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 彼女は感じ取る。

 一気圧の大気。惑星表面程度の重力。ものを焼くほどではない光量。大気中を漂う匂い分子……

 そのどれもが、侵入生物が暮らしていた宇宙にはない。酸素も二酸化炭素も食い尽くされ、空間を埋め尽くすのはその元凶たる侵入生物生命体。重力を生む星も喰われ、代わりにブラックホール以上の時空の歪みを誰もが纏う。そこら中から放たれる光は星のみならず銀河を、宇宙さえも薙ぎ払う。匂いの代わりに時折漂うのは、そんな侵入生物さえも腐り殺す猛毒ガス。

 侵入生物が暮らす世界はあまりにも苛烈。だがその苛烈さを生むエネルギーこそが、侵入生物の活力でもある。故にこの穏やかな場所は、侵入生物の生活には適さない。必死に食べ荒らしても飢えて死んでしまう、破滅の土地だ。

 だが、彼女には心地良く感じられた。

 本能的に理解する。此処は自分が生まれ育った、侵入生物が支配する宇宙ではないと。されどこの世界こそが、自分にとって適した環境だと。

 此処なら生きていける。

 此処なら子孫を残していける。

 侵入生物、いや、ネビオスの本能的衝動を満たせるという確信に、彼女は喜びにも似た感覚を抱いた。

 尤も、その喜びには長く浸れない。

 マジックリング突破とほぼ同時に卵の膜は割れ、彼女は外に放り出されてしまったのだから。恐らく母親はここまで計算して投げたのだろうが、何も知らない彼女からすればいきなり『誕生』してしまったも同然である。


「フ、フシュウゥウウ!?」


 重力に引かれて自由落下。これは不味いと手足をバタつかせるが、量子ゆらぎを操れない彼女には時空を掴む力も、重力を操る能力もない。

 投げられた時の勢いは空気抵抗で衰えたが、それでも相当の速さで地面に激突。クレーターが出来るほどの衝撃を全身で受けた結果――――呆気なく失神してしまう。それでも死にはしなかったのだから、並の生物よりは余程丈夫なのだが。

 失神している間、彼女の身体はこの新たな環境への適応を試みる。

 その第一歩がエネルギー生産。彼女には量子ゆらぎ操作の力がないため、無からエネルギーは生み出せない。しかし侵入生物の身体は、量子ゆらぎ以外からもエネルギーを取り出し、操れる。化学反応で生じる熱エネルギーなどもそのやり方の一つ。

 彼女の身体は外気を吸い込む。窒素や酸素など、様々な分子が含まれていた。それらは細胞に取り込まれると代謝され、分子の結合エネルギー(原子同士を結び付ける力。例えば水素分子の場合二グラム当たり四百三十二キロジュールを有する)が取り出される。分子によって結合エネルギー量は異なるが、一呼吸で凡そ三百キロカロリー相当のエネルギーを摂取可能だ。

 実際には分解や排泄に多くのエネルギーを使うので、一呼吸で得られるエネルギーは数キロカロリー程度だが……人間の場合二十四時間当たりの呼吸回数は約二万八千八百回。それよりゆったりとした呼吸をする彼女だが、二十四時間もあれば約二万回は行う。つまり呼吸だけで十万キロカロリー相当のエネルギーが補給出来た。

 生産されたエネルギーは細胞分裂……厳密には細胞の材料となるタンパク質などの合成……に使われ、墜落時のダメージを回復。身体に力が戻り、彼女は意識を取り戻す。

 するとすぐ近くに、なんだか鋭い『武器』を構えた生き物がいるではないか。彼女達は武器など使わないが、聡明な知能を用いればそれが攻撃的なものである事ぐらいは分かる。


「フシャアォオッ!」


「ぬぉっ!?」


 襲われる! 状況を瞬時に把握した彼女は、咄嗟にその生物……ゾアックの頭を噛み砕こうとした。突然の事にも慌てなかったのは、彼女の優れた知能もあるが、何より侵入生物の『合理的数学的』思考のお陰だろう。

 攻撃は躱され、相手はいそいそと逃げ出す。死体と思って近付いてきただけで、そんなに強くないのかも知れない。身体の大きさも自分の半分程度であり、余程身体機能に差がない限り力ではこちらが上の筈。

