92e89285

 ゲートを潜り、ルアル文明を訪れた生き物。

 彼女達は元いた世界で、『ネビオス』と呼ばれていた。呼んでいたのは、その世界では少数派である知的生命体の一つ。ネビオスは極めて多様な生物群であり、彼女達はその中の一種に過ぎない。

 更に詳細を述べるなら、彼女達の祖先はネビオスの中でも融細胞生物ドメイン(ドメインは生物分類の一つ。真核生物や細菌などが位置するもので、例えば真核生物ドメインには『動物』や『植物』が含まれるぐらいの大きな括りである)というグループに属している。ネビオスには現在六つのドメインが存在するが、この融細胞生物はそれらの中でも特に成功した一族。そして彼女達の祖先はその一族の中でも、特に多くの個体数を誇る種に属していた。その意味では彼女達はネビオスなのだが、ルアル文明に適応した今の彼女達はネビオスとはかなり性質が異なる存在に進化している。

 ここでは分かりやすくするため、ルアル文明宇宙で進化・適応したグループを(いずれルアル文明が名付ける)『侵入生物』、ルアル文明に入ってきた個体を『祖先』、祖先が属していた種を『祖先種』、そして祖先種が暮らしていた世界の生物全般を『ネビオス』と呼ぶ事にしよう。

 さて、ネビオスの中でも祖先種は繁栄していたと述べたが、しかしこれは祖先種が強者だったという事を意味しない。

 確かに祖先種は優れた適応力と繁殖力により、ネビオスの中でも巨大なバイオマス(生物量。一般的には全個体を集めた際の重さを示す)を築き上げた。しかしその繁栄とは、様々な環境に分布し、特定の生態的地位における優占種で、莫大な種数と個体数を誇るというだけ。生態系の『頂点』に立っていた訳ではない。

 祖先種の肉体は極めて脆弱であり、故に様々な天敵に襲われてきた。そして天敵達は、祖先種を捕まえるため実に多種多様な攻撃を繰り出してきている。

 例えば時間停止なんてものは、ネビオスからすれば使の一つだ。原理は様々であるため対策も一通りではなく、古いというだけで劣っている訳ではないのだが、かなり多くの種が使えるのは間違いない。迷い込んだこの宇宙で誕生・進化した侵入生物達は時間停止攻撃を受けた経験などないが、遥か以前の祖先は幾度となく経験してきた。そしてそれを生き延びてきたからこそ、彼女達は此処に存在している。

 祖先種は時間停止の対策を進化させていた。この宇宙に適応する過程で多くの能力が退化した侵入生物達であるが、未だその対策を使う事は可能だ。

 その対策の名は『時間判定粒子』。

 この粒子は時間操作を受けると、それに応じた情報を示すのである。しかも情報の示し方は変化ではない。時間停止中はあらゆる変化が起きないため、時間停止領域内の物体は変わる事が不可能だ。ではどうやって情報を示すかといえば、特定情報が『強調』するというもの。時間判定粒子は複数の情報が混ざっており、通常であれば特定情報が強調されない中和状態にあるのだが、時間停止を受けるとその原理に応じて一つの情報だけがくっきりと浮かび上がる。例えるなら普段は黒い塊が、ブラックライトなど特定の光を当てると青く光り出すようなもの。この方法なら時間停止中でも粒子の情報を切り替える事が可能だ。

 そして特定情報が浮かび上がると、その情報を受けて『抵抗因子』が働く。抵抗因子は時間判定粒子と量子的な結びつきがあり、情報に変化があると連動する性質を持つ。時間判定粒子から特定情報が浮かび上がった事で、抵抗因子は事になるため問題なく機能する。

 今回の時間停止は、時間という概念の削除によるもの。これはネビオスもよく使っていた方法であるため、その子孫である侵入生物達もこの状況に備えていた。概念が削除されては対策のしようもない、と思うかも知れないが、単純だからこそ対策も難しくない。

 概念を消されたなら、新たに創れば良いのだ。

 侵入生物達が働かせた抵抗因子の名は『時間創生流子』。時間の概念を再生成する事で、時間停止を解除する仕組みである。

 無論概念というのは「今から作ります」といって作れるものではない。宇宙の物理学を根底からひっくり返すような、そのぐらいの力がなければ不可能だ。されど彼女達にはそれを可能とする能力がある。

