day2.喫茶店

「よかった、本当にある……」

 マンションから歩いて五分、閑静な住宅街の中にひっそりと看板を出す、いわゆる隠れ家喫茶の前にカナメは立っていた。

 先日、ベランダで出会った透子と名乗る正体不明の女性。彼女がおすすめの店として教えてくれたのがこの喫茶店である。

 引っ越してきたばかりのカナメはこの店を知らなかった。それが、彼女の説明した道順通りに来て実際この喫茶店があったのだから、透子がカナメ自らが生み出した幻ではないことが証明された。

 彼女の正体が何であれ、自分の頭がおかしくなったのではないと分かり、ほっと胸をなで下ろす。廊下で四〇三の住人と出会う度、ヤバいものでも見たかのようにさっと目を逸らされることに、地味にちくちくとダメージを受けていた。

 隣人への対応をどうするかは一旦忘れて、安心して喉も渇いたし、せっかくなのでお茶してから帰ろう。

「いらっしゃいませ」

 店内はいかにも昔ながらの喫茶店といった雰囲気である。カウンターの中には上品な雰囲気の老年に差し掛かった男性がおり、食器を磨いている。漫画や映画でしか見たことがない、理想的なマスターだ。

 お好きな席へ、と店内に促され、迷わず窓際の席に腰掛ける。大人っぽく珈琲でも飲むことができれば良いのだが、まだあの黒い液体の良さが分からないので紅茶を注文する。ダージリンやらニルギリやら産地らしい名前がたくさん並んでいたが、よく分からないのでおまかせで頼んでしまった。

 カナメが文庫本を取り出して紅茶を待っていると、からんからん、とドアベルの音がしてふたり組が入店してきた。

 ひとりは背の高いすらっとした男性で、青みがかった紫の着物の上に黒い羽織を、外の暑さにも関わらず涼しげに着こなしている。もうひとり、こちらは女性だが対照的に、フリルとレースがふんだんに使われた、最早ドレスと言ってもいいような黒のワンピースを纏っている。角度によって青い光沢を帯びる不思議な生地で、ファストファッションしか着ないカナメはそれを見て、あの服代でハードカバーの海外ミステリが何冊買えるだろう、などと不毛なことを考えていた。

 彼らは慣れた様子で店内奥の席に着き、珈琲ふたつ、とカウンターのマスターに声をかける。

 時折表を車が通る以外、雑音はほとんどない。マスターがお湯を湧かしたりカップを用意したりする音は、無駄のない上品な動作故に控えめである。

 そんな静かな喫茶店だから、どうしてももう一組の客が真剣に話し込んでいる内容が聞こえてしまうのである。

「煉瓦の家……」

 和服の男性がぼそりと呟く。煉瓦の家とは、ここから歩いて三十分以上は掛かる街外れ――ちょうど街と田園地帯の狭間にある廃屋のことだ。鬱蒼とした雑木林に囲まれ、長い間放置されているせいか心霊スポットとして噂されているらしい。そうでなくともアブない人たちが出入りしてるみたいだから近寄らない方がいい、とこの街出身である大学の友人が教えてくれた。

 実は心霊スポット巡りでもしてる動画配信者だったりして、とカナメは小説を読むフリをしながら聞き耳を立てる。

「あの場所はもう駄目だ」

 本来は聞き取りづらいであろうぼそぼそとした低い声が、静けさのせいではっきりとカナメの耳に届く。不可抗力、不可抗力、と内心で繰り返しながら盗み聞きを続ける。

「そう……。なら、早く次の場所を探さないと」

 ワンピースの女性にきっぱりとそう言われると、男性は渋い顔をしてグラスの水に口を付ける。

「……ああ、そうだな。他の奴らに目を付けられる前に」

「あらあなた、かなり腕っ節が強いらしいじゃない。そんな奴らなんて問題にならないんじゃなくて?」

 なんだか物騒な話になってきた。友人の言っていたアブない人たち、の一言が頭の中を何度も往復する。

「だからといって、荒事が好きな訳じゃない。それに、あれほど条件の揃った場所、このご時世に他で見つかるかどうか」

「もし、見つけられなかったら?」

「…………」

 重い沈黙が続く。なんだか聞いてはいけないものを聞いてしまった気がして、背中を変な汗が伝う。

「お待たせいたしました」

 マスターが紅茶を持ってきてくれたのに気づかず、驚いて飛び上がるところだった。ふたり組はちら、と初めてカナメに気づいたかのようにこちらを見る。

「アッサムでございます」

「あ、ありがとうございます」

 何気ない風を装って文庫を鞄に仕舞い、全くあなたたちの話なんて聞いてませんよ、という顔で紅茶を啜る。セットでついてきたクッキーに手を付けた頃、ようやく視線が外れた気配がした。

「次の場所が見つからなかったら、それで仕舞いだな」

「そうね、私もひとのことを言ってられないわ。いつ、ここにいられなくなるか……」

 押し黙るふたりに、マスターが珈琲を届ける。彼らは深刻な雰囲気のまま、無言で珈琲に口を付ける。

 これ以上は聞いてはいけない。聞きたくない。カナメは軽い気持ちで盗み聞きをしたことを後悔し、残ったクッキーを紅茶で流し込み早々と店を出た。あまり、紅茶の味はよく分からなかった。


「そういえばこの前話した煉瓦の家なんだけどさ、取り壊されて周りの雑木林ごと更地になるんだって。夏休みにみんなで肝試ししようと思ってたのになー」

 大学の食堂。いつものように友人三人組でお昼をしていると、ユカが唐突に数日前の話を蒸し返した。チヒロが「ユカはいつも話がとぶねぇ」とくすくす笑う。

 カナメはというと、あのひと達が話していたのはこのことか、と納得しつつふうん、と気のない相槌を返した。結局彼らは何者で、煉瓦の家で何をしていた、もしくはするつもりだったのだろう。思い返してみてもさっぱり分からない。

「って、アブない人たちがいるから近寄っちゃダメって言ってたじゃん」

「そうなんだけどさぁ。やっぱ心霊オタクとしては気になるっしょ」

 あまりの脳天気な発言に、カナメは椅子からずり落ちそうになる。そんな二人をよそに、チヒロは思案顔でパスタを巻くフォークを止めた。

「アブない人ねぇ。子どものころ、あの家の周りの林に虫取りに行ったけど、そんな人たち見なかったよ」

「おっ、ちーちゃん行ったことあるの?」

「あそこの雑木林さ、かなり昔からあるからなのか、他の理由があるのか知らないけど、割と珍しい昆虫がいたんだよね。この辺じゃあんま見かけないクワガタとか、あと綺麗な紫の蝶々とか。今でもいるのかな」

 ふいに、近頃は昔ほど昆虫を見なくなった、と零していた祖父の渋い顔が脳裏に浮かぶ。おそらく農薬や森林伐採のせいだろう、と。カナメの住んでいた田舎ですらそうなのだから、この辺はもっと少なくなっていそうだ。

 ふと窓の外を見ると、青い光沢を持った黒い蝶がひらひらと飛んでいった。

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