 様々な情報から、この生物は獲物に出来ると判断。ならば食べてしまおうと、彼女はゾアックの後を追う。しかし生まれて初めて体験する重力の影響で、上手く歩けず。何度か蹴躓き、颯爽と駆けるゾアックとの距離は開くばかり。

 それでも追い続けてついにクレーターの外に出ると、ゾアックは仲間――――エルフ達や人間(及び靄のようなエネルギー体)と合流してしまう。数はエネルギー体を含めると五体。

 エルフ達は大きな声で話していた。エルフ達の言葉など彼女には分からないが、それが会話である事、それを操るエルフ達が知的生命体である事を理解する。そして会話の内容が、なんらかの作戦会議だと察した。

 作戦内容は分からないが、三人のエルフが武器を構えてきた。逃げようとせず、こちらを倒そうとしているのは間違いあるまい。

 この状況下で、彼女の脳裏に浮かんだ選択肢は二つ。

 一つは『戦闘』。

 奴等と戦い、殺してその肉を喰らうのだ。彼女は量子ゆらぎ操作が出来ず、その分消費エネルギーは少ない。だから親や姉妹に比べれば遥かに飢えに強く、ある程度は獲物が取れなくても耐えられる。しかし何十時間も絶食出来るほどしぶとくもない。呼吸だけで十万キロカロリーを得られる彼女だが、その優れた身体能力を賄うにはこれでも足りないのだ。そのため他のカロリー摂取方法、例えば有機物を酸素で分解する方法なども併用して使う必要がある。

 また呼吸などで酷使している細胞も、いずれは劣化するため定期的な更新が必要だ。つまり細胞分裂などの新陳代謝だが、古い細胞のリサイクルには膨大なエネルギーを使う。ただでさえカロリーが不足しているのに、消費を増やすのは得策ではない。古い細胞は使い捨てにし、細胞分裂で新しい細胞を作る方が合理的だ。それには外から材料となる有機物が欠かせない。

 生きていくには、兎にも角にも有機物を得なければならない。そして有機物を得る一番簡単な方法は、有機物の塊であるなんらかの生き物を食べる事だ。

 この世界にどれだけの生き物がいるか分からない以上、次に獲物と出会えるのは何時になるかは不明。百時間以上何も食べられなければ、そこで彼女の命は終わりである。仮に出会えても、餓死寸前の身体は痩せ衰え、ろくに力を発揮出来ない。それでは獲物を取り逃がしてしまう。

 身体に十分なエネルギーがある、今こそ最も狩りの成功率が高い。このタイミングで生命体と遭遇出来た。好機をむざむざ逃すのは、懸命な判断とは言えまい。

 加えて、『肉』以外のものをあまり食べたくないという本能がある。それは単なる贅沢ではなく、捕食者故の弱点に由来する。

 毒への耐性が低いのだ。植物のように動けない生物や、小さくて脆弱な生き物はその身体に毒を持つ事が多い。天敵に襲われても逃げられないため、状態となる事のメリットが大きいのだ。とはいえ毒を作り溜め込むには相応の仕組みが必要で、身体の構造に制限が生じてしまう。また毒の合成にもエネルギーを使う。老廃物を利用するなど小コストで済ます方法はあるが、溜め込むのにもコストは掛かるので全く消費がないという訳にはいかない。

 なので普通、天敵に喰われる心配が少ない大型生物は毒を持たない。侵入生物も同様の傾向がある。

 彼女達の種が狙うのは、侵入生物の中でも特に大型の種。毒を持っている事はほぼなく、あっても老廃物由来の弱毒性のものばかり。毒の分解にもエネルギーを使い、分解酵素を大量に作るには大型の臓器も必要だ。餌に毒がないのなら、解毒能力なんて持たない方が『効率的』である。

 このため彼女の種は、特別な解毒能力を持っていない……毒に対する耐性が特に低かった。毒に弱いのだから、毒のあるものは口にしない本能が適応的。本能的にある程度大きな動物以外、彼女達は食べ物と認識出来なかった。

 ……親や姉妹なら、エネルギー吸収能力の応用で通常物質由来の毒なら問題なく栄養にしただろうが。しかしそれが出来るのも量子ゆらぎ操作のお陰。彼女の身体にその力はなく、故に生理作用は一般的な化学反応で行われている。普通の毒でも十分効くため、植物などは食べない方が賢明だ。動物を殺して食べるのが一番安全である。


