day4.アクアリウム

 この街に越してきて初めての休日、カナメは海辺の水族館に来ていた。

 ユカとチヒロも誘ったのだが、都合が合わず一人になってしまった。こういう時、単独行動が苦にならない性分で良かったと思う。

 生まれてこの方、山に囲まれた田舎で暮らしてきたせいか、海を見ると無条件にテンションが上がる。さらに水族館なんて非日常のかたまりなので、子どもの頃から大好きだった。

 ちょっと変なこともあったけれど、こうしてバスで三十分ちょっとで水族館まで来られるのだから、この街に越してきて良かったと思う。

 受付で入場券を買い、いざ館内へ足を踏み入れる。平成の初期に建てられた本館は少し古びてはいるが掃除が行き届いていて、きちんと整備されている感じがして気持ちいい。

 大きな水槽の中を、色とりどりの魚が泳ぐ。高校の頃、生物のテストが散々だったカナメは綺麗だな、と眺めるしかできないが、生き物の生態に詳しい人と一緒に来たらまた違う楽しみがあるだろうな、などと想像してみる。

 順路に沿って様々な海の生き物を眺めながら建物を抜け、屋外の海獣エリアへ出る。プール際で押し合いをしているペンギンを冷やかしていると、背の高い人物、おそらく男性がざっざっと音を立ててこちらに向かってくる。そして、最終的にカナメの横に立ち止まった。

「あー、そこのお前」

 横柄な口調で話しかけられ、おそるおそる隣の人物を見上げてぎょっとする。立っているのが、いや生きているのが不思議なくらい、顔が青ざめているのだ。しかもなぜか三国志の映画に出てくるような、古い中華風の装束を身につけている。もうどこから驚いたらいいのか分からない。

「私、ですか?」

「他に誰がいる。お前、この辺りで人語を喋るタコを見かけなかったか」

「……喋るタコ?」

 怖いくらいの威圧感を覚える無表情と、ファンタジックな言動の乖離が凄まじ過ぎて、一瞬何を言われたか理解できなかった。

 タコとはあの八本足の、食べると美味しいタコのことだろうか。喋るかどうかはともかく、この水族館に来てからまだタコを見ていないのでとりあえず首を横に振る。

「本当だな?」

 そこまで念を押される理由が分からなかったが、間違いないので今度は首を縦に振る。

「そうか」

 確かに気配がしたのだがな、とぶつぶつ呟きながら、中華服の男は礼も謝罪もなく元来た方へ戻っていく。

 突風のような出来事に、カナメは数秒ぽかん、としたままその場に立ち尽くした。

 一体何が起こったのだろう? もしかして、この水族館で行われているアトラクションだったのだろうか。最近は参加型のイベントが流行っているらしいし。それにしてはちょっと怖かったけれども。

 もう少し楽しいアトラクションにすればいいのに、とぼやいたところで、この件は一度きっぱり忘れて水族館巡りを再開することにした。こんなことでしょげていたら入園料がもったいない。


 その後は何事も起こらず、ゆっくりと水族館内を一周して充実した一日を過ごすことができた。

 帰りのバスも、夕方で利用者が多いはずという予想に反して空いており、一人掛けの席に座れたので変な男に絡まれた以外は本当にいい一日だった。

 リラックスしたら、急に膝に乗せたリュックサックが重くなった気がした。今日は買い物もしなかったので、特別荷物が増えてはいないのだが。

 両手で肩紐を掴み、少し持ち上げてみる。やっぱ朝出掛けた時より、明らかに重量が増しているように思える。

 最後に中を確認したはいつだったろうか。こんな時に思い出したくなかったのだが、盗んだ品物を他人の鞄に隠して後に回収する、という犯罪の手口を報道したニュースが脳内にハッキリと蘇る。

 もしそうだったらどうしよう、震える手で恐る恐るファスナーを開ける。そぉっと布地を持ち上げると、暗闇の中で一対の瞳がきらりと光を反射した。

「あ、どうもこんにちは。お邪魔してます」

 紛れもなく、タコがそこにいて、喋った。八本の足と吸盤を使って器用にリュックから這い出し、ぺこ、と頭を下げるような仕草をする。

 夕暮れ時のバスの中、カナメの声にならない叫びが響いた。

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