day14.さやかな

 かき氷が食べたい。

 大学からの帰り道。じめじめとした暑い空気に耐えかねて、唐突に冷たいものへの欲求が沸き上がってきた。

 この調子だと、今夜も熱帯夜だろう。かき氷でなくても、何か涼を感じるものが欲しい。コンビニで氷系のアイスでも買って帰ろうか、と汗を拭いながら歩いていると、向こうから天秤棒を担いだ男がやってくるのに気づいた。

 法被姿で笠を頭に乗せ、まるで浮世絵から抜け出してきたかのような金魚売りだ。天秤棒の前後には蓋がされた盥が下がっており、その上にいくつか金魚鉢が載っている。

 珍しく思って眺めていると、すれ違う瞬間、金魚売りが足を止めた。

「お嬢さん、金魚はいらんかね」

 笠を深く被っているので顔はよく見えないが、声からするとまだ若そうだ。なんとなく、今でもこういった仕事をしているのは年配の人のイメージだったので、少し意外だった。

「……おいくらですか」

 確か魚は大丈夫だったはず、とマンションの規約を脳内でおさらいしながら一応値段を確認してみる。特段、金魚を飼いたかったわけではないが、今時なかなか見かけない金魚売りから金魚を買う、珍しい体験がしたいだけである。もちろん生き物を飼うからには、最後まで面倒を見るつもりだ。

 金魚売りが提示したのは、高級アイスクリーム一個分の値段だった。やっぱり今後餌代も掛かってくるし、だったらアイスを買った方が、と逡巡していると水だけが入った金魚鉢をカナメの目の前に掲げた。

「お嬢さん。この金魚のいいところはな、餌がいらないところでさぁ。月のさやかな晩、窓辺に置いとけば勝手に月光を喰って生きてるって寸法よ」

 おっと日中は窓の近くに置いちゃダメだぜ、収斂火災が起きちまうからな、と至極真っ当な注意事項が続いたが、月光を食べる、とはどういうことだろう。それに、金魚売りが持っている鉢の中に魚の影は見当たらない。

「そりゃこいつら、日中には姿が見えないのは難点だけどよ。その代わり月夜には一等綺麗な姿が拝めるんだ。なかなか余所じゃ買えないぜ」

 日中は姿が見えない? ということは、この金魚鉢の中にもう金魚がいるのだろうか。じっと目を凝らしても、ただ水が入っているようにしか見えない。

「……」

 今月自由に使える残りの金額を頭の中で計算して、財布を取り出す。丁度の小銭で支払えば、男は「毎度ありィ」と弾んだ声で金魚鉢を手渡してくれる。

 意気揚々と去って行く金魚売りを見送りながら、また変なモノ買っちゃった、と少しだけ後ろめたい気持ちになる。子どもの頃、夏祭りの出店で光るヨーヨーみたいなおもちゃを買って、姉にからかわれたのを思い出す。あのおもちゃは二日で飽きて、以後どこに行ったのか分からない。

 まあ、飽きたら水を捨てて小物入れにして使えばいいし、と自分に言い聞かせながら、金魚売りの説明通り、夜ごと窓辺に金魚鉢を置いて数日。水中に変わったことはなかった。

 結局、また変な商品を掴まされただけか。半ば諦めの境地で今夜も折りたたみのテーブルを窓に寄せ、その上に金魚鉢を設置する。

 ここ何日か曇り空が続いていたが、しばらくぶりに月が出ている。しかも満月だ。電灯を消してカーテンを開けると、澄んだ明るい月光が部屋中に満ちる。こういうのを月のさやかな晩、と呼ぶのだろう。

 床に、ガラスの丸く透明な影が映し出される。涼しげでいいな、としばらく眺めていると、鉢の影の中を青いものがひらひらと動き出した。

 やがて青い影は魚の形を取り、床に映った金魚鉢の中を優雅に泳ぎだした。影に色がついているのも不思議だが、テーブル上の現実の鉢には何も変化がなく、ただ水が入っているようにしか見えないことの方が一層不思議に思えた。

 ガラスの表面に触れてみる。指先にひんやりとした硬い感触が伝わって、きっとこの青い魚も冷たいのだろう、などと考えている間、暑さを忘れていた。なるほどこれは、高級アイスを買うより良かったかもしれない。

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