲さえ難なく吸い尽くすほどの能力。その力により侵入生物達は数多の宇宙を食い滅ぼす事が出来た。全知全能の神さえも喰らい、飲み干している。その能力故にどれほど強力なレーザーも通用しない。
では侵入生物に、
答えは、否だ。侵入生物に光学的攻撃は通じないが、それは耐性があるのではなく、効果が現れる前に吸収してしまうからである。だから光に耐える必要性がない。
必要ない耐性は、エネルギーを無駄に消費するだけ。そうなると『同種』との競争で不利になり、自分の子孫を増やす事の妨げになる。そもそも耐性を持っていたら、エネルギーが細胞の中まで入らず吸収出来ない。耐性なんて持たない方が、少なくともエネルギー吸収で生きる種にとっては、合理的なのだ。
尤も、仮に吸収出来ずとも侵入生物にとって閃光は脅威になり得ない。侵入生物達の情報収集は「空間解析」など超光速であり、光に頼らないからだ。閃光弾を炸裂させところで、皮膚刺激から「光エネルギーがある」としか思わない。相手がただの侵入生物なら、ユミルの作戦はあっさり破綻していた。
だが彼女は違う。
彼女は外界の情報を『目』から得ている。空間解析なんて無茶苦茶な能力が使えないため、遥か古代の先祖が使っていた方法に頼るしかなかったからだ。そして彼女は量子ゆらぎ操作能力を喪失した第一世代であり、目を再獲得した最初の一個体……強い光に対してはこれから適応していく段階であり、まだ耐性は発達していない。
このため彼女にとって強い光はどんな攻撃よりも未知にして、強烈な一撃だった。
「ブギィヤアアォアアッ!?」
顔面で受けた閃光に、彼女は大きく仰け反って怯む。思わず両手で顔面を覆い、刺激から逃れようと後退り。
逃げる。
獲物よりも、まずは自分の生存を優先する。本能的な決断に彼女は一瞬の迷いもなく従う。獲物が惜しい、などとは考えない。優先順位を数学的に認識する彼女には迷いなんてないのだ。
間違いなく、彼女の判断は『最速』だった。しかしいくら最速でも、背後に肉薄したアステアよりも早くは動けず。
「はあああああっ!」
猛々しい雄叫びと共に、アステアの剣が彼女の背中に突き刺さった!
防御態勢を取っていれば、剣など弾き返せた。だが逃げる事を優先していた今の彼女の身体は、多少の弾力はあれど剣を無効化出来るほどではない。
アステアは全体重を乗せて剣を差し込み、彼女の背ビレの隙間、肉の奥にあるもの――――中枢神経化した神経束を貫く。
瞬間、彼女はビグンッと身体を震わせ、四肢を張り詰めさせてしまう。
祖先種であれば、こんな無様な反応は取らなかった。『
だが彼女の種は、捕食者として進化した。獲物を殺すには、獲物より俊敏に動き、獲物より的確な攻撃を繰り出し、獲物より高速で判断する必要がある。そのためには獲物よりも優れた身体能力が欠かせず、そして優れた肉体を操るには高度な神経系がなければならない。
二足歩行型捕食種の神経束は大きく発達し、中枢神経と呼べるほど高機能化した。彼女もその性質を受け継いだからこそ、アステア達を翻弄するだけの身体能力を持ち、発達した知性を有す。
されどあまりに高機能化したがために、身体に纏わるほぼ全機能がこの神経を経由するようになってしまった。もしも中枢神経が損傷すれば、全ての運動が満足に行えない。
剣を突き刺された事で、彼女の中枢神経は一時的に情報処理能力が低下。彼女は身体を動かせなくなってしまったのだ。
とはいえ彼女達の細胞分裂速度は早く、そして全能性を持つ。神経の損傷だろうと即座に修復可能だ。一瞬怯んだ後彼女はアステアの方へと振り向き、殴り殺すため腕を振るう。
しかしその時にはもう、アステアは彼女の背後から離れていた。惟一の武器である剣を手放してまで。
「「バインド!」」
イリアナとゾアックが拘束魔法を発動するのだから、もう剣はいらないという事だ。
イリアナは傷口を魔法で塞ぎ、ゾアックは気絶から目覚めていた。この好機が来るまで待っていたのだろう。