 量子ゆらぎ操作だ。この力は以前述べたように、宇宙創成にも関与する現象である。宇宙の創生とは、つまるところ物理法則の生成だ。量子ゆらぎ操作が行えるネビオスや侵入生物にとって、自分の周りにある物理法則を改変する事など造作もない。本来ならば存在し得ない、時間を創生する粒子のような超常的な物質も作り出せる。

 この超常的な物質の事を『異次元物質』と呼ぶ。ネビオスの身体はこの異次元物質で出来ており、だからこそプランク秒の隙間で世代交代をしたり、虚空領域を難なく移動したりする事が出来たのだ。勿論侵入生物達の身体も異次元物質で出来ており、時間創生粒子のようなものを作り出す事など造作もない。

 時間創生粒子は問題なく働き、次々と侵入生物達が動き出す。

 活動を再開した侵入生物達は何をしたか? 時間停止を仕掛けてきたものへの攻撃? 時間停止範囲内からの逃走? どれも違う。そもそも彼女達はこれが攻撃だと認知していない。時間停止が何かの仕業だと考える頭がないのだ。

 故に最優先するのは自らの繁殖。

 その繁殖のためには、大きなエネルギーが必要である。ではこの場で最も大きなエネルギーとは何か? それはである。そして彼女達に同族や姉妹を想う気持ちなどない。『自分』の遺伝子が増やせるならそれで良い。

 時間停止の解除が上手く出来なかった個体は、すぐに時間停止を解除出来た個体に喰われてしまった。

 侵入生物は巨大なエネルギーの塊だ。食べればすぐに繁殖を行える。繁殖後はエネルギー不足や時間停止などの淘汰を受け、多種多様な遺伝子の中からより環境に適したものが生き残る……ルアル文明が繰り出した時間凍結さえも、侵入生物にとって環境の一つでしかない。

 時間凍結が『解除』された事をこの施設にいた知的生命体達が知った頃には、侵入生物達の形質は時間凍結前とは大きく異なるものへと進化していた。

 最初に目を引くのは大きさだろう。三・四センチしかなかった祖先種と違い、今やその体長は十〜十二センチにまで巨大化した。四枚ある翅の大きさは十六センチにも達し、幅も三センチ前後と、祖先種よりも身体に対する比率が大きくなっている。触角は長く伸びて六センチほど。シンプルなイモムシ型だった身体の側面には、フリルのようなヒダが身体の末端まで生えている。体型も丸型から、やや潰れた平べったいものになった。変わらないのは、艶一つない漆黒の体色ぐらいだろう。

 これらの特徴の多くは『食料確保』のためだ。この世界は祖先種がいた世界よりもエネルギーが遥かに少なく、侵入生物達は主に真空のエネルギーを餌としていた。真空のエネルギーは空間に満ちているものなので、たくさん得るには空間により接する事の出来る身体が好ましい。身体を大きくし、平たくなり、あちこちに突起を生やす方がより多くのエネルギーを得られるため有利なのだ。触角が長く伸びたのも、真空のエネルギーが豊富な場所をより広範囲探るための進化である。

 祖先種がそのような形態に進化しなかったのは、餌として依存していたのが真空のエネルギーではなかったため。それに祖先種が暮らしていたネビオスの世界には、たくさんの天敵がいた。このため逃走能力もある程度優れていなければならず、空間飛翔に最適な(空間の流れを最低限の操作でコントロール出来る)小型でスリムな体型の方が生き残りやすい。

 だがこの宇宙に彼女達以外のネビオスはいない。天敵に追い回される心配はなく、大きく、装飾の派手な身体でも問題なく生き残れる。故に、このような形態へと進化したのだ。

 ただし大きくはなっても、身体能力は著しく低下した。

 最も大きく衰えたのは成長速度。祖先種は一プランク秒以内に世代交代していたが、今の侵入生物は一ゼプト(十のマイナス二十一乗)秒も掛かる。凡そ一八五五〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇倍も成長するのに時間が掛かるようになった。また量子ゆらぎ操作の力も同程度には衰え、作り出せるエネルギー量は大幅に減少。身体を構成する異次元物質も性能が著しく低下し、筋力なども相応に弱くなっている。

