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 『彼女』はその世界で、空を飛んでいた。

 彼女の大きさは体長三・四センチ。その身は十四に分かれた体節構造を持つがハッキリと区切れている訳ではなく、少し丈夫な皮で包まれた、完全変態昆虫の幼体であるイモムシのような作りをしていた。脚が生えていないので蛆虫のようにも見えるだろうが、やや弛みのある肉質はイモムシに近い。

 体色は黒。艶も何もない、輪郭すらろくに見えない漆黒だ。先端が丸い円錐型の頭は体長の五分の一を占める大きさだが、そこには目どころか口もない。頭にあるのは翅のように広がる、長さ〇・三センチの触角が二本だけだ。棘や鱗、甲殻など戦闘向きの部位は身体の何処にも見られない。

 頭部付け根から数えて二つ目と三つ目の体節から二枚ずつ、合計四枚の平たい肉質の突起が生えている。この肉質の突起こそが彼女の翅であるのだが、翅は水平の位置を保ったまま。上下にも前後にも殆ど動かさない。にも拘わらず彼女の身体は空を飛び続ける。しかも一ミリと落ちる事もなく。彼女の暮らす世界には大地があり、重力も存在するというのに。

 不可思議な飛行こそしているが、見た目は極めて脆弱に思えるだろう。事実、彼女の力はこの世界に生息する生物の中でも極めて非力なものだった。

 そして弱い彼女は今、恐ろしい生き物に狙われている。


「パキィイィィイイッ!」


 攻撃的な声と共に彼女へと迫るのは、八本の足を持つ生物。

 身体は鱗などのない軟体質であり、甲殻を持たない。代わりとばかりに、その身の表面にはぬるりとした粘液を纏っていた。巨大な頭部から直に八本の足(或いは触手とでも言うべきか)が生えており、その足は先に鋭い爪が、裏側には無数の棘がある。

 頭部には大きく発達した三つの目玉がある。二つが周囲の様子を探るように忙しなく動く中、一つの目は逃げる彼女をじっと見つめていた。彼女が右へ左へと動いても、額の目は正確に彼女を追う。

 間違いなく、この軟体動物は彼女を狙っていた。八本ある足の中心で蠢く四つの嘴の動きから読み取るに、餌として喰らうために。

 ……体長三センチちょっとの彼女が餌として狙われている事から分かるように、その軟体動物も体長六センチ程度の小さな生き物だったが。周りには他にも様々な生物がいて、体長数センチの程度のものは勿論、数十センチや数メートルのもの、それどころか数百メートル級の種も珍しくない。この八本足の生物など、他生物と比べれば然程強大な種ではなかった。

 とはいえ小さな彼女にとっては十分危険な存在だ。彼女は四枚の翅を広げたまま空を飛び、どうにかこの恐ろしい軟体動物を振り切ろうとする。

 飛翔原理は空間推進と呼ばれるもの。空間自体を掴んで干渉、その時生じた流動作用により身体を進ませる。つまり厳密には空を飛んでいる訳ではなく、液体に流れを生み出し、その流れに乗っているようなものだ。この方法はエネルギー効率に優れ、尚且つそこそこ速く、そして自由自在に飛べるという優れもの。彼女達の種のみならず、近縁なグループの殆どの種が採用している事からも、その優秀さが伝わるだろう。

 彼女はこの飛行能力を存分に活用。周囲に立ち並ぶ『巨木』のような生物の隙間を縫うように動き、機動性で撒こうとしていた。

 しかし軟体動物はその足にある爪と棘で巨木の表面を掴み、蹴る事で跳躍しながら彼女を追う。時には跳んだ先の枝を掴んで精密に軌道修正し、右に左にと動く彼女を追跡。引き離すどころかどんどん距離を詰めてくる。動きはしなやかで迷いがない。

 この生物にとって木々の間を跳び回る事なんて慣れたもの。絶対ではないが、木を掴み損なうようなミスは期待出来ないだろう。

 逃げる彼女の頭には、この状況を理解するような脳は詰まっていない。あるのは神経束と呼ばれる情報処理を担う細胞の集合体だけ。器官と呼べるほどの専門化もしていない肉の塊だ。しかもこれは頭ではなく身体の中心部を通っている。細胞機能は非常に単純で、エネルギーの流れを用いた『数式』がやり取りされるだけ。生物というより機械のそれであり、このため彼女には思考力と呼べるものは何一つ存在しない。