アステアとユミルしか見ていなかった彼女は、虚空から現れる光の縄に反応出来ず。手足が縛り上げられ、胴体や尻尾もぐるぐる巻にされてしまう。身動きを完全に封じられ、彼女はぱたりと地面に横たわった。
これは不味い。
一人分のバインドなら力尽くで破れたが、二人分はあまり強固。これは逃げるのに時間が掛かる。逃げられなくはないが……アステア達が近付き、攻撃する方が絶対に早い。
アステア達三人は手負いだ。だが闘志を燃やし、こちらを殺す意思は潰えていない。戦闘能力がないユミルも、その手には閃光弾を掲げていた。全員が、彼女を全力で殺そうとしている。
ただの攻撃ならば耐えられる自信がある。だが今し方、背中側にある神経が弱点だとバレてしまった。守りである背ビレも、剣や矢のような小さく鋭い武器なら問題なく隙間に差し込めるだろう。中枢神経は高機能故に、再生には多くのエネルギーを使う。何度も傷付けられればエネルギーが尽き、身体機能を維持出来ない。
恐らく、このままでは脱出前に殺される。
死を前にして、彼女は絶望などしない。嘆けば現実が変わると思うほど、彼女は『楽観的』ではないのである。尚且つ、全てを諦めてしまうほど達観も悲観もしない。
やれる事は全てやる。
まず全身の力を込める。身体を縛る光の糸は、ほんの少し軋んだ。このまま力を入れ続ければいずれ破れるだろう。しかしそれより前に自分は殺される。
次に考えたのは細胞の並びを変え、変形する事。今縛っている魔法の縄より細くなれば脱出可能となる。だがこれも無理。祖先種やそれに近い生産種は、細胞同士の結合が弛いためほぼ液状化に近い変形が可能だった。しかし二足歩行捕食種は優れた運動性を発揮するため、身体の構造が厳密に決められている。自由に細胞密度を変える程度には柔軟であるし、手足もあらゆる角度に曲げられるが、原型を失うほどの変形は出来ない。縄の隙間を通るなど不可能だ。
ならばと今度は身体を震わせた。無論、恐怖に慄いた訳ではない。筋肉を収縮させる事で熱を生み出し、縄を脆くしようとしたのだ。尤もこれは彼女が魔法を理解していなかったが故の行動。非物質的な魔法の縄に熱はほぼ意味を成さない。全くの無意味な行動で終わった。
何をしても、魔法の縄は解けない。
「フギィイオオオオオオオオオッ!」
彼女は雄叫びを上げ、身体を今までの倍近くまで大きく膨らませ、全身を震わせた。
激しく震わせた身体は赤熱し、極限まで膨張させた身体の表皮は中身が見えるほど薄くなる。だがこれでも光の縄は千切れない。そうこうしている間にもエルフ達は肉薄。
アステアは彼女の背から剣を引き抜くと、背中の別の場所目掛けて突き刺した。
止めを刺すための、小さな一撃。
それを受けた事で彼女は確信する――――これで逃げられる、と。
彼女がその身体を震わせ、膨らませていたのは悪足掻きなどではない。筋肉の伸縮により莫大な熱量を生成し、その熱で自らの身体を加熱していたのだ。それも数度程度の上昇ではなく、百度以上の体温になるほどに。
祖先種や母親達侵入生物の身体を流れていた体液は、量子ゆらぎ操作の力で創り出された特殊な液体で出来ている。このため百度どころか、一千兆度の高温でも体積変化を起こさないぐらい比熱容量に優れていた(耐熱性ではない。むしろ熱エネルギーを吸い取る性質がある)。しかし彼女の身体にそんな力はなく、体液の主成分は一般的な生物同様水である。このため百度を超えると体液が沸騰、気化する。
液体が気化した場合、体積が著しく膨張する。水だと約一千七百倍の膨張率だ。これが彼女の身体を膨らませていた力の正体。しかしその膨張は全身の筋肉を使い、強引に抑え込んでいる状態だ。
もしも、ここに穴を開けたらどうなるか?
当然、パンパンに膨らんだ風船と同じように――――破裂する。
「ぐわっ!?」
「ぐぅ!?」
「きゃんっ!?」
「アステア!? ゾアック! ……あ、ユミルも!?」
突然の大爆発! 紅蓮の体液が蒸気と共に撒き散らされ、アステアとゾアック、ついでにイリアナと同じぐらい離れていた筈のユミルの身体を突き飛ばす!
