day13.定規
今日初めて知ったのだが、このマンション一階のエレベーター、ボタンのパネルの下に目を凝らさないと分からないような、カードを差し込む用のスリットがあった。
ちょうど金属のパネルとグレーがかったタイルの境目辺りにあって、普通の住人には気づかれないようにカモフラージュされているのだろう。カナメも彼女から聞くまで、全く気づかずにいた。
ボタンを押して、借りたカードキーを差し込む。到着を待つ間、薄っぺらなカードキーを観察する。カードキーの長辺には、なぜか定規のような目盛りが描かれていた。しばらくするとエレベーターが降りてきて、扉が開く。少し逡巡して、足を踏み出す。
カナメ一人を乗せて、扉は音も立てずに閉まった。四階のボタンを押せば、少しの浮遊感と共に問題なくかごは上昇する。立方体の内部をきょろきょろと観察してみるが、特に異常はなさそうだ。
階数の表示を眺めていたら、昔流行ったエレベーターを操作して異世界に行く方法、というのを思い出した。当時は馬鹿らしいと相手にしなかったものだが、今自分がやっていることも大差ないと気づき、無意識のうちに笑みが漏れる。
やがて四階に止まる。扉が開いた先には、カナメの部屋があるはずの四階とは全く違った光景が広がっていた。
まず、部屋数が極端に少ない。変に間隔が空いて二部屋分のドアがあるだけで、それ以外はのっぺりとしたタイルの壁が続いている。また外を見てみると、夏の十八時なのに真っ暗になっており、このマンション以外の建物が全く見えない。
外が真っ暗なのは怖かったが、このカードキーがある限り無事に帰れるはず、と廊下を歩き出す。
手前側のドアの表札に四〇九と書かれているのを、横目で通り過ぎながら確認する。このマンションに、本来無いはずの四〇九号室。
そして奥側の部屋、四〇四号室の前で立ち止まった。ドアチャイムを押そうとして、そこで指が止まる。ほとんど面白半分、好奇心でここまで来てしまったから、その勢いで人を訪ねるのは失礼ではないか、と今更心配になったのである。
もう一度会いたいと思ったけれど、今日はやめておこう。踵を返そうとした時、がちゃ、と音を立ててドアが開いた。
「あ」
「あ」
四〇四号室から出てきたのは、引っ越してきた初日に出会った紅林透子だった。
「ごめんね、私のせいで変な目で見られたりしたよね」
玄関先でばったり出会って、お互いちょっとしたパニックになったりもしたがとりあえず騒ぐだけ騒いで落ち着いたので、今は透子の部屋に上げてもらっている。
「いえ、私もうかつというか、よく考えないで話したりしたので……」
透子が持って来てくれた麦茶を一口飲む。いかにも冷凍庫で作られたらしい氷が唇に当たり、こちら側でも普通に家電は使えるのだな、などとピントのずれた感想を抱く。
「それにしても、よく気がついたね。このマンションの仕組みのこと」
カナメの住んでいるマンションには、縁起が悪いから末尾が四と九の部屋がない。ということになっているが、実際それは正しくなかった。特別なカードキーを使うことによって、一般的な人間が住んでいる側とは逆の、○○四号室、○○九号室しかない、言わば裏側のマンションに行くことができるのだ。
「私だけだったら多分一生気づかなかったんですけど、知り合いがこちら側に住むことになったということで教えてくれたんです」
「へえ、カナメちゃんに人外の知り合いがいるとはねぇ」
人は見た目によらないものだ、と続いた言葉をそっくりそのまま返したくなった。キーを貸してくれたタコもそうだが、この裏側の世界は何か事情を抱えた人間以外のものたちを受け入れるための場所なのだそうだ。
にわかには信じがたい話だが、最近身の回りで色んなことが起こりすぎたせいですんなり信じてしまった。この件は事実だったが、その内スピリチュアル系の詐欺に引っかかってしまいそうで怖い。
「そういえば、このカードキーの定規みたいな模様ってどういう意味があるんでしょう」
「んー、なんかここを作った人の趣味でデザインしたんだって。杓子定規な世界で生きづらいものたちの定規になるようにって」
それは趣味のひとことで片付けていい話ではないような。簡単に借りてしまったが、思ったより重いものがこのカードには詰まっていたようだ。
ここを作った人、というのも気になるが、それよりもっと気になることがある。訊いていいものか一瞬迷ったが、意を決して口を開く。
「ちなみに、透子さんって……」
勢い込んだはいいが、どう尋ねるのが正解か分からず語尾が消え入る。戸惑うカナメをからかうように、透子はウィンクする。
「ないしょ」
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