 だがこの神経束は演算力に優れており、数学的な情報処理には向いている。例えば彼女は今自身の背後に存在する『危険物』との距離を算出。時間経過毎の変化を記録し、このままでは追い付かれるという結果を出力している。そして追い付かれた際に受ける『被害』も数学的に計算し、『食べられる』という未来を予測する。

 食べられるという結果は、逃げ続ける事で消費するエネルギーよりも。だから逃げている。恐怖や不安で動いているのではない。尚且つ最良なのはこの危険物を振り切る事であり、彼女はこの状況を打開するための情報を二本の触角で集める。その情報収集により一つの、奇妙なデータを感知した。

 空間に『穴』が空いている。

 穴は直径二センチほどで、空間の歪みにより出来たものだった。また穴の中心から何か、光エネルギーのようなものが出ている。知性を持たない彼女に科学的な知識は備わっていないが、しかしこの程度のものは彼女の暮らす世界ではあり触れていて、どんな性質のものかは解析するのは容易い。接触時の安全性については問題ないと判断する。

 穴から出ている光は周りを漂う小さな生き物達に喰われていたが、空間に出来た穴そのものに入ろうとする生物はいない。この世界に暮らす生物の大部分は警戒心が強い。生物が多い=捕食者だらけのため、少しの油断が死に繋がるからだ。例え大した力は感じられずとも、怪しいものにはあまり近付かないのが無難。単細胞生物でも高度な情報処理能力は備えており、数学的に穴に入る事を『損』と認識しているため中に入らないよう動く。

 普段なら彼女も ― 危ないだのなんだのという意識は欠片も持たないが ― 空間に出来た怪しげな穴になど近付かない。しかし今の彼女はちょっとばかり危険な状況だ。このままただ逃げたところで、いずれ追い付かれ、食べられてしまうのは明白。

 知能を持たない彼女であるが、生き延びる可能性を計算した結果、怪しい穴に逃げ込んでみる方が『合理的』だと判断した。一度判断すれば、感情という高度な機能を持ち合わせていない彼女は躊躇わない。空間に空いた穴に最大速度で突っ込む。

 思惑は成功した。追ってきていた軟体動物は穴を警戒し、寸前のところで立ち止まったのだから。或いは危険を犯すほど空腹ではなかったのかも知れない。

 かくして単身穴に入った彼女であるが、全身で違和感を覚える。

 押し戻されている。

 空間の構造が、中を流れるエネルギーが、全て彼女を元々暮らしていた世界へと押し返そうとしてきた。元の世界に戻る事自体は、彼女にとって悪い展開ではない。今まで生きていた世界で、また生きるだけだ。されど天敵である軟体動物が穴の近くで待ち構えているだろう現状、大人しく押し返されるのは好ましくない。

 一旦前進する事にした。彼女は何も考えていないが、身体はそう行動する事を選んだ。

 流れに逆らおうとする彼女に、空間は牙を向いてくる。

 空間の捻じれを増大させ、前に進む力を後ろ向きの力へと『逆転』させてきたのだ。逆転とはつまり、前に進もうとすると後ろに下がるという事。力の作用する向きが逆転しているため、どれほど気合いや根性を出したところで退だけ。では後ろに進もうとすればどうなるかと言えば、それはそのまま後ろに下がる。歪んだ空間は、一方向にだけ進む事を許していると言えよう。

 前に進んでも、後ろに進んでも、後ろに下がらされる。

 この摩訶不思議な空間に、しかし彼女は慌てない。何故ならこの程度の不思議など、彼女の暮らしていた世界の生態系では珍しくもないのだから。後ろに進めるだけマシであり、何より原因がハッキリしているのならそれを正せば良い。

 まず、彼女は空間の捻じれをコントロールする。

 彼女は自らの身体に強力な『重力』を発生させた。重力とは空間の歪み。この場の空間と逆向きの歪みを発生させる事で修正を試みたのだ。例えるなら捻じれたコードを、素手で無理やり解すようなものである。