 繁殖力も低下した。祖先種は一度に数億の卵細胞をばら撒き、それを生涯に何度も行うため、平均すれば一生で数十億の子を生んだ。ところが今の侵入生物は、一度に五十の子しか生めない。しかも生まれてくる子は親の身体を食べてしまうので、その一度の繁殖で終わってしまう。

 これらの変化は、一見して『退化』に見えるだろう。実際性能は衰えたのだから、退化と呼んで良い。だが退化もまた進化の一つ。衰える事が悪いと考えるのは知的生命体の悪癖だ。

 高機能を維持するには、膨大なエネルギーが必要である。

 一プランク秒のライフサイクルを維持するには、莫大なエネルギーを投じて時間圧縮をしなければならない。量子ゆらぎ操作によるエネルギー生成も、十分な『元手』がなければただの負担だ。異次元物質による超越的身体機能も、天敵がいないのであれば役立たずの大飯食らい。そういった『無駄』を排除したからこそ、真空のエネルギーに満ちたこの空間で生き残り、繁殖出来たのだ。

 繁殖方法の変化も、生き残りのための進化だ。エネルギーが有限である以上、子の大きさと数はトレードオフの関係……つまり子を大きくすれば、数は減らすしかない。

 小さな子をたくさん生めば、それらが全て生き残ればより自分の遺伝子を増やせるだろう。天敵がたくさんいても、多少食べられてもどれかが生き残ると期待出来る。数が多ければその分多様性も豊富なので、急な環境変化にも適応しやすい。

 だが小さな子は体力が少なく、餓死しやすい。仮に餌を見付けても、大きな幼体と鉢合わせになれば、あっという間に負けて追い払われてしまう。どれだけたくさん子を生んでも、その全てが死んでは無意味。それに天敵がいないのなら、数をたくさん生まずとも生き残る可能性は十分ある。環境も一定ならば多様性はそこまでいらない。

 飢えと隣り合わせで天敵もおらず、ネビオスの世界よりも環境が安定しているこの世界では、子供は大きい方が生き残りやすいのだ。子を生む資源は有限なので、大きな子をたくさん生むには自分の身体も子に分け与えるのが合理的。そもそも何時飢えて死ぬか分からないのは親も同じなので、何度も繁殖出来る保証はなく、だったら一度の繁殖に全てを費やした方が良い……

 子供の数や繁殖法もまた、環境によって最適なものは異なるのだ。

 さて。新たな環境に適応し、時間凍結も解除した侵入生物達は餌を求めて動き出す。飛行時に空間の歪み(大型転移ゲートの起動だ。リアル文明が侵入生物達をネビオスの世界に送り返そうとしている)を感知したが、

 そうして送還の試みを打ち砕いたが、しかしもうこの部屋に食べられる機械はない。

 なので侵入生物達は、ゲート実験室であるこの部屋と外部を区切るもの――――『壁』へと向けて突撃した。脱出しようなんて意図はない。ただそれが物体であるから、とりあえず食べようとしただけ。だがこの壁を食い破れば、結果的に外へと逃げ出す事が出来る。

 それはルアル文明にとって許容出来ない事態。故にこの壁は、簡単には破壊出来ない材質で作られている。

 その材質の名は単一金属体。自然界には存在しない、ルアル文明が『創生』した物質だ。通常どんな物質も原子や素粒子といったとても小さな要素で形成されているが、単一金属体にはそれがない。つまり巨大で目視可能な大きさの壁が存在としての『最小単位』であり、理論上細かく破壊する事が出来ないのだ。これ以上小さくならない単位だからこそ、千切る事はおろか、欠片を削り出す事も出来ない。

 厳密に言うなら、存在としては「目視可能な巨大素粒子」なので、十分なエネルギーを加えれば破壊は可能である。だがルアル文明の高度な技術力で作られたそれは、耐久性においても究極と呼べる逸品だ。宇宙を破壊するほどのエネルギーを素粒子レベルの極小範囲に一点照射しても貫けない。宇宙誕生時の高温である十の三十二乗度の熱量を浴びても温まらない耐熱性と、ブラックホールの中心だろうと変形すらしない強度も有している。

