day20.摩天楼


 強い風に顔を叩かれて、意識を取り戻した。

 扇風機をつけっぱなしで寝てしまったかな、と体勢を変えるためもぞもぞ体を捩ると、肩をぎゅっと抱き寄せられた。

「危ないよ」

 耳元であまり聞き覚えのない声がする。うっすらと目を開くと、暗い中、自動車のヘッドライトが遙か下方で流れるのを背景に、何も履いていない自らの足がだらりと空中に浮いている光景が目に飛び込んできた。

「ひっ」

 反射的に膝を持ち上げ身を引くと、ガシャ、と背に金網が当たる。「だから危ないって」と、肩を掴む手に力が込められた。怖々と隣に目を遣ると、性別の分かりづらい美しい顔。先日、ベランダに現れた天使らしき、羽のあるひとだ。彼(彼女?)はカナメと視線がぶつかると、にっこり微笑んだ。

 ……一度深呼吸をして、周囲の状況を確かめる。カナメが座らされているのは、どこかのビルの屋上の端も端、安全のため設置された金網の外側の、大人が蟹歩きでようやく歩けるかどうかというスペースである。

 四方は見慣れないビルに囲まれており、現在地の見当が付かない。おそらく、駅一つ先のオフィスビルが集まった地区だとは思うのだが、何分こんな摩天楼めいた地区に縁がなかったせいで断定はできない。

 なぜこんなことになったのか、全く思い出せない。

 今日は大学からまっすぐ帰って、実家から送られてきた野菜をお裾分けするために仕分けていたはずだ。その過程で、トマトが毒になる動物もいるとどこかで読んだことを思い出して、タコは大丈夫かどうか調べることにしたはず。それで「タコ トマト」で検索したら、カルパッチョやマリネのレシピばかりで辟易したところまでは覚えている。

 どういうわけか、そこから今までの記憶がすっぽりと抜け落ちている。ベランダから激しい物音がして、様子を見に行ったような気もするが確かではない。

 うんうん悩むカナメを余所に、羽のある人はまるで仲のいい恋人同士でもあるかのように体を預けてくる。

「ごめん、邪魔が入ったからちょっとここで休憩」

 屈託のない笑みを向けられても、困惑と疑問しか湧いてこない。どうして、とか何を、とか言いたいことや聞きたいことは沢山あったが、まだ事態を把握できず、混乱のせいで上手く言葉にならない。

「あ、あの。私、どうして……」

「うん、心配しなくても大丈夫。これからずっといっしょだからね」

 どうにか捻り出した言葉を遮られ、見当外れの言葉が返ってくる。先ほどからずっと変わらない、作り物めいた綺麗な笑顔に、ヤバいことになったかも、と本能が警鐘を上げ始める。

 これまで出会ってきた人でないものたちが、ちゃんと話が通じたり、何なら共感できるようなところもあったから油断していた。今まで運が良かっただけで、言葉は通じても話が通じないような、何をするか、何をされるか分からないような人外の方がきっと多数派なのだろう。

 これから一体どうすれば。とにかく、隙を見て離れるべきなのだろうが、現状では場所が悪すぎる。ひとまず、大人しくついて行って油断した瞬間を見計らうべきか。 

「さて、そろそろ行こうか」

 天使は何かに気づいたかのように目を細めた後、立ち上がって折りたたんでいた翼を広げた。行く、とは、どうやって?

「ほら、立って」

「無理むりムリ!」

 高いところは苦手ではなかったが、こんな足場があるかないかの場所では、恐ろしくて立ち上がれる気がしなかった。それに、目覚めたとき下を見てしまったせいで、とっくに腰を抜かしている。

「えぇ?」

 彼は、困った、というよりは不可解そうな表情を浮かべた。どうせ、羽の生えた生き物にはこの恐怖は分かるまい、そっぽを向こうとしたとき、鋭く風を裂く音が鳴り渡った。

 カナメの頭上で唸りを上げて飛来したそれは、黒い矢のように天使の頭に突き刺さった――と見えたが、実際には眼前で右手を以て受け止められていた。

 矢に見えたのは、真っ直ぐな細い脚だった。その持ち主は、宵闇のような艶やかな黒い翼を持つ少年だった。彼は翼と同色の丈が長いジャケットを翻しながら、器用に掴まれたのと逆の脚を人形のような顔面に叩き込もうとする。