「フシュゥゥゥ……」


 襲うメリットは大きい。狩りを行うための闘争本能が、むくむくと湧き立つ。

 しかし彼女の高度な知能は、メリットだけ認識して動くほど単純ではない。即座にデメリットも考え付く。

 一番の問題は、相手の実力が未知数な事。

 能力をすっかり喪失している彼女には、母親達のように相手の戦闘能力を『エネルギー量』で数値的に測る事が出来ない。一応過去に出会った生物の雰囲気気配と比べる事で推定は可能だが……彼女が今までの生涯で感じてきた戦闘能力というのは、銀河を滅ぼすだの、宇宙を破壊するだのといった水準ばかり。それらと比べれば自分やエルフ達の戦闘能力など誤差未満の何か。空間を埋め尽くす祖先型小型種小さな侵入生物よりも弱い、ぐらいしか分かる事がない。

 身体の大きさでは勝るので、単体ではこちらに分がある筈だが……彼女とエルフ達は別世界の生物。体重一キロ当たりの戦闘能力が同程度とは限らない。それになんらかの、特殊な能力を持っている可能性もある。そもそも五対一、エネルギー体を除いても四対一と、数で圧倒されている状況が不利である。

 勝てなければ殺されるだろう。子孫を残す前の死はどうあっても許容出来ない。

 メリットとデメリットを比べ、どうしたものかと考える。そして数秒の思案の後、決断を後押しする出来事があった。

 エルフ達の気配が増大したのだ。

 どれぐらい大きくなったかは分からないが、間違いなく先程より強くなっている。身体強化魔法なんて知らない彼女は、この結果をなんらかの戦闘形態と判断。

 あんな訳の分からない『化け物』と戦うなんて冗談ではない。


「フシャアアアアアアアアッ!」


 背を向けての全力逃走――――これこそが最善だと、彼女は判断した。


「あっ!? アイツ逃げたぞ!?」


「おいおい……あそこまで威嚇しながら逃げるって」


 彼女の取った行動に、エルフ達は驚きを露わにする。侮蔑の眼差しも向けてきた。

 しかし彼女はそんなくだらない感情を理解しない。重要なのは自分が生存し、より多くの遺伝子を残す事。蔑まれようとも見下されようとも、繁殖する事が出来れば彼女達にとっては『勝ち』なのである。

 もしも相手がエルフだけだったなら、彼女の目論見は難なく成功していただろう。エルフ達からすれば彼女は未知の生命体。襲われたので迎撃しようとしただけで、積極的に殺す意図はないのだ。逃げた彼女を追おうとは、エルフ達が自発的にする事はない。


「駄目です! 逃してはなりません!」


 だが、此処には彼女達を知る者がいた。

 靄のような存在――――創始種族だ。彼女は創始種族を知らないが、創始種族は彼女達侵入生物の事をよく理解していた。

 それでいて、弱体化した事実を知ってなお見くびらない合理性を持つ。


「あの生物は繁殖力に優れています! そして何もかも食べ尽くし、全てを滅ぼします! 我々の文明も、奴等に!」


 創始種族が何かを叫んでいる。言葉の意味は相変わらず彼女には分からない。

 されど警告の意味を込めている事は、鬼気迫る声から察せられた。

 それは彼女にとって好ましくない。逃げる相手に警告を発するという事は、つまり奴等はこちらを逃がすつもりがないのだろう。

 予想通り、素早い動きで彼女の横を走る者が現れた。

 若い女のエルフ――――イリアナだ。今、彼女は時速三百五十キロで走っていたのだが、イリアナはそれを上回るスピードで迫り、そして追い抜く。

 イリアナの速さの秘密は、身体強化魔法と共に使ったもう一つの魔法にある。

 その魔法の名は『ヘイスト』。これは自分の時間を加速させる魔法だ。自分の時間が加速するという事は、周りよりも速く動けるという事。或いはイリアナから見た世界の方がゆっくりになる、という方が正しいか。奇しくもその力は侵入生物達の誰もが使う、そして彼女には使えない『時間圧縮』と同じ働きをしていた。

 世界の方がゆっくりなら、判断や反応も容易い。彼女の真横に並んだ直後、イリアナは即座に弓を構える。イリアナにとっては十分な、されど世界からすればほんの一瞬で狙いを定め、矢を放つ!