 一介の生物は勿論、ルアル文明に匹敵する科学力がなければ破壊どころか傷も与えられない壁なのだ。

 しかし侵入生物達はそんな事など知らない。ただの餌としか思わず、ついに壁に激突。

 その衝撃により、頭も身体もぐしゃりと潰れた。

 だが何も問題はない。侵入生物達の祖先種は融細胞生物ドメインと呼ばれていたが、これは身体が溶けたように見えるほど、細胞同士の結合が弛い事から名付けられた。臓器すらろくにない身体であるため(或いはこの性質をフル活用するための進化)、身体が液状化しても生存出来る。

 この能力は天敵対策として進化してきた。液状化した身体であれば、天敵に捕まっても牙や指の隙間からどろりと抜け出す事が出来る。身体が引き裂かれても液状なら集まり、再構成すれば元通り。仮に身体の九割が失われたところで、小さな身体を再構成すれば良い。細胞に全能性(様々な細胞に変化する能力)があるため、身体のどの部位が残っても復活が可能だ。バラバラになってもそれぞれの肉片が変形すれば再生可能と、兎にも角にも『殺される』事に耐性を持つ。

 欠点としては『強靭な肉体』を作るには向いていない事が挙げられる。強い力を生み出すにはしっかりとした土台が必要だが、その土台がゆるゆるではどうにもならない。しかし祖先種はネビオス生態系の中では、主に食われる側の地位にいる。強い肉体を持ったところで、遥かに大きな生物に食べられるのがオチ。端から強さなど必要としていない。

 このように食われる事に備える能力なのだが、『捕食』にも役立つ。

 崩れた身体を物体の隙間に浸透させ、そのまま体内に取り込むのだ。液状化した身体ならばどんなに小さなものだろうと入り込める。仮に入り込めなくとも、表面積を大きく広げる事で接触面を最大化。効率的な摂食が可能だ。

 勿論単一金属に入り込む隙間などない。それ自体が『最小』であるのだから。だから侵入生物達も入り込めはしないが、接した面から捕食を試みる。

 その捕食方法はエネルギー吸収。

 光や真空のエネルギーを食べてきた、祖先種由来の能力である。そしてこの能力は質量も吸収してしまう。何故なら質量とエネルギーは等価な存在であり、エネルギーの一形態に過ぎないため。質量を持つものであれば、侵入生物はなんでも食べてしまう。それを『吸い取る』のであれば、単一の存在である単一金属を削る事も千切る事もせず、より小さなものへと変えられる。

 エネルギー吸収自体はリアル文明でも可能な技術であり、単一金属も耐性を備えていた。ルアル文明自身、エネルギー吸収なら突破可能だと予測はしていたのだ。だが侵入生物達のエネルギー吸収は、リアル文明の想定を超える『出力』を有している。つまり弱点なのに加え、力押しまでしてきた。

 どれだけ優れた耐性だろうと、それが有限の数値ならば上回る力で破られる。

 それを証明するように、侵入生物は単一金属の壁をあっさりと捕食してしまった。

 そして摂取したエネルギーで成長。侵入生物達の身体に単一金属なんて含まれていないが、エネルギーの形で吸い取っている。先程述べたように、エネルギーと質量は等価だ。よってエネルギーを質量に変換する事も出来る。

 多量のエネルギーを用い、体内で異次元物質を生成する。これが新たな身体の材料となり、次世代を生み出す糧にもなる。つまり侵入生物達はあらゆる物質をやエネルギーを、食べる事が可能なのだ。

 ゲート実験室を囲う巨大な壁を食べ尽くし、侵入生物達は百万近い数まで増殖。行く手を阻むもの食べ物がなくなり、侵入生物達はいよいよ実験室の外へと飛び出す。

 道中にあるものは全て餌。実験施設の壁も床も、発電機もコンピューターも電子書物も、流れる電力も漂う真空のエネルギーも。全てをエネルギーとして吸収し、吸収したものを異次元物質に変え、新たな生命を生み出す。非常電源の動力であるブラックホールさえ、質量の塊である以上侵入生物にとってはただの餌に過ぎない。重力による時間の遅延など、空間を補正出来る彼女達にはなんの障害にもならなかった。

