緊急事態

 時は、僅かに遡る。


「……予定時刻です。実験を開始しましょう」


 部屋の壁に掛けられた時計を見ていたダーテルフスは、予告していた時刻の到来と共に宣言した。

 現時点でなんら問題は起きておらず、予定通りに実験――――新たに発見した宇宙の調査研究が始まる。準備していた人々がコンピューターを操作すると、部屋の正面にある壁が左右に開き始めた。

 開いた壁の向こうにあったのは、巨大な実験室と、その部屋とユミル達を仕切る大きな鏡、そして実験室内に置かれた三つの機械。

 一つは床に置かれた、全長十メートルほどの筒状マシン。このマシンの隣には、多脚の甲殻類に似た形状の機械が、空中浮遊した状態で配置されている。

 床に置かれている筒状マシンが転写光照射器だ。この筒の中心から別宇宙の情報をコピーするための転写光が発射される。そしてすぐ隣にある虫のような機械がコピーマシン。転写光を完璧にコピーするためのそれは、何時でも動けるとばかりに小さなライトが電子的な明滅を繰り返していた。

 それら二つの機械も、勿論実験には欠かせない。しかしユミルの目を引いたのは、その二つではない。

 部屋の中心に置かれた、直径百メートルほどの巨大な『輪』だ。機械で作られたその輪には無数のコードが繋がっていて、ルアル文明にとっても極めて高度なマシンであると傍目にも窺える。

 この巨大な輪がゲートと呼ばれるもの。宇宙と宇宙を繋ぐためのテクノロジーであり、この実験の要とも言えよう。実験室の名前が『ゲート実験室』となるのも頷ける存在感だ。多宇宙文明ルアルの立役者であり、資金と資材さえあれば量産可能なただの機械だと頭では分かっていても、ユミルは胸の奥底で崇拝にも似た感情的昂りを覚えてしまう。


「新人は、何かの作業を任せる前に一度我々の仕事を見てもらう事にしているのです。いきなり仕事をさせても、今のあなたのように何も手が付かないでしょうから」


 その内心はダーテルフスにはお見通しらしく、優しい声で言われたユミルは赤面する。

 とはいえバレたのであればもう隠す必要はない。人類種最高峰の頭脳は合理的に判断し、素直に窓に張り付いてゲートの動きを見つめる。

 ゲートは稼働を始めたようで、備え付けられた幾つかのライトが青く点灯する。するとゲートの内側に向けて青い光の『渦』が出来始めた。最初は淡い色合いだった渦は時間と共に濃くなり、やがて中心部分が真っ黒に変わる。外周部分の渦は高速で回り始めた。まるで何かが撹拌されているかのようだ。

 ルアル文明の根幹と言えるゲート技術。しかしその仕組みは(あくまで分かりやすく例えるならであるが)存外単純だ。

 ゲートが発している青い光は『次元掘削光』という。これは空間を掘り進むドリルのようなもの。別の宇宙に向けて掘り進み、通り道を直接繋げるのだ。実際には宇宙自体の座標は極めて複雑であり、一直線に進んで辿り着けるものではないが……概念的にはそういうものと思えば良い。ちなみに名前に光と付いているが、一般的な生命体の目には光のように見えるというだけで、物理現象としては光と全く関係ないものである。

 話をゲートの理論に戻そう。穴が空いた空間は黒い『虚空領域』となる。虚空領域とは空間が存在しない領域という意味。そして空間が存在しないというのは、物理法則がないという事を意味する。

 もしも此処にただの物質を投げ込めば、物質を形作る物理法則がないため一瞬で消え去る。エネルギーも何も残さない。熱や運動という『物理法則』さえもないのだから。ルアル文明ならば虚空領域を通るだけの技術を持つが、もしもこの技術がなければ、宇宙の外に出ても待っているのは消滅の未来しかない。

 さて、そうこうしているうちにゲートの青い光は殆どなくなった。これは虚空領域が大きく広がった証であり、いよいよ他の宇宙との接続が間近になったという予兆でもある。

 ここで一度別宇宙への接続作業を中断し、最終確認を行う。個々の機械に異常はないか、接続先の宇宙の座標は間違っていないか、ゲートの稼働は安定しているか、ゲート実験室内に不要な資材は置かれていないか……知的生命体による目視確認に加え、高度な人工知能もチェックに加わる。

 全ての確認を終え、一つも問題がなければ残るは最後の承認のみ。その承認を行うのはプロジェクトリーダーであるダーテルフス。現時点で問題は何も起きておらず、そして今回が初めての実験という訳でもない。止める理由は一つとしてない。