 狙いは正確。更に矢自体にもヘイストの効果が上乗せされていた。イリアナの使う弓は然程大型ではないが、それでも通常使用で時速二百キロを出す。

 魔法による加速も加われば、矢のスピードは体感で時速一千五百キロ以上。音速を優に超える速さであり、しかも今回は数メートル程度の至近距離で放たれた。常人では目視どころか反応すら間に合わないだろう。

 されど彼女の動体視力からすれば、この程度の攻撃ならば問題なく


「ッ! プシュッ!」


 飛んできた矢に対し、彼女は腕を振るう。魔法など使わずとも時速三百五十キロで動ける彼女に、この程度の速さを見切るなど容易い。

 また時速一千五百キロにもなる矢であるが、あくまで時間が加速しているからそう見えるだけ。運動エネルギー自体は時速二百キロ程度の時と変わらない。

 無論頑強な金属製の鏃が時速二百キロで当たれば、大抵のエルフ人間に致命的な損傷を与えるだろう。だが彼女の表皮はエルフ達とは異なる。

 その表皮は厚みのあるゴムのよう。弾力を持ち、曲げられるが、傷を付けようとすれば押し返す。更に耐えられないほど強い衝撃は全身を伝播し、それにより局所的なダメージを抑える仕組みだ。

 量子ゆらぎ操作が使えれば、時空湾曲などの防御手段が使えたが……金属製の矢程度ならばこの皮膚だけで十分。腕を構え、それで受ければ矢は何処かに飛んでいった。

 まさか防がれるとは思わなかったのだろう。イリアナは大きく目を見開き、身体を強張らせる。反撃のチャンスである、が、彼女は動かない。

 彼女もまた驚いていたからだ。

 彼女にとって『攻撃』というのは、例えば宇宙を破壊しかねない歪曲空間波動砲や、それに匹敵するエネルギーを持った拳、触れれば素粒子レベルで分解される元素の放出などを示す言葉だ。ところが今し方飛んできたのは、何やら。特別な能力でも発動するかと思いきや、それもない。

 彼女の聡明な神経束は現状を解析。一つの結論に辿り着く。

 ひょっとするとこの生物達、大して強くないのではないか?


「――――フシャアァッ!」


 試しに腕を伸ばし、掴み掛かろうとしてみる。

 するとイリアナは跳んで後退していく。牽制とばかりに矢を更に何本か放ってきたが、やはりいずれも彼女にとっては遅く、腕が損傷する事もない。

 彼女は確信した。この生物エルフ達は然程強くない。自分の力でも問題なく戦える。

 ならば話は別だ。獲物に出来るのならば、ここで仕留めて喰った方が良い。

 決断を下せば彼女の動きは速い。逃げるための足を止めてくるりと反転。大きく口を開けた彼女は、イリアナ目掛けて襲い掛かる!

 逃げていた姿勢からの反転攻勢。突然の行動変更に、イリアナは驚いたように目を見開く。それから逃げようと後退るも、彼女の動きの方が数段早い。そのまま一気に距離を詰め、まずは身動きを封じようと手を伸ばす。


「ふんっ!」


 しかしその手目掛けて、金属の塊が振り下ろされた。

 屈強な男エルフ――――アステアの剣だ。重たい金属の塊は、叩き付けるだけでも十分な破壊力を有す。アステアの太刀筋は真っ直ぐで迷いがなく、その破壊力が更に増強しているのは、武器にも武道にも心得がない彼女も察する。

 恐らく矢とは比にならない威力。直撃を受ければ、腕に小さくない損傷を受けたかも知れない。

 だがいくら威力が大きくとも、遅い攻撃では当たらない。


「シュアッ!」


 即座に腕を引っ込め、まずは剣撃を回避。次いでその腕を振るい、剣の側面を殴り飛ばす。

 雑な薙ぎ払いであるが、威力自体は強烈だ。彼女の身体を構成する『繊維』は極めて早く伸縮が可能。更に細胞自体が引っ張り合うため、大きな構えを取らずとも力を出せる。

 叩いた際の衝撃は屈強なアステアでさえよろめくほど。剣を持つ手は万歳をするかのように高く上がり、胴体がガラ空きとなってしまう。無論彼女はこの隙を見逃さない。即座に噛み殺してやろうと大口を開けて突進