 だが、ルアル文明のセキュリティシステムはまだ番作尽きていない。

 研究施設から退避した研究員達に代わり、侵入生物達の行動を監視していた管理AIが次のセキュリティを起動させた。そして聡明なこの文明の人工知能は、時間停止をなんらかの方法で破った存在にまた時間停止で挑むという愚行はしない。新たな手を繰り出す。

 それはだ。

 時間の原理を完全解明したルアル文明にとって、時間を巻き戻す事さえも容易い。コントロールも完璧であり、使用範囲を宇宙全体から素粒子一粒まで自由に制御可能だ。時間遡行により発生するタイムパラドックスの問題さえ難なく解消しているため、使用上の制限すらない。更に時間遡行を受けた存在は、記憶などの情報も巻き戻ってしまう。このため巻き戻された対象は、時間遡行を受けた事にも気付けない。

 例え時間停止は効かずとも、時間の巻き戻しならば通じる可能性はある。

 そう思っての対策だったが、しかしこれも失敗した。いや、失敗どころかまるで通じていない。実験施設全域の時間を巻き戻したのに、侵入生物は何一つ変化しなかったのだから。

 理由は、侵入生物が

 宇宙の次元は一般的に、縦横奥行きの三次元と、時間を加えた四次元により表される。だが実際には、認知不可能なごく小さな領域に七つの次元が隠れ潜んでいるのだ。普通の生物が認識する事はなく、量子力学など一部学問の実験で考慮する程度のものだが……侵入生物はこの十一次元の任意四次元を自由に行き来する(存在する座標を移す)事が出来た。

 座標が変わるとはどういう事か? 簡単だ。どんな攻撃も当たらなくなる。縦一メートル横二メートル奥行き三メートル午後六時十分と攻撃位置を放ったのに、相手が五次元六メートル・八次元七メートル・九次元十メートル・十次元十メートルにいては当たりようがない。そして時間遡行は四次元までの範囲に作用する力。次元を移動されては当たる訳がなかった。

 これは祖先種、いや、ネビオスが持っていた力である。ネビオスの場合は空間が持つ十一次元に、自分達の力で『拡張』した二十五次元を加えた三十六次元の中で暮らしていた。正確に言えば存在している座標は任意の三〜六次元であり、全ての次元を行き来出来る種も多くない。大抵の種は十五〜二十次元程度の範囲が活動圏となっている。だが本来ならば移動なんて出来ない、様々な次元に身体の『座標』を移せるのは確かだ。

 これは天敵から逃れるのに役立ったり、獲物を待ち伏せするのに使えたりなどの理由もあるが……一番の理由はため。生息域の拡大として進化し続けたら、次元まで拡張してしまったのだ。

 侵入生物は能力が退化したが、それでも十一次元を自由に動ける。また多数の次元に移動出来るからこそ、時間遡行の存在を『俯瞰視』する事で気付けた。時間凍結のように一瞬の出来事では回避が出来なかったが、時間遡行であれば巻き戻しに時間が掛かるため、この対処を使う猶予がある。

 この対策も侵入生物を止めるには至らず、侵入生物達は更に数を増やしながら研究施設を喰う。

 やがて施設は跡形もなく消え去り、後には侵入生物だけが残った。細胞内に高エネルギーを溜め込んでいる侵入生物のバイオマスは、評価が困難である(エネルギーが質量と等価なため高エネルギー=高質量となり単純な重さが測れない)が……細胞を形作る異次元物質の質量だけで数えれば、数十万トン規模の個体数にまで増殖している。

 その膨大な数の侵入生物達は、しかし研究施設を食べ尽くしても止まらない。更に自分の遺伝子を増やすため、未だ多くの真空のエネルギーに満ちた、研究施設の外に広がる宇宙空間に向けて進もうとする。

 その道中、星や宇宙船に出会うだろう。それらは全て質量であり、故に侵入生物達は襲い、食べようとする。中に生命がいるかどうかなど気にしない。重要なのはそれが餌かどうか、自分の遺伝子を増やせるかどうかだけ。