噴出した蒸気は赤みを帯びており、膨大な熱量がある事を見た目から示す。しかもかなり近くにいたとはいえ、人間三人を突き飛ばすほどの衝撃だ。攻撃としては十分な威力と言えるだろう。
されどこの爆発、追い込まれて繰り出した自棄ではない。
身体を膨張させていた時、彼女は自身の神経を三つに分割。それを包むように肉で固める。そして神経を包んだ肉の内側では、更に内臓を形成。一つ一つが独立して活動可能な、『新しい身体』へと作り変えた。
この新しい身体は僅か三十センチと小さく、手足すらもない蛆虫型をしていた。もしもエルフ達に見付かれば簡単に捕まり、そして八つ裂きにされてしまうだろう。反面丈夫な表皮を持ち、爆発の衝撃に耐えるだけの防御力を有していた。
彼女はこの丈夫さを利用。爆発の衝撃に乗り、高々と空に飛び上がったのである。
「アイツはどうなった!?」
「自爆、したの……?」
爆発による目眩ましもあって、地上のエルフ達は彼女の『身体』が空にいる事に気付かない。全員の意識が向いているのは、濛々と白煙を上げる肉の残骸だ。
彼女はそのまま悠々と空を飛ぶ。正確には放物線を描いているだけなのだが、何百メートルと飛んでいく。三つある身体はそれぞれが違う方に飛んだのは、自爆する前の彼女がそうなるよう配置したため。全てが計算通りである。
やがて草原の一角に、ぼとんとその身体の一つは落ちた。
草原に落ちた彼女は、すぐに細胞分裂を始めた。遠く離れた場所に落ちたとはいえ、もしかするとエルフ達に飛んでいく姿を見られたかも知れない。今の状態で彼等に襲われたなら、文字通り手も足も出ないだろう。
突貫工事で四本の脚を作り、四つん這いの体勢で地面を這う。急いで目を生み出し、角のような触角も生やした。背面の防御に使う背ビレは現時点でいらないので後回し。口もまだ必要ない。最低限の運動機能を得たところで、急いで草むらの中に身を隠す。
後はじっとする。エルフ達が自分の事を諦めたと確信するまでずっと、何時までも。
……やがて辺りは暗くなり、夜を迎える。
エルフ達の気配は消えた。厳密には近く(ユミル達の宇宙船の中)にはいるが、警戒は途切れたように見える。大きな野生動物の気配もなく、今なら襲われる可能性は少ない。
ゆっくりと歩み、隠れていた場所から出る。
「フシゥゥゥ……!」
そして彼女は確信した。
自分は勝利したと。
エルフ達との戦いに負けた? 知的生命体目線ではそうかも知れない。だが彼女達……ネビオスにとって重要なのは自分の遺伝子を増やす事。個別の戦いの勝ち負けなどどうでも良い。例え自分が死んだとしても、それで子孫を増やせるなら喜んで受け入れる。
彼女はあの戦いで様々な事を学んだ。この地に生息する生命体の戦闘力とその測定方法、肉体の構造、成分に毒性、更には
無論まだまだ知らない事の方が多いだろう。だがこの知識は、今後生きていく上で大いに役立つ。本能を知性で抑制している彼女にとって、知識は特に重要だ。
例え身体の大部分が喪失しても、生きてそれを得られたなら『得』なのだ。
「フシャァァ!」
「キュィッ!?」
知識を得た彼女は、偶々近くを通った動物に襲い掛かる。体長五十センチほどの(人間発祥の惑星に生息するキツネという種に似た)生物で、歩行時の動きから予測された戦闘能力は彼女未満。そこそこ知能は高そうだが、感情的で非合理な思考をしているだろう。
予測は正しく、不意打ちで跳び付き、首に食らいついてみれば、動物は恐怖と痛みでのたうつばかり。偶に引っ掻き攻撃などをしてきて、爪が表皮を切り裂いたが、この程度では今の小さな身体でも致命傷にはならない。痛みで苦しむ事のない彼女は身体を引き裂かれてもどうとも思わず、自分が付けた噛み傷に頭を捻じ込む。そのまま奥へ奥へと、肉を食い千切りながら突き進み……行く手にあった大きな血管、大動脈を食い破った。
動脈の損傷による大量出血が起きた瞬間、動物は大きく目を見開き、急速に身体から力が抜けていく。まだ生きてはいたが、そんな事はどうでも良い。動かないという事は、食べるのに支障はないという事。元より傷口に頭を捻じ込んだ時点で、彼女は『狩り』ではなく『食事』だと思っていた。
そのまま獲物の肉を容赦なく貪り、彼女は身体を再構築していく。
元の姿へと戻るには、この動物一体では到底足りない。しかしそれならたくさん食べれば良い。この草原には、この星には、まだまだたくさんの生き物がいるのだから。
そしていずれは、自分の子を産み落とす。
落ちこぼれだった彼女は、祖先も姉妹も辿り着けなかった世界で、繁栄の道を歩み出したのだ――――
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