 勿論重力とは念じれば生じるものではない。生み出すためには質量が必要である。そして重力は自然界に存在する力――――基本相互作用と呼ばれる、全ての力の『根源』とも言える四つの力の中で最も弱い力だ。宇宙によって物理法則は異なるため多少の差異は生じるが、大抵の宇宙では同じく基本相互作用の一つである電磁気力(つまり光や電気)の方が十の三十八乗倍……即ち十の後ろに〇を三十八個付けた数だけ重力よりも強い。惑星一つ分の質量が生み出す力でさえ、人間が軽くジャンプすればその力から一時的に離脱出来るぐらい弱い、という方が実感しやすいかも知れない。

 空間を大きく歪めるには、光り輝く恒星程度の質量が必要だ。それでも裏側に隠れる星が見える程度が限界。此度彼女がいる空間の捻じれは、例えブラックホールであろうとも作り出せないほど滅茶苦茶に捻れていた。

 それを補正する重力を、どうやって彼女は生み出すつもりか? なんて事はない。

 使

 エネルギーと質量は等しい。核分裂や核融合で熱が生じるのは、原子が持つ質量の一部がエネルギーに変わった結果だ。逆に大きなエネルギーが一点に集まれば、それは質量が存在する事と同義である。彼女は自らの身体が持つエネルギーを体表面に纏う事で、巨大ブラックホールを遥かに上回る質量……重力を作り出したのだ。

 この程度の事は、彼女達にとっては驚くようなものではない。彼女達の細胞にあるエネルギーは宇宙と比べてもなお膨大であり、この技を使ったところで消耗すらもない。

 捻れた空間は強引に修正され、後ろ向きになっていた力の方向が正される。これで前に進めるとばかりに、彼女は前進を続けた。

 もしも此処が終わりなき穴なら、彼女はこのまま穴の中で暮らそうとしただろう。比喩でなく空っぽの頭に望郷の概念などなく、また新天地に根付く事への抵抗感もない。ただそこで生きられるかどうかが全てである。

 しかし穴には終わりが来ていた。何かが光り輝いている。どうやら彼女達の世界に伸びていた、光エネルギーのような何かを照射しているものが見えてきたらしい。

 光に導かれるように、彼女は穴の外へと向かい……ついに穴から飛び出した。

 穴の外は奇妙な空間だった。全方位をぐるりと金属に囲まれた、半径百メートルはある六角形の区画である。木、と呼べるものは一本も生えていない。大きな機械が二台並んでいて、どちらも稼働していた。彼女が通ってきた穴の周りにも機械(巨大な輪っかのようなもの)が存在し、それが穴を抉じ開け、中の空間を捻れさせていたらしい。区画内に生命体の姿はなく、全ての機械が自動で動いているようだった。

 ある程度の知能を持つ生命体ならこの『人工的』な景色に戸惑いを覚えただろう。自然豊かな場所から流れ着いたのなら尚更だ。だが彼女の頭の中に、戸惑いなどという高度な感情を生み出す神経回路は存在していない。そもそも機械や金属の部屋の意味を理解出来ないのだから。

 ただ、驚愕(に似たストレス反応)はしていた。その驚愕を知的生命体の言葉に訳すと、大凡以下の通り。


 ――――エネルギーが足りない!


 そう。この場に漂うエネルギーがあまりにも少ないが故に、彼女は驚き、戸惑っていた。

 数値的な話をすれば、彼女が迷い込んだ空間には莫大なエネルギーが満ちている。それこそ素粒子一つ分の範囲に、銀河を丸ごと消し飛ばすぐらいのエネルギーはあるだろう。

 このエネルギーの名は、真空のエネルギーという。

 真空のエネルギーを説明するには、まずその前提……空間の相転移について話さねばなるまい。

 相転移とは本来、個体が液体に変わったり、気体が液体になったりする状態変化を指す言葉である。この状態変化時にはエネルギーの動きが存在しており、例えば水は気化する際に周囲から熱を奪う。これは同じ温度でも気体の方が液体よりも多くのエネルギーを持っており、その『帳尻合わせ』を行った結果だ。逆に水が凍る時には発熱という形で、熱が外に放出される。状態変化に伴うエネルギーの出入りと思えば良い。

 宇宙でも相転移は起きる。ある状態からより安定的な状態へと変化する際、余分なエネルギーが空間へと放出されるのだ。放出されたエネルギーは物質や電磁波などに変化し、残ったエネルギーの量や密度が宇宙の物理法則を形作る。

