第2話 新興宗教の支配する町

私が京都で雲水をしていた頃(30年前)奈良県天理市へ托鉢に連れて行かれました。在家出身の私は、心の中で「宗教の町へ異教徒である私たちが托鉢に行くとはなんと無謀な。京都から天理までの電車賃も得られないのではないか」と思いました。

ところが、駅前から天理教総本山までの商店街(約300メートル)を小一時間托鉢すれば、7人で数万円もの収入(もちろん、僧堂としての収入)でした。

私たちの寺は、毎日のように京都市内であちこち托鉢をしますが、創価学会信者の家の前では大声で罵声を浴びせられたり、塩をかけられたりしました。そんな私たち禅僧にとって(同じ新興宗教で、こうも違うものかと)驚いたものです。

一つの喜捨が100円でその総額が5万円とすれば、500軒のお店の方々がお金を恵んでくれたということでしょうか。まあ、一軒のお店で7人全員に100円ずつくれたところがあるかもしれませんが、200~300軒くらいのお店が、当時の天理商店街には並び、繁盛していたということです。

ところが、数年前この商店街を再訪してみると、

○ 9割のお店のシャッターが閉まっている。

  

○ この商店街は、ほぼ観光客(全国から来る参拝者)相手なのに、ゴミ箱もない。

  (鎌倉に住んでいた頃「ゴミ箱撤去宣言」が出された時、観光で成り立つ都市の鎌倉が「ゴミは観光客が持ち帰れ」という市の身勝手さに、狂気すら感じたものでしたが。)

○ 感覚的には「300メートルに10軒程度のお店しかない商店街」になっているのを見て、愕然としました。

○ アーケードの作りも30年前と同じなのか、朽ちて・くすんで(さえない色を呈する)いる。

○ 自転車で市内を走ると、あちこちの道路がでこぼこだらけ。住宅街の双方向の車道にぽっかりあいた幅30センチ、深さ15センチくらいの穴ぼこが、1年経っても同じ状態。

  ここ10数年間、台湾で生活してきた私には大きな驚きでした。

聞くところによると、天理教という宗教団体は、毎年天理市に10数億円ものお金を寄付しているそうですが、一体何に使われているのだろうか、という素朴な疑問が誰でも浮かぶはずです。

しかし、マクロの目で見れば、いまや日本全国が「新興宗教都市・天理市」化しているのではないでしょうか。税金は他の国に比べてとびきり高い(国民一人あたりの収入の5割が税金で盗られているそう)にもかかわらず、街はさびれる一方、基本的人権(ゴミ・トイレ・人が歩く道の整備)は台湾以下、という。

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