 このまま侵入生物達は無尽蔵に増えていき、ついに宇宙は食い尽くされる……

 それは、ルアル文明が許さない。

 時間凍結も、単一金属も、時間遡行も、全てが打ち破られた。だがルアル文明、いや、ゲート実験施設の対策は尽きていない。研究施設が崩壊した際に発動する、最後の対抗措置が既に機能している。

 それは侵入生物達が、研究施設の敷地外へ出ようとした瞬間――――前に進めなくなるという形で現れた。

 否、厳密には進んでいる。進んでいるのだが、進みがあまりにも遅い。百メートルは進んだつもりなのに、その場で足踏みでもしていたかの如く一センチしか移動出来ていない……そんな不可解な状況だ。運動方向が制御された感覚もなく、確かに前進した筈なのに結果が出ない。しかも全く進めない訳ではなく、少しは前に進んでいるのが異常さを際立たせる。

 侵入生物には、この異常事態に動揺するような知能はない。進めないならまた進むだけとばかりに、ひたすら前進を行う。確かに速度を上げれば、前進速度も上がった。だがやはり遅々とした進みである。

 一体この空間で何が起きているのか。侵入生物達がいる内側からでは分からない。

 だが外から見れば明らかである。何しろ彼女達の姿が、外から見ればどんどんのだから。

 これは研究施設が用意した最後の封じ込め措置。空間伸長という空間自体を引き伸ばす技術を用い、相手の移動距離を物理的に伸ばす……つまり外に出てくるまでの時間を稼ぐというものだ。

 時間すら操るルアル文明にとって、通常空間の操作などお手の物。その伸長速度は凄まじく、一秒足らずで一メートルの空間を三億光年以上の長さまで引き伸ばす事が可能である。つまり空間伸長の中で前に進むには、一メートル先へと行くのに秒速三億光年もの速さが必要という事だ。それより遅い場合、距離が伸びる速さに付いていけずどんどん目的地が遠ざかっていく。分かりやすいように、伸長速度を秒速三億光年と言い換えても良いだろう。

 この無制限の伸長により、対象を一定範囲内に閉じ込める。単純ながら効果的な対策だ。

 更にこの空間伸長、相手の抹殺さえも可能とする。空間が引き伸ばされるというのは、単に距離が遠くなるというだけの話ではない。空間が伸びるのだから、そこにある物体もまた引き伸ばされる。より正しく言うなら、空間内にある物質の最小単位……素粒子の『間隔』が引き伸ばされているのだ。

 これが何を意味するか? 陽子や中性子などの素粒子が集まって原子は形作られているが、これは『強い相互作用』という力により互いが結び付いているから原子の形が保たれている。しかし力と言うのは伝達していくものだ。つまり速さがある。

 その速さは光速。

 では、光速以上の速さで空間が引き伸ばされたらどうなるか? 素粒子の視点に立てば、隣の素粒子との間隔が光速以上の速さで離れていくようなもの。そして強い相互作用の速さは光速……つまりどうやっても、強い相互作用は隣の素粒子に届かなくなる。強い相互作用によって原子は形作られているのだから、その力がなければ原子の形は保てない。

 もしも宇宙の膨張速度が光速度を超えると、全ての物質が素粒子レベルで引き裂かれてしまう。これはビッグクリップと呼ばれる『宇宙の死』の一つだ。ルアル文明が繰り出した空間伸長はこれを擬似的に、かつ光速を遥かに上回る速さで再現したもの。瞬く間にあらゆる物質を引き裂くだろう。

 ……生半可な文明や生物相手であれば、という前置きは必要だが。

 確かに秒速三億光年は凄まじい速さである。そしてビッグリップは宇宙の死。単純比較出来るものではないが、単に速さだけでみれば、自然な宇宙の死と比べて約九・五✕十の十五乗もの『威力』と言えるだろう。こんなものを食らって生きているような生物は、真っ当な存在ではあるまい。

 だがルアル文明であれば、この程度の空間伸長をやり過ごす事は難しくない。

 空間の補正が使えるのは、侵入生物だけではないのだ。流石に民間船にはないが、軍艦であれば空間補正機能が備わっているのは基本。秒速三億光年どころか三百億光年の空間伸長だろうと、船内の空間は一定規模を保つ。また宇宙船の航行速度も秒速数百億光年程度であれば珍しくもない。脱出さえも難しくない。