 この残ったエネルギーこそが『真空のエネルギー』だ。何もない筈の空間に秘められたエネルギーであり、宇宙を形作る基盤とでも言うべきもの。このエネルギーが失われると宇宙の法則そのものが狂い、崩壊してしまう。例えば水が〇度で沸騰したり、重力が対象を吹き飛ばす力になったり、常温常圧で原子が核融合を起こしてしまうかも知れない。

 そんな真空のエネルギーが、この空間にはぎっちりと詰め込まれていた。彼女はこれをしっかりと感じ取り、その上で足りないと思っている。

 これには理由がある。彼女が暮らしていた世界の空間には、空気のように小さい『特殊生物』が満ちており、その生物が莫大なエネルギーを内包していた。全てという訳ではないが、多くの生物はこの特殊生物を呼吸の要領で吸い込み、そこからエネルギーと資源を取り込んでいる。彼女達の種も同じく特殊生物を吸い込んで膨大なエネルギーを常に得ていた。

 ところが空間に出来た穴を通ってきた彼女は、自分がいたのとは異なる世界に来てしまった。

 世界が異なれば、当然件の特殊生物も生息していない。特殊生物がいなくとも空間にエネルギーが満ちていれば代用は出来る。というのも彼女の身体は、熱や光など様々なエネルギーを『吸収』する性質を持っているからだ。真空のエネルギーであっても例外ではなく、この場には莫大な量が満ちていたが……こんなものでは特殊生物から得られていたものには遠く及ばない。故郷の世界にいた特殊生物一匹でも、遥かに豊富なエネルギーを秘めていたというのに。

 今の彼女は、例えるなら宇宙空間に放り出された人間のようなもの。空気呼吸の生物が真空空間に飛び出しては、息が出来なくて苦しむのは当然である。このままでは『窒息死』してしまう。

 思考など持たない彼女であるが、情報処理を行った神経束からの信号により身体は周囲の状況を把握。事態の打開に向けて、一つ、切り札を使う事にした。

 切り札の名は繁殖。

 彼女の身体は自らの内側にある『卵』の発育を始めた。卵と称したが、厳密には体細胞の一つであり、特別な卵細胞ではない。彼女達の種が行う通常の産卵は、無数にある体細胞を身体から分離してばら撒くというもの。たった一つの細胞で漂いながら、周りのエネルギーや物質を取り込んで発育していく。

 繁殖方法としては無性生殖、分裂や出芽のようなものだ。誰とも交尾を行わない。だが、それでも生まれてくる子孫は極めて多様な遺伝子を持っていた。

 これは彼女の種(厳密にはドメイン単位の分類群)が持つ特性である。彼女達は多細胞生物であるが、その肉体を構成する細胞の遺伝子は一つではない。突然変異などで遺伝子が変化した細胞はそのままになり、あまつさえ。つまり身体の中で有性生殖を積極的に行い、多種多様な遺伝子を生み出した状態で生きているのだ。そして普段の生活の中で、環境に適した遺伝子を持つ細胞はより多く増殖し、そうでない細胞は淘汰されていく。

 彼女の身体にも、元いた世界の環境に適応した様々な細胞が含まれていた。それらの細胞一つ一つが、独立した個体となって活動を始める。

 するとどうなるか? 様々な遺伝子を持った細胞の中には、比較的この環境に適した体質のものがいるだろう。それが生き延びて成長すれば、身体の中にはまた多様な遺伝子を持った細胞が生まれる。多様な細胞は新たな個体となり、その中でより環境に適したものが生き残る……

 それは自然淘汰であり、新たな環境へと適応する過程。

 彼女は元いた世界とは全く異なるこの世界で、『進化』して適応しようとしていたのだ。勿論事はそう簡単ではない。子の発育にはエネルギーと物質が必要である。この場には真空のエネルギーが満ちており、エネルギーを変換すれば質量は生み出せるが、彼女の代謝量からすれば微々たるもの。何処かからエネルギーを持ってこなければ次世代の子達は誕生前に餓死してしまう。

 そこで彼女は二つ目の切り札を使う。それは『量子ゆらぎ』を操る力だ。

 無から有は生まれない。ある程度発達した文明ならば多くが辿り着くこの知見は、厳密には正しくない。何故なら空間ではさながら沸騰するかのように、常に莫大な数の素粒子が無から生まれているからだ。