「最終接続開始」


 ダーテルフスの指示を受け、誰かが「最終接続開始」と返事をしてから何かのボタンを押した。

 次の瞬間の事だった。

 けたたましい警報が室内に鳴り響き、天井のライトが異常を告げる赤い光で輝き出したのは。


「ふぇっ!?」


「何がありましたか?」


 驚きから少しばかり間抜けな声を漏らすユミル。彼女が戸惑う傍で、ダーテルフスが疑問を投げ掛ける。

 この場で作業をしていた誰一人として、警報の理由はまだ把握出来ていない。突然の事に皆がまだ驚いていた。

 しかしダーテルフスの質問に答える者はいる。


【通達。ゲート実験室内に生物反応を確認。ゲートを緊急停止しました】


 研究所全体を管轄している管理AIだ。

 管理AIは所謂人工知能である。生物のように自ら思考し、尚且つ機械的な早さで情報の解析を行う。例え人類達がまだ動揺している時でも、彼等は既に全てを把握しているのだ。

 その認識速度は凄まじく、三万プランク秒に一回の頻度で演算を行う。生命体ダーテルフスが声を掛けた頃には、既に数え切れないほどの再計算が行われ、状況を正確に把握しているだろう。加えて管理AIはあくまでもコンピューター……感情は持ち合わせていないため、どんな事実だろうとすんなり認める事が可能だ。

 故に管理AIからの通達に誤りがある事は、彼自身が壊れていない限りまずあり得ない。

 だがユミルの生物的な『感性』は、その誤りのない言葉を咄嗟には信じられなかった。


「(生物反応って、どういう事!?)」


 新人といえどもユミルもまた此処の研究員。初仕事前に渡されたマニュアルには目を通し、天才に相応しい記憶力で一通り覚えている。その知識のお陰でこの事態の異様さを理解し、故に一際混乱してしまう。

 ゲート実験室内に生物反応が感知された場合、実験の開始及び継続は中止となる。

 これは二つの観点から、ゲート稼働時の最優先事項として規定されている。まず実験室内にいる生命体(具体的には作業員)の安全確保のため。ゲートによって開かれた虚空領域に飲まれれば、特殊な宇宙服でも着ていない限り助かりようがない。ゲート自体に何かを吸い込む能力はないが、万が一にも入ってしまわぬよう安全対策を行っている。そしてもう一つは、ルアル文明の生物が他宇宙に入り込まないようにするため。生物の能力次第であるが、虚空領域を突破するような化け物が他宇宙にいけば、侵略的な外来種として宇宙そのものを破壊する可能性が高い。各々の宇宙が独自の発展を遂げていく事を望むルアル文明としては、外来種によって宇宙が滅ぶ事態は絶対に避けねばならない。

 だから本当にゲート実験室内に生物がいたなら、警報と共にゲートを緊急停止するのは当然の判断と言えるだろう。

 しかしダーテルフスが実験開始を指示した後、ユミルが見た限りゲート実験室内に生物の姿などなかった。無論人間一人ユミルの目視確認など大して信用すべきでないが、ダーテルフス含めた大勢の知的生命体によるチェック体制、更に管理AIによる通常監視も行われている。まず見逃しはあり得ない。本当に何か、奇跡的な確率でその全員が見逃していたとしても、ゲート自体に生命反応センサーがあるため、実験室内で生命がいれば最優先行動として起動しないようプログラムされている。

 更に床には重力センサーもあり、なんらかの重さがあればそこからゲートに向けて停止指示が飛ぶ。他にもエネルギーセンサーや精神感応波センサー、神秘センサーに霊魂センサー、魔力センサーや概念干渉センサー等々……あらゆる宇宙に存在するあらゆる『力』を感じ取るための計器が実験室には配置されている。これら全てを潜り抜けて隠れるなど、ほぼ不可能だ。

 ならば実験中に外から入ってきたのか? それもまた考えられない。ゲート実験室へと繋がる扉は、実験開始三十分前には施錠される。これもまたマニュアルに記載されているルールだ。しかも扉は三重構造のため二つまでは壊れても気密が保たれ、また扉の前後に生命体がいれば警告が発せられて実験を行えない。勿論扉が破壊含めて開かれればその時点で警報が鳴り響く。

 これらのマニュアルや管理体制は管理AIにインプットされており、人類側が意図的に破ろうとしても問答無用で警告されてしまう。仮にAIを弄り回して警告を無効化しようとすれば、管理AIを統括する外部システムに感知され、上の組織に連絡が行く。