 したのも束の間、彼女はその場から跳び退く。

 巨大な『火球』が彼女目掛けて飛んできたのだ。

 火球の直径は五十センチほど。魔法で加速された矢ほどではないが、時速三百キロは出ているだろう。『火』など見た事がない彼女であるが、備わっている感覚器はそれが数百度に達する高温の塊だと察知する。

 親や姉妹であれば、避ける必要はない。ただの熱エネルギーなど簡単に吸収出来るし、高々数百度程度の熱など腹の足しにもならない。しかし量子ゆらぎ操作が使えず、エネルギー吸収能力を持たなき彼女には十分危険な一撃。

 直撃を受けるのは不味い。アステアへの追撃は止め、その場に伏せる事で火球を躱す。火球は台地に命中して小さな、それでも人間一人ぐらいなら粉々にしそうな爆発を起こした。


「たくっ! 二人共前に出過ぎだ! そういうのは俺の役目だろ!」


「すまないゾアック!」


「助かったわ!」


 火球――――攻撃魔法を放ったのは、槍を持つエルフことゾアックだった。アステアとイリアナは礼を言いつつ、アステアはゾアックと並び、イリアナはやや後方に立つ。

 三人纏まると、流石に分が悪い。彼女はそう判断し、一旦様子見のため足を止めた。

 するとイリアナがぶつぶつと、何かを呟いている。

 会話、ではない。独り言の概念がない(誰かに伝える必要のない言葉を何故発するのか? 合理的に考えれば不要な行動だ)彼女にはなんだか分からず、警戒のため距離を保つ。

 その行動が失策だった。


「バインド!」


 イリアナが一際大きな声で叫んだ瞬間、彼女の周りに光の縄が何本も現れたのだ。

 そして光の縄はまるで意思を持つように、彼女目掛けて伸びてくる。

 バインド――――エルフ達が使う拘束魔法の中で、最もよく使われる術だ。縄の硬度は使い手の『魔力』に依存するが、未熟な子供でも大人一人を(解除呪文など適切な対応を取らない限り)拘束する事が出来るほど強い。狩りで捕まえた獲物や罪人の捕縛にも用いられている、比較的身近な魔法でもある。

 エルフ同士の戦いにおいて、バインドは「決まれば勝ち」と言われるほど強力だ。このため常に警戒しなければならず、また不規則に動き回るのが最も簡易かつ効果的な対策である。バインドの発生地点は固定であり、光の縄の射程も然程長くないからだ。

 しかし彼女は魔法なんて知らない。魔法なんて世界からやってきた。

 このような攻撃をされるのは完全な想定外。いや、ただ虚空から縄が出てくるだけなら即座に動けただろう。しかし光の縄という魔法の産物を、彼女の神経系は上手く解析出来ない。

 これはなんなのか、触れるとどうなるか、どんな動きをするのか、どうすれば躱せるのか――――情報分析が出来ず、咄嗟に動けない。

 その一瞬の隙に、バインドは彼女の手足や尻尾に巻き付いた!


「シュ……!」


 すぐに引き千切ろうと四肢と尻尾に力を込めるも、魔法の縄は彼女の力でも簡単には破れない。渾身の力を込めればミチミチと音が鳴り、光は少しずつ解れるので、時間を掛ければ破れそうだが……その暇はない。


「ふんっ!」


「たぁっ!」


 アステアとゾアックが勇ましく駆け寄ってきているからだ。

 風景を基準にし、アステア達と自分の相対速度を算出。あと〇・六一秒で剣や槍の射程内に入ると彼女は導き出す。

 並行して拘束を抜け出すのに必要な時間も計算。素材の性質が分からないため断言は出来ないが、一部分の損傷が五割を超えた瞬間に千切れると仮定した場合、両手の自由を取り戻すには最低でも一・七〇秒は掛かる。

 脱出は間に合わない。

 彼女の演算能力は、寸分の狂いもなくこの結果を導き出す。人であれば多少なりと恐怖や絶望など、様々な感情が湧き立つだろう。例え

 彼女は違う。数学的思考回路に絶望も恐怖もない。優れた演算能力は知能を生んだが、非合理な感情までは与えていないのだ。

 故に彼女は最善の行動を起こす。

 アステア達の刃が身体に触れる直前、その命中箇所の皮膚細胞を『密集』させたのだ。そして高密度化により強度を瞬間的に向上させる。

 これにより剣と槍を弾き返す!