 この現象を量子ゆらぎと呼ぶ。量子ゆらぎによって生まれ出た粒子(仮想粒子と言う)は、同時に生まれた反粒子と即座に反応して消滅する。これが空間の至るところで起きているのだが、現象は知的生命体が観測するにはあまりにも瞬間的かつ微量だ。そもそも瞬時に消えてしまうのでなんらかの現象を引き起こす事もない。そのため生物や、学生が理科室で行う程度の実験で意識する必要はない。しかし量子力学など、素粒子や更にその構成要素などを観測する時には無視出来ない存在となる。感じ取る事は出来ずとも、確かに世界で起きている現象なのである。

 そしてどんな現象にも言える事だが、ごく低確率で普段と異なる結果を起こす事もある。

 例えば消えてしまう筈の仮想粒子がそのまま残る事も稀に有り得る。実例の一つが、宇宙に存在する物質だ。宇宙も無から物質が生じた事で生まれた存在だが、本来ならば物質粒子と同じ数だけ反粒子も生まれ、全て反応して消滅してしまう。にも拘らず宇宙に物質が溢れているのは、反粒子よりも粒子の方が多く生まれるという『偏り』があったからだ。宇宙によりどの程度偏ったかは差があるが、文明が存在する宇宙では反粒子よりも粒子の方が十億分の一だけ多いのが一般的。この僅かな差により残った粒子が、宇宙に存在するあらゆるエネルギーと物質を形作る。

 量子ゆらぎとは宇宙の誕生、世界の創生にも関与する現象。彼女達の種族はこれをある程度自在に操り、無からエネルギーを生み出すという『能力』を持っていた。能力といっても「ハエは三キロ先の死臭を嗅ぎ付ける能力がある」と同じ意味合いで、身体能力の一つというのが正しい。彼女のいた世界ではどの生物種も持っていた、解糖系(糖を分解してエネルギーを得る代謝過程の総称)のようなものだ。

 それになんでも出来る便利能力でもない。例えば量子ゆらぎから生じたエネルギーを細胞機能維持の代謝や成長に使おうとすると、その変換過程で大きなエネルギー消費がある。このため余程特殊な身体機能でない限り、基礎代謝を量子ゆらぎ操作だけで賄う事は不可能。何かしらの餌を食べねばならない。より大きな量子ゆらぎを起こすには相応のエネルギーを消費するなどの制約もある。

 それでもこの力を使えば、無から膨大なエネルギーを絞り出す事が可能となる。またあくまで非効率、それだけでは生きていけないというだけで、『餌』として全く利用出来ない訳ではない。

 彼女は無から生み出したエネルギーを体内にある次世代の細胞へと分け与えた。

 本来ならこんな事はせず、ただ一個の細胞を外に放り出すだけ。彼女達がいた世界は、それで次世代が育つほど『餌』に恵まれた環境だからだ。しかしこの世界でそれを行えば、細胞はたちまち飢えてしまう。餓死を防ぐには、自分の体内で育てるしかない。

 それを理解する知能なんて彼女にはないが、数学的演算によりこの結果を算出。本能的に、繁殖方法をのである。産卵や出産ではなく、体細胞分裂の延長のような繁殖方法だからこそ、このような適応が可能だった。

 次世代の細胞はエネルギーを吸収して成長。大きくなると分裂を開始していき、細胞数が一千を超えたところで形が変わる。肉塊のような集まりだったそれは、身体が出来、頭が形作られ、四枚の翅が生える。

 ついに次世代の細胞達は彼女と同じ外見の幼体へと成長――――した瞬間、ここまで育ててくれた彼女の身体を、蝕むように。食べるといっても彼女達には口がない。ではどうやるのかと言えば、全身の細胞同士の結合を少し緩めるのだ。するとイモムシ型をしていた身体が、どろどろとした液状化を起こす。並の生物ならここで生命活動が止まるが、臓器すらない原始的な身体である彼女達にとっては問題にならない。

 液状化した子供達は母である彼女の身体の至るところに浸透。植物が大地から栄養分を吸い取るかの如く、彼女の身体からエネルギーを強奪していく。更に身体が育つと液状化した細胞で周囲に浸透し、包み込んだ部分を飲み込むように取り込んでしまう。