 ここまで徹底したマニュアルや防止策がある以上、生き物が実験室内に隠れていたり、扉から進入したりしたとは思えない。一応それが出来る『存在』もルアル文明にはいるが、そうであれば侵入後に警告が鳴る事もないだろう。

 だとしたら、通れる道は一つ。


「(ゲートを、通ってきた……!?)」


 これこそあり得ない。ゲートの中は虚空領域だ。ただの生物を物理法則の存在しない領域に放り込めば、生存はおろか己の形すら維持出来ない筈である。

 何よりゲートは一方通行になっている。空間の捻れを利用し、運動エネルギーの向きを一部反転させている。前に進もうとすれば後ろに進む事となり、後ろに下がればそのまま下がっていく。どうやっても前には進めない構造だ。理論上は空間を補正すれば前進出来るようになるが、そのためにどれほどのエネルギーが必要になるか。ルアル文明ですら、そこまでのエネルギーを持つ宇宙船など存在しないのに。

 しかし、だけど、どうしたら……必死に頭を働かせるが、否定する考えもすぐに浮かび、何一つ考えが纏まらない。迷った思考では次の行動を起こせず、ユミルは動けなくなってしまう。


「生物体の正体は分かりますか?」


 だがダーテルフスは冷静だ。想像を働かせるよりも前に、より詳細な情報を求める。

 知らないのだから調べる。その当たり前を、ユミルは今思い出す。


【生物体はデータベースに登録なし。未確認種です】


「ふむ。ならやはりゲートを通ってきたと考えるべきですね」


「ゲートから……!」


 ダーテルフスが下した結論に、ユミル以外の職員も僅かに動揺した。しかし大きな混乱は起こらない。

 誰もが冷静さを保っている。その姿を見ていたユミルも落ち着きを取り戻す。

 冷静さを失っては正しい答えに辿り着けない。天才でなくとも分かる事だ。加えてこの実験場で使われているマニュアルは、ルアル文明が長い歴史で作り上げた代物。数多の想定外を経て、虱潰しに問題を潰してきた産物である。此度のような事態を想定した『対策』は既に起動している筈である。

 その対策が間違いなく動いている事を、ユミルは窓から覗いたゲート実験室の様子から窺い知れた。

 止まっている。

 全てが止まっているのだ。尤も、既に室内にはゲートもコピーマシンも残っていない。あるのは、ゲートがあった位置で群れている、小さな『生き物』らしき存在だけ。

 その小さな生き物達はぴくりとも動かない。遠いためハッキリとは見えないが、まるで写真か標本のように微動だにしなかった。


「(そうだ。実験場に何かあったら時間凍結が起動するんだっけ)」


 時間凍結。ルアル文明では一般的な緊急事態への対処法であり、尚且つ大概の問題の悪化を防ぐ強力な対策だ。

 これは名前通り一定範囲内の時間を『凍結』させる仕組みである。

 そもそも時間がというのも、宇宙により大きく異なるが……ルアル文明においては、空間に依存するものと分かっている。重力や速度によって変化し、絶対的ではなく相対的なもの。自分から見て相手の時間が止まって見える時、相手からはこちらの時間が加速しているように見える。これが時間の基本的なルールである。

 そんな時間であるが、ルアル文明の技術力であれば『停止』させる事が可能だ。

 本来時間とは相対的なものであるため、『止める』事は出来ない。だがそれは時間という概念があるから生じるもの。時間という概念を事であらゆる時間の流れを消し去ってしまえば、その範囲内で時間が流れる事はない。

 これが時間凍結という技術だ。ルアル文明であれば様々な対策を持っているが、いずれも時間凍結そのものを防ぐか、外からの解除を試みるものである。時間がない空間ではどうやっても『変化』が起きないため、時間凍結を受けた空間内で何かする事は出来ない。

 ゲート実験室に現れた生物も、時間凍結を受けた以上もう何も出来ない。ユミル達が対策を練る時間は十分にあった。


「良し、時間は稼げました。まずは状況の報告……ゲート実験室に接続先宇宙から侵入したと思われる生物が出現したと、上層部に伝えてください」


「了解!」


 ダーテルフスは現状を上層部と共有する事を選び、その報告を部下に頼む。

 それから考え込むように、靄のような身体を揺らめかせた。


「さて、ベーィム。一つ疑問があります」


「ああ、俺もだ。奴等、もしもお前の考え通りなら、実験を初めてすぐに接続先の宇宙からやってきた事になるよな?」


「はい。それもあれだけの数が。普通なら、一体侵入してきた段階で時間凍結が動作する筈です」


 ダーテルフスとベーィムの会話を聞いて、ユミルも同じ疑問を抱く。

 管理AIの思考演算は三万プランク秒に一回完了する。つまり一つの処理に掛かる時間が三万プランク秒という事。今回の出来事であれば取得データを解析し、解析結果からなんらかの異常を検知し、その異常を解決するための手段を演算し、実行のための指示を飛ばす……単純に考えて四行程あるため、演算に必要な時間は最速で十二万プランク秒、十の四十乗分の二十三秒程度で完了する筈である。

