July fairy tales

白瀬るか

day1.夕涼み

 今日から一人暮らしが始まる。

 大学に入学して早三ヶ月、家の事情等で遅れに遅れたが、ようやく念願の一人暮らしだ。別に実家が嫌いなワケではないが、一日に数本しかないバスで、二時間近くかけて大学まで通学するのはもうこりごりである。

 創立記念日で休みの今日中に片付け終わるのが理想だったけど、どうにもやっぱりひとりでは無理だったようだ。素直に姉や友人に手伝ってもらえばよかったと反省しつつ、とりあえず寝る場所は確保できたので続きは明日に持ち越すことに決めた。

 その辺に置きっぱなしになっていた、全く冷えていないサイダーのペットボトルを手にベランダへ出る。

 日中は茹だるように暑かったが、十八時を過ぎた今は涼しげな風が吹いている。眼下に広がる、建物がひしめき合う街の夕暮れは、見渡す限り田んぼと山しかなかった実家で見るものとは全く違って、今さら「私って大学生してる」という実感が湧いてきた。

 近くの中学校から下校する学生たちを眺めながらサイダーを口に運んでいると、左隣から硝子戸を開ける音がした。

「あれっ。どうもこんばんわ~。えっと、新しく越してきた人?」

 部屋着らしいパーカーと短パン姿の女性が、缶ビール片手にふらふらっと手摺に寄りかかる。彼女はカナメを見つけると気さくに声を掛けてきた。

「こんばんは、四〇五に越してきた深澤カナメです。すみません、ご挨拶がまだで」

「いいよぉ、今どき引っ越しの挨拶なんて、私だってしなかったし。防犯上良くないってさえ言われてるんだから。まあそれはともかく、四〇四の紅林透子です~。よろしくね」

 こちらこそ、と笑顔で返す。ビールを呷っているので二つ以上は年上だろうが、隣人がそれ程年の離れていない同性で、しかも明るくていい人そうなのが嬉しくて必要以上にニコニコしてしまう。

 彼女はここに住んで長いらしく、近所の美味しいお店などについて教えてもらったり、カナメの大学生活の愚痴を聞いてもっらたりしている内に辺りが真っ暗になったのでおやすみを言い合ってお互いの部屋に戻った。


 翌朝、大学へ行こうと玄関のドアを開けると、隣のドアもがちゃ、と音を立てて開いた。

「あ、透子さん。おはようございます」

「は?」

 透子の人懐こい笑みを期待して、隣室の前を挨拶しながら通りかかろうしたが、そこにいたのは初めて見る男性だった。だぼっとしたTシャツにテーパードパンツというラフな服装にリュック姿で、透子と同じ年頃ということから考えても九十九パーセント学生だろう。そんなことは一言も言ってなかったが、泊まりに来ていた彼氏だろうか。

「すみません、昨日透子さんには挨拶させていただいたんですが、隣に越してきた深澤です」

「はあ、それはいいけど、透子サンって誰?」

「えっ」

 カナメがしどろもどろに昨日ベランダで会った女性のことを説明すると、男性の表情がどんどん気味が悪いものを目にしたような顔つきに変わっていく。

「そんな人いないし。そもそも、ウチ四〇四じゃなくて四〇三だから」

 男性はそそくさと、通路を逃げるように去っていった。

 そういえば、少し古いマンションだからか大家が縁起を担ぐ人だからか、この部屋には末尾が四と九の部屋がない、と不動産屋が言っていたのをすっかり忘れていた。隣の部屋番号を見ると、確かに金属のプレートに「403」と刻まれていた。

 ふらふらとその前を過ぎ去りながら、○○四はダメなのに四階があるのはいいんだ、とツッコミたくなったのをついでに思い出したのは一種の現実逃避だろう。

 入居二日目。この部屋の家賃が、相場よりかなり安かった理由が分かった気がした。

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