 我が子に身体を喰われていく。

 知的生命ならばおぞましく思える育ち方は、しかし彼女はどうとも思わない。思うような思考力はない。子が大きくなるほど捕食される速さは増していき、瞬く間に彼女の身体は幼体達の餌食となった。最後の一欠片も残さず食われ、もう彼女の存在を示すものは、代わりに生まれた幼体達しかいない。

 母親を食い破り、生まれてきた子の数は五百以上。

 その膨大な子供達が次に狙ったのは、同時期に生まれた姉妹であった。ただし共食いはしない。同じ大きさの姉妹を喰おうとしても力は互角。簡単には勝てず、むしろ消耗したところを別の姉妹に襲われてしまう。

 ではどうするかと言えば、量子ゆらぎ操作や真空のエネルギーで食い繋ぎながらひたすら待つ。エネルギーの少ないこの世界では長期間生きるのは難しく、やがて他個体よりも代謝の激しい体質で生まれたものが餓死。その餓死した姉妹の身体を食べるのだ。死骸を食べてある程度育ったら、また誰かが餓死するのを待つ。誰かが餓死したらそれを食べ、また次の餓死者を待つ……これを延々と繰り返し、やがて誰かが成体となる。そして成体となった個体が次世代を生む。

 共食いだけでの世代交代。通常の生物ではこのような真似は決して出来ない。どんな生物も食べたもののエネルギーを百パーセント使う事は出来ず、いくらかの損失が出てしまうからだ。量子ゆらぎ操作という、無からエネルギーを生み出せる彼女達だからこそ可能な無茶である。

 だが共食いだけで世代交代が可能である事よりも注目すべきは、このライフサイクルがに完了する事だろう。

 プランク秒とは宇宙に流れる時間の中で、物理的な意味を持つ単位としては最小のものである。一プランク秒は約一・八五五×十のマイナス四十三乗……つまり〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一八五五秒。科学の世界では光速で動き回る光子の移動距離算出などで使われ、生物や機械関連では用いない。これは最小の時間単位であり、物理学上でもある。彼女達はこの時間の『隙間』で生きていた。

 その方法は身体に内包するエネルギー、そこから生み出される重力にある。重力の作用には空間を歪める以外にもう一つ、時間を歪める効果もある。この作用を極限まで高めた事で、彼女達は最小単位の時間よりも更に小さな単位で活動するための能力――――時間圧縮能力を会得した。

 プランク秒の中を動くというのは、単に誰よりも素早いというだけではない。物理学上の最小単位時間よりも短いという事は、即ちという事だ。何故なら感知するという事は、視覚細胞などに反応がある=物理学的な影響があるという事。それより短いのだから観測する事は出来ない……いや、観測する術がない。彼女達が何かを食い荒らしたところで、喰われたという『結果』が一プランク秒後に現れるだけだ。

 仮に、何かがいると気付いて攻撃し、その攻撃を彼女達に命中させたとしよう。だがプランク秒の狭間にいる彼女達には如何なる現象も生じない。何故なら変化とは時間が経過する事で生まれるのだ。例えば運動エネルギーは質量×速度の二乗から算出されるが、速度は移動距離を時間で割ったものである。プランク秒の合間というのは一プランク秒も経っていない。一プランク秒未満の時間は物理学上無意味であるため、〇・一プランク秒にはならずゼロとして計算せねばならない。つまり一プランク秒内で接触した際の運動エネルギーを求めるため、速度を算出しようとしても距離÷0となり計算不可能……よってプランク秒内での接触は一切エネルギーが生じない。

 しかし彼女達からの行動は違う。彼女達は確かにプランク秒よりも短い周期で生きているが、それは時間の流れを歪めて実現したもの。思考の速度や動きまで早回しになっている訳ではなく、彼女達自身は『普通』の時間を生きているように感じている。即ち彼女達の視点では、自分達以外の存在はただ静止しているだけ。静止しているから彼女達視点では運動エネルギーが発生していない。逆に彼女達は動いているので、なんの問題もなく運動エネルギーを与えられる。

 彼女達はプランク秒よりも遅い存在に対して、一方的に攻撃が行えるのだ。

 あらゆる攻撃が届かず、あらゆる防御が意味を為さない。正に無敵の性質である。実際この能力を持っていれば、彼女達はこの『世界』で無敵のままでいられただろう。しかしこの無敵は一つ、致命的な問題も有していた。