 厳密には機械の動作時間もあるのでもう少し時間は掛かるが、今のルアル文明で使われているコンピューターは起動にも数万プランク秒しか掛からない。通信時間を考慮しても、タイムラグは精々十万プランク秒程度だろう。

 つまり実験室内にいる生物達は、最初の一匹目が検知されてから二十万〜三十万プランク秒の間に押し寄せた事になる。個体数が多いので目視で正確に数えるのは難しいが、今や実験室の中には数万体はいそうだ。それだけの数が、刹那と呼ぶのも生温い時間で押し寄せてくるものだろうか? おまけに実験前はあった機械類、ゲートさえもなくなっている。あの生物達がなんらかの方法で破壊したのだろうが、だがそれは何時の間にした事なのか?

 ユミルはそんな疑問を抱くが、しかし尊敬する先輩ダーテルフスと、その友人ベーィムは更に先の話を始めた。


「管理AIが判断を下した時の画像記録を見ろ……この時点だと精々数百体だけだ」


「ふむ。だとすると可能性は二つありますね。一つは画像記録後から時間凍結が始まるまでの間に大きな群れがやってきた。もう一つの可能性は」


「繁殖した、という可能性だな」


 繁殖。

 その言葉に、二人の話に混ざっていない職員達も雰囲気を強張らせる。ユミルも動揺を覚えた。プランク秒、物理の世界で意味を持つ最小単位の時間で繁殖する生物なんて、聞いた事もない。

 だが、聞いた事もないというのは、存在しない事の証明とはならない。

 ユミルは察した。恐らく、ついに自分達は接触してしまったのだろう。無数に存在する宇宙に潜む、ルアル文明を超える存在に。それが文明ではなく生物なのは、少々予想外だったが。

 しかし聡明なルアル文明は、このような事態も想定済みだ。

 未確認の宇宙を調べれば、いずれは自分達以上の『何か』に触れる事もあり得るだろうと。自分を上回るものなどいないという、愚かな勘違いは犯さない。故に万全の対策を施してきた。時間凍結もその一つに過ぎない。


「今後のためにも研究したいところですが、リスクが大き過ぎます。元の宇宙へ送り返しましょう。実験区画ごとパージします」


「上層部の判断は?」


「待ちません。相手が我々の想像を大きく凌駕する事を前提とします。責任を問われても、私が職を失う程度で宇宙の平和が守られるなら安いものでしょう」


 そしてダーテルフスも油断なく、事態に対処しようとしていた。

 ゲート実験室の周りには、大型転送ゲートが存在している。これもまた別宇宙に繋ぐための装置であるが、実験に使っていた一方向性ゲートとは少し性質が異なる。

 大型転送ゲートは対象を特殊なフィールドで『梱包』し、それに加速度を与えて転送……乱暴に例えるなら別宇宙に送り出す。投げた時の速度により空間に穴を開けるのだ。

 この方法なら一方向性ゲートと違い、そもそも『道』を作らない。転送対象が通った後に出来る虚空領域も、即座に自然と塞がり跡形もなくなる。それ故に、別宇宙の存在がその道を辿ってルアル文明にやってくる事は考え難い。ルアル文明側としては安全に、相手を元の宇宙に送り返せるのである。

 欠点としては、相手を投げて送り返す都合向こう側の情報が全く拾えない事。このため調査には使えない。また梱包した相手の安全性を考慮していない事も問題だ。普通の相手なら、死どころか消滅という事態を招く。それどころか衝突時の余波により、転送先の宇宙すら破壊しかねない。このため相手が非友好的存在、或いはルアル文明に対し著しく危険だと判断した時にのみ使用が正当化される。

 此度の相手は、ハッキリ言って未知だ。しかしプランク秒単位で何かしらの行動を起こした可能性がある。自分達のテクノロジーでは完全な観測が出来ない存在を、多分大丈夫と手放しで受け入れるのは自殺行為。やり過ぎだという批難は、自分達なら上手くやれるという驕りがあってこその物言いであり、その保証がない以上ダーテルフスの決断は正当な判断と言えよう。