「なっ……!?」


 まさか斬れないとは思わなかったに違いない。エルフ達は驚きが声に出て、身体も硬直していた。

 更に渾身の一撃を跳ね返したのだ。その反動は、予想していなければ体勢を大きく崩すのに十分だろう。

 予想外の結果+想定外の反動。相手の動きを止めるには十分な事態だ。


「フ、シャゥッ!」


 アステア達が止まっている間に、拘束されている光の縄を引き千切ろうとする。

 これに反応したのがゾアック。軽い槍を使っていたがために、彼の反動は然程大きくない。小さな盾などに攻撃を跳ね返されるのはしょっちゅうであり、アステアよりもこの状況に慣れていた。

 ゾアックは反動を受け流すため、手の中でくるんと槍を一回転させる。更にこの動きで、本来後ろ向きだった運動方向を前へと変換。

 素早い二撃目を繰り出す!

 今度は彼女が反応出来ない。槍という武器を見たのは、今日が初めてなのだ。射程や威力、素早さは数値的な情報から予測出来るが、『技術』の方は実際見なければ中々分からない。

 反応の遅れは防御の遅れへと繋がる。

 一般的な侵入生物であれば、遅れる事などあり得ない。全ての行動が本能的に行われているため、見舞われた事象に全細胞が勝手に反応するからだ。死角からの攻撃も、侵入生物には通用しない。

 対して彼女達の種は知能を発達させた。身体が勝手に動いては、折角の知能がなんの役にも立たない。身体の動きは『全て』制御する方が、知能を持つ種には好都合なのである。これによりフェイントなどに引っ掛からない、高度で戦術的な行動が可能となった。

 しかし代わりに、細胞は勝手に動いてくれない。

 全細胞が状態になってしまったのだ。命令が来るまでは、どんなに危機的状況だろうと細胞は動かない。それが知能ある本体の細胞としては合理的な働きなのである……本体が思考停止している事に気付いてないだけ、とも言えるが。

 彼女の身体も勝手には動かない。細胞密集による防御は間に合わないと予測されたため、彼女も無駄な抵抗はしなかった。このためゾアックの槍は彼女の胸部に命中。深々と、十センチ以上突き刺さる。

 エルフや人間ならば致命傷だ。

 しかし彼女からすればこの程度の傷、なんの問題にもならない。極めて単純な構造をしている生産種ほどではないが、彼女達の細胞も分裂速度に優れているのだ。例え槍が組織を傷付けようとも、その傷口は瞬く間に塞がる。更に細胞には全能性があるため、あらゆる組織への変化が可能。十分な栄養さえあれば、筋繊維から体液も神経も生み出す。

 また祖先譲りの身体の構造として、彼女達には血管がない。養分や酸素を多量に溶け込ませた、高密度体液が全身を循環している。つまり臓器破裂による大量失血はない。組織から溢れ出した体液は、外に漏れ出ない限り体内を普段通りに循環していく。

 再生にはエネルギー消費が伴うのでノーダメージとは言えないが、見た目ほどの重傷でないのは確か。しかも傷口が治る過程で、身体に入り込んだ異物は体組織と癒着してしまう。

 つまりゾアックの槍は、彼女の身体に状態となったのだ。


「!? 抜け……」


 彼女の肉が槍を包み込む力は強靭で、小柄なゾアックの力ではビクともしない。押し込む分には更に入るが、それは彼女にとってダメージとはならない。

 むしろ今の彼女にとって最も好ましくないのは、


「ゾアック離せ! 何かヤバい!」


 アステアが下した指示のように、即座に距離を取られる事だ。

 ゾアックはアステアの言葉に従い、槍を手放して後退する。想定よりも早い動きであるが、未だ『射程圏内』。問題はない。


「シュォォォォォォォォ……!」


 離れるゾアックを凝視しながら、彼女は大きく

 これは呼吸のための吸い込みではない。

 確かに彼女は今、大気分子からエネルギーを得ている。吸い込んだものからもエネルギーは生産した。だが息をするだけなら、こんなに吸い込む必要はない。

 ではなんのための吸い込みか。それは大量の気体分子を、体内に溜め込むための行動だ。

 十分な大気を得たら、次いで彼女は身体を震わせる。筋繊維を激しく、秒間三十万回も伸縮させているのだ。この動きによって『熱』を生成する。

 そしてこの熱を、溜め込んだ大気へと注ぎ込む。

 彼女の身体はエネルギーの伝導率を自在に変える事で、さながら液体の流れのようにエネルギーを動かす事が可能なのだ。エネルギー操作のような超常の力も、物理法則の改変も必要としない。によって成り立つ体質。この働きにより一方的に大量の熱が送り込まれ、体内に溜め込まれた大気分子は急速に熱せられていく。

 高温化した大気は、更に喉の部分で圧縮。十分な圧力になったところで口を改めて開けば――――高温高圧の大気が溢れ出す。

 名付けるならば『ブレス』。

 赤々と輝く熱風が、エルフ達目掛けて吐き出された!