 消費エネルギーが膨大なのである。いくら重力が時間を歪めるといっても、恒星や惑星程度のものではちょっと時計を狂わせるのが精々。プランク秒未満まで体感時間を歪めるには常時膨大な、それこそ細胞一つ一つで宇宙全てを消費するようなエネルギーを使わなければならない。

 元いた世界ならば、それだけのエネルギー(を持った特殊生物)が満ちていた。だからこの力を持っていても困らず、誰もが使うのだから自分も使わなければ取り残されてしまう。だがこの世界にそこまでのエネルギーはない。量子ゆらぎ操作と真空のエネルギーで食い繋いでいたが、真空のエネルギーは吸えばなくなってしまう。世代を重ねるほど、彼女達の飢えは深刻になっていく。

 だから彼女達はその力を退化させた。

 あらゆる攻撃が通用しない? 全ての存在を一方的に食える? 同じ力を使う天敵もライバルもいないのだから、無敵の力そんなものは今、必要ではない。今、この瞬間、重要なのは、エネルギーが殆どないこの世界でも生きられる省エネで効率的な身体だ。何より彼女達の『種族』が求めるのは、最強や無敵なんかではない。

 求めるのは自らの遺伝子が栄える事。そのために新たな環境への適応が必要ならば、最強無敵の力を捨てねばならないのなら、彼女達はそれをなんの躊躇いもなく行う。

 行うといっても彼女達が辿る進化のメカニズムは一般的な生物と同じだ。様々な形質を持つ個体の中で、より環境に適したモノがより多くの子孫を残す。今回の例で言えば、強力な時間圧縮能力をエネルギー消費が使える激しい個体が真っ先に餓死して、弱い時間圧縮能力しかエネルギーをあまり使えない使わない個体がその死骸を食べて生き延びる。生き延びた個体は子孫を残し、その中でもより時間圧縮能力の弱い個体が子孫を残す。これを延々と繰り返す。最初の共食いが行われた時と、何も状況は変わっていない。

 彼女達が他の生物と違うのは、全てが猛烈な速さで進んでいる事だ。

 最初にこの世界を訪れた個体から数えて百世代目には、世代交代に費やす時間が一千プランク秒まで伸びていた。これは例えるなら長くとも五十歳で死んでいた古代人間がほんの百世代、高々数千年で六万年以上生きられる身体になったようなもの。厳密には寿命が延びたのではなく身体機能の衰えなのだが、変化があまりに急激なのは違いない。

 そして彼女達は数も増えてきた。

 この世界にたった一匹でやってきた彼女の末裔は、今や成体だけでも三百匹にまで増えている。時間圧縮を止めた事でエネルギー消費が減り、その分のエネルギーを質量に変換する余裕が生まれた結果だ。最初にやってきた一匹が持っていたエネルギーを三百等分以上出来るぐらい進化した、とも言えるだろう。

 ある程度エネルギー消費が落ち着いたところで、彼女達はこの場に置かれている機械類を食べ始めた。液状化させた身体を機械に浸透させ、元素を体内へと取り込んでいく。

 今まで食べなかったのは、金属が食べられないからではない。機械類に含まれているエネルギー程度では、消化や吸収で消費するエネルギーを賄えない……極端な低カロリー食材を食べた時のように、消耗の方が大きいから避けていたのである。しかし時間圧縮を止め、代謝が低くなった事で消費以上のエネルギーを得られるようになった。共食いなしでも成長し、更に個体数を増やす。この場にある機械を粗方食い荒らした頃には、その数は一万を超えるまでになった――――

 直後、彼女達の動きが止まる。

 ぴたりと止まっていた。一ミリと動く事もなく、全ての個体が静止している。動けない状況は彼女達にとって好ましいものではないが、その好ましくない状況を認識する個体は一体としていない。

 何故なら時が止まっていたから。

 彼女達は知らない。最小の時間を捨て去った彼女達は、ついに見付かった事を。この世界が数多の宇宙を束ねる『究極の文明』の支配下である事も、その文明が自分達を危険視したがために、時を止めて対処しようとしている事も知らない。

 それを知るような知性はない。そんな無駄なものは必要ない。『究極の生命』はただ、自らの内に潜む本能に従うのみ。

 自分の遺伝子を増やせ。

 このシンプルな衝動だけは、例え時が止まろうとも抑え込めないのだから……

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