 天使は掴んだ脚を振り払って少年の姿勢を崩し、後方に跳んで間合いを取る。黒い影は、その動きも想定内とばかりにくるりと空中で体勢を整え、天使とカナメの間に降り立つ。

「この娘は返してもらうぞ」

 見た目に反して、大人の男性のような低くしっかりした声である。そして、どこかで聞いた覚えがあるような気がした。

「どうして僕の邪魔をするの? 君もこの子が好き?」

「馬鹿言うな。ただ、恩義がある家の娘だからだ」

 恩義がある家? 急に、時代劇か任侠映画のような話になってきた。我が家では誰もその筋の知り合いはおらず、祖父の話だと江戸時代から先祖代々ただの農民のはずなのだが。

「彼女の方から求めてきたのに?」

「……お前、何か勘違いしてないか?」

 少年が様子を伺うように視線を寄越したので、全力で首を縦に振る。どこでどう行き違ったが今も分からないが、勘違いさせるようなことをしたなら申し訳ないと思う。だとしても、こんな誘拐のような真似は勘弁して欲しい。

 カナメの肯定を受けて、少年はふん、と鼻を鳴らす。

「お前は本来のテリトリーから離れすぎた。今、俺の仲間たちがここを囲んでいる」

「ふん、ヒトに擦り寄って生きる小物のくせに。君たちが束になってかかったら、僕に勝てるとでも?」

「やってみるか?」

 冷たく張り詰めた空気がふたりの間に満ちる。ぶつかりあって火花が散りそうな視線を、先に逸らしたのは天使の方だった。

「確かに、今日は分が悪いみたい。今回は諦めてあげる」

 斑の翼を羽撃かせ、天使のような彼は摩天楼の夜へ消えていった。その姿を見送った少年は、重さを感じさせない動作でカナメに向き直り、眦をつり上げた。

「まったく。野生の生き物に食い物をやるなと学校で習わなかったか? そんなことをするから、面倒事に巻き込まれるんだ」

「ご、ごめんなさい……?」

 やはり、トマトを食べさせようとしたのが良くなかったのだろうか。結局、受け取ってもらえなかったのだけど。よく分からないが、彼らには彼らの事情が色々とあるのだろう。

「ああ、そうだ。敏郎が気にしていたぞ。どう考えても、世津子がトマトを送りすぎた、と。止められなかった自分も悪いし、無理して全部食べきることはないらしいからな」

 こまめに連絡してやれよ、と言うだけ言って、少年は闇に溶けるように飛び去っていった。――敏郎、世津子は祖父母の名前である。少し前にも同じようなことを言われたような、と記憶を辿るうちに、先週道に迷ったときに助けてくれた燕の姿と、あの少年の姿が重なった。

 芋づる式に毎年、実家の軒先に巣を作りに来る燕のことを思い出した。祖父が殊更可愛がっており、よく農作業の合間に彼らに語りかけていたものだ。

 まさか、と思うべきなのだろうが、ここで起こったことを振り返ると、そんなこともあるかな、と不思議に納得してしまう。

 それに少年の正体より、どうやってここから家に帰るかの方が、目下よっぽど重大な問題である。

 摩天楼の灯りが、カナメを冷ややかに見下ろしていた。


「もしもし、じいちゃん? 私、カナメ」

 昨日、どうやって無事に家まで帰り着いたのかよく覚えていない。気がついたらマンションの自室まで辿り着いていて、そのままシャワーも浴びず倒れ込むように眠ってしまった。あまりに必死になると記憶って飛ぶんだな、と新しい発見とともに目覚めてすぐ、スマホを手に取り実家に掛けた。

「いや別に、ただ、元気かなって」

 もともと口数の多い人ではないし、カナメ自身も電話が苦手な質なのですぐに会話が行き詰まる。仕方ないので、前置きはそこそこに本題を切り出す。

「まだ軒下の巣に燕っている? あ、いるんだ。そしたら、ミルワームか何か買ってきてあげてくれない? それか穀物とか食べるんだっけ? だったら米とかでもいいんだけど」

 突然の頼みは、野鳥に餌付けなんかするな、と一喝と共に却下された。どこかで聞いたような台詞に、自然と笑みが漏れる。電話の向こうにも届いたようで、祖父が怪訝そうにしている。

「なんでもない。ばあちゃんにも、トマトありがとうって伝えて」

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