 ルアル文明でさえ苦労しない封じ込め対策が、どうしてルアル文明以上の存在に通じるのか。時間凍結も時間遡行も単一金属も効かない相手に、の対策が効果をもたらすとは考え難い。破られる事が前提の対策であり、精々時間稼ぎ……施設内の研究者が安全圏まで逃げる程度の成果しか期待されていなかった。

 ところが、これが侵入生物達には効果的だった。空間伸長の外に、侵入生物達は中々出てこなかったのである。

 これには二つの理由がある。一つ目は、そもそも侵入生物達はルアル文明を侵略してやろうとは一切考えていない事。目的はあくまで自分の遺伝子の繁栄だ。研究施設を食べ、あらゆる対策を突破したのも、そうしなければ繁殖出来ないからである。

 だから単に空間が伸びているだけなら、慌ててそれを補正しよういう気にはならない。伸びたところでそこに真空のエネルギーがある事に代わりはなく、食べながらちょっとずつ前進すれざ良いのだ。引き伸ばされた分だけエネルギー量も減っているが、侵入生物的には「食べ物が少ないなー」と思うだけ。伸びた空間の先に豊富な食べ物があるとは気付かず、むしろ今あるエネルギーを無視するのが勿体なくて、とりあえず今この場で一生懸命に生きる。それで繁殖も出来るのだから、脱出を急ぐ必要もない。

 そしてもう一つの理由は、身体能力が低いため。

 祖先種やネビオスであれば、秒速三億光年の空間伸長などなんの障壁にもならない。空間を引き伸ばして逃げようとする種などいくらでもいて、天敵の中には距離を詰めるようなものもいるほどだ。その強大な力は、空気のように場を満たす特殊生物、それと量子ゆらぎ操作から生み出されるエネルギーによって賄われていた。

 だが侵入生物は、このルアル文明宇宙で生きるためそれらの能力を退化させている。多少の空間伸長ならば簡単に補正出来るが、秒速三億光年もの伸長を修正するのは難しい。

 しかも飛行速度も、そこまで速くない。真空のエネルギーの吸収に特化した平たくヒラヒラな身体は、空間飛翔速度を大きく衰えさせた。祖先がルアル文明に来てから素早く動き回る必要もなかったので、そのままどんどん退化し、今では秒速二億光年ぐらいの速さしか出せない有り様。天敵がいないのだからどれだけ動きが遅くとも問題はない(むしろ真空のエネルギーを効率的に吸収出来るのだから有利)のだが、この所為でただ飛ぶだけでは空間伸長から抜け出す事が出来なくなっていたのだ。

 理論上の話で言えば、空間を全力で補正しつつ全力で飛べば、どうにか脱出出来るだろう。だが一つ目の理由、積極的な攻撃の意思がないためそんな事は思いもしない。必要もないのに全力で空間補正や飛翔をしても、エネルギーを浪費するだけ。エネルギーを使ったら繁殖出来ない。だから侵入生物的にはそんな事やりたくない。

 結果侵入生物達はルアル文明にとって都合の良い事に、狭い範囲内をのんびりと飛び回るだけだった。

 ――――とはいえ侵入生物は死んだ訳ではない。積極的な対策はしないが、自分の身体の周辺空間ぐらいは、空間伸長によって離れ離れになろうとする素粒子の間隔を『補正』し、身体がバラバラにならないよう努めている。それに繁殖行動はしており、少しずつ個体数も増やしていく。

 何より真空のエネルギーは有限だ。引き伸ばされるほど真空のエネルギーの濃度は薄くなり、侵入生物達は飢えに見舞われる。餓死する個体が多発すれば、それは淘汰圧となり、新たな進化を促す。

 侵入生物にルアル文明を侵略する意思はない。されど対話や共存する気もない。全ては本能のまま、己の遺伝子を増やす事だけが行動原理。

 いずれ引き伸ばされる空間の外に、彼女達は進出する。

 その時が来るまで、侵入生物達は優雅に泳ぎ回るのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る