「っ!?」


 逃げるゾアックは咄嗟に横へと跳ぶ。

 もしもそうしなければ、彼は一瞬にして紅蓮の熱風に飲み込まれ、塵も残さず焼き尽くされただろう。

 しかし無傷ともいかない。圧縮されていたものが戻るのに加え、超高温によって大気が急激に膨張。その勢いが物理的破壊力を生み、ゾアックの身体を吹っ飛ばしたのだから。

 とはいえ射線上の大地が瞬時に溶解し、それが何百メートルにも渡って伸びるほどの攻撃だ。身体が原型を留めているだけで『マシ』と言わざるを得ない。


「きゃあっ!?」


「くっ……!」


 炎が発する衝撃波は、射線から遠く離れたイリアナとアステアも襲う。しかしエルフ達の声など、爆炎が轟かせる音色に掻き消されて誰にも届かない。

 彼女が炎を吐いた時間は、ほんと数秒。

 その数秒で炎は綺麗に消えた。だが破壊の痕跡はハッキリと残る。深さ数十センチにもなる溝が刻まれ、その内側では溶けた土が沸騰して溶岩と化していた。ケイ素など様々な物質が気化して舞い上がり、白い煙が霧のように漂う。溶岩から数メートル離れた場所まで熱は届き、草原の草花が焼けるか、黒く染まって萎れていく。

 そんな地獄の光景が一直線に数百メートル……一キロ近い距離に渡って広がっていた。例え直撃は躱せても、数十メートル圏内にいれば命はない威力が、これほどの広範囲に及んだのだ。


「ぐ、うぅ……」


 ゾアックが負傷しつつも生きていたのは、身体強化魔法と素早い判断のお陰。どちらかが欠けていれば、ゾアックの身は良くて焼き肉、悪ければ跡形も残らなかったに違いない。


「フシュウゥゥゥ」


 一人も仕留められなかった事は不満だが……悪くない成果だと、彼女は喜びに似た感覚を抱く。

 ――――彼女の身体に『特別』な力はない。

 その身体を形成するのは宇宙で有り触れた、極々普通の有機物である。多少特殊な成分や、簡単には合成出来ない物質もあるが、異次元物質なんかは微塵も含まれていない。

 だが、遺伝子には生き残るためのノウハウが刻まれている。

 彼女を生んだ二足歩行型捕食種が、二足歩行型捕食種を生んだ侵入生物が、侵入生物を生んだネビオスが、そのネビオスにまで至った祖先が……数え切れないほどの淘汰と世代交代が積み上げてきた情報がある。何時か何処かで誰かの吐いた炎が、彼女の力のヒントとして使われた。量子ゆらぎに頼らない、この世界に適応した技を編み出した。

 生命として経験してきた『歴史』の厚み。それが彼女に、これほどの力を与えたのだ。


「……ィブィィー」


 とはいえ知識歴史だけでは、実戦は生き残れない。

 自分の吐いた炎で口と喉が焼ける事、余波は自分の身体にも及ぶ事、それがかなり痛い事、体力の消耗が思ったよりも激しい事……

 どれも計算自体はしていたが、それが身体にどの程度の支障をもたらすか、という具体的な情報はやはり体感しなければ分からない。初めて使う技でコントロールが上手く出来ず、想定外の損傷・消耗も少なくない。

 その失敗を彼女は学習する。

 彼女は生まれたての赤子であり、知能や知識はあっても経験はなかった。それが今、実戦という最上の経験を得て、『実力』は急速に成長している。

 一秒後の彼女は、更なる強さに至るだろう。そしてその成長は、今しばらくは止まらない。

 戦う前とは別物の強さとなった彼女が、アステア達の前に立ち塞がるのだった。

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