「分かった。パージする」


 ベーィムもダーテルフスと同じ考えのようだった。即座にコンピューターを操作し、大型転送ゲートを起動させようとする。

 ――――彼等の議論は適切で、そして結論は早かった。事態発覚から、一分も経っていない。状況認識を含んでこの時間なのだから、恐らく知的生命体が下す判断としては最速の部類であろう。

 だが、どうやら遅かったらしい。


【警告。間もなく時間凍結が解除されます。実験室内の生物体排除は完了していません】


 想像を超えた生物が、自らの力で動き出したのだから。


「!? 凍結、解除……!?」


「! マジか……じ、時間概念が再構成されている! いや、これは、再定義……!? 凍結空間が縮小している! 四十五秒以内で完全に解除されるぞ!」


「大型転送ゲートを緊急稼働!」


【稼働出来ません。ゲート稼働に必要な時空歪曲が阻害されています】


「そが……!?」


 ダーテルフス達もこれには動揺を露わにした。ユミルや職員達も同じだ。

 時間停止は外から解除するしかない。

 これはルアル文明の辿り着いた一つの結論である。ところがこの生物達は、時間停止を『内』から解こうとしている。全てが止まり、何も変わらない領域の中で、変化を起こそうとしているのだ。

 ルアル文明の時間停止は、ただの時間停止ではない。時間を完全に解明した上で成り立つ超技術だ。時間停止マシンを開発した文明、時間停止魔法を操る魔法文明、時間停止を可能とする能力……『時間停止』技術自体は宇宙によって様々なものがあるが、全てを知り、解明したルアル文明の時間停止はそれらと一線を画す。

 例えるなら他文明の時間停止技術が原始人の起こした焚き火のようなものに対し、ルアル文明の時間停止は人工太陽の建設・運営と呼ぶべき高度さと出力だ。他文明ではルアル文明の時間停止技術を、解除どころか理解する事さえ出来ない。例え詳細な理論を教えてもらえたとしても、だ。無論焚き火では人工太陽の力に敵わないように、それらの技術でルアル文明の時間停止は止められない。

 そのルアル文明自身が『不可能』と結論付けた時間凍結を、この生物達は――――


「……実験場を緊急凍結! 施設内時間を最大まで遅延させ少しでも退避時間を稼いでください! 同時に隔離プランBを実行! 総員退避してください!」


 ダーテルフスは即座に次の判断を下す。

 此処を放棄してでも、職員の安全を守る事にしたのだ。

 この決断をベーィムも受け入れた。彼は即座に、自席にある赤く大きなボタンに拳を叩き付ける。ボタンは周りをガラスで覆われていたが、結晶生命体である彼の拳はこれを容易く叩き割り、ボタンは勢い良く押された。

 ボタンの押下と同時に、警報が施設中に鳴り響く。

 後の動きは迅速だ。職員達は最低限の準備を済ませ、すぐに走り出す。

 わたわたしていたのは、新人であるユミル一人。そんな彼女も、ダーテルフスが声を掛ければいくらか落ち着きを取り戻す。


「ユミル。緊急事態のため避難します。走れますね?」


「は、はい! だ、大丈夫です!」


「素晴らしい。さぁ、行きましょう。大丈夫、今施設内の時間の進みを遅くするよう指示を出しました。避難する時間は十分にあります」


 先輩に連れられ、ユミルも此処から離れる。

 ダーテルフスの判断は正しい。彼以上に適切な判断を下す事は、少なくとも自分には出来ないとユミルは思う。

 加えて歴代の天才達が書き上げたマニュアル、そしてそこに配置されたテクノロジーを惜しみなく使った。ルアル文明の『全力』ではないが『本気』の対処ではある。

 なのに、

 どんな存在なのかも分からない、小さな生物一つ抑えられなかったのだ。ユミルは自分達の文明が至上の存在だとは思わないが……『究極の文明』の一員だという自負はある。


「……まだ、一敗」


「ユミル? どうしましたか?」


「あ、いえ! なんでもありません!」


 思わず漏れ出た言葉を誤魔化すように、大きな声で返事をするユミル。

 まだ一敗、なんて甘えた考えを抱いている場合ではない。相手は未知にして脅威。抑えられなければ、世界がどうなるか分かったものではない。

 次こそは食い止めなければと、決意を新たにしながら、ユミルは先輩達と共に配属初日の実験場から逃げ出すのだった。

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