外伝:子爵令嬢の憂鬱
〈ブリュンヒルデ〉の乗組員は十六名いたが、撃沈されたとき乗っていたのは船長、航海長、機関長の三名だけだった。船を動かすのに必要最小限の人員が、その三名だった。
残りの十三名はマルガリア皇女と同じように〈ロスバッハ〉へ移乗していた。彼らは帝国海軍の軍人であり、皇族専用船の乗組員として選ばれたエリートだった。当然軍艦での乗艦勤務の経験があり、〈ロスバッハ〉に移乗した後は速やかに他の乗組員に混じって軍務に就いていた。
だが例外が二人いた。マルガリア皇女とその専属侍女のポーニャだった。とりわけ立場が微妙だったのがポーニャだ。彼女は軍人でも船乗りでもない。しかも母親は王国人だ。ポーニャは行儀見習いで皇宮で侍女として働いていた子爵令嬢だが、母親の影響で王国の礼儀作法に詳しいことが評価されて、マルガリア皇女の留学に専属侍女として同行したのだ。
王国を脱出する際、マルガリア皇女は命の危険もあるから王国にある帝国大使館に留まってもよいとポーニャに申し渡したが、ポーニャは皇女に同行することを選んだ。そのことは皇女から〈ロスバッハ〉の乗組員たちに伝えられていたので、乗組員たちはポーニャを忠義の同士として受け入れることにしたのだが、軍隊を知らなかったポーニャには戸惑うことばかりだった。
最初はこれまで通り皇女の世話をしようとしたのだが、皇女が与えられた船室は三畳ほどの広さしかなく、しかも副長との相部屋だった。家具は机と二脚の椅子しかなく、人間が二人が入っただけで一杯になる。三人目は壁の凹みの作り付けのベッドに座るしかないが、そのベッドも予備の寝床を出して二段ベッドになったので、座るときは頭をぶつけないように注意しないといけない。皇女はそのベッドの二段目で寝るという有り様だ。とてもではないが世話を焼く人間が居るスペースはない。
およそ皇族が住むのにふさわしい環境ではないが、これがやむを得ないということはポーニャも理解できた。ポーニャに与えられた船室は水兵用の十人部屋だったのだ。
同室の女性水兵から聞いた話だと、これでも軍艦の中ではかなりマシな方らしい。小型のフリゲート艦だとベッドを同僚と
「フリゲート艦は惑星の近くしか航行しないから、せいぜい一週間我慢すればいいだけ。でも巡洋艦の〈ロスバッハ〉は何ヵ月も航行するから、居住性に配慮されているんだよ」
女性水兵はそう教えてくれたが、ポーニャは最初は納得できなかった。
「配慮してこれなの?」
「艦のスペースの多くを占めている兵装は命に関わるから、削れないんだよ」
「でも乗っている人の人数が多すぎない?」
〈ロスバッハ〉の乗組員は二百名以上いる。〈ブリュンヒルデ〉と比べればかなり大型だが、ポーニャにはそこまでの人数は必要ないように思えた。
「戦闘で人が死んじゃったら、穴埋めする人が必要じゃない」
そう言われてポーニャは軍隊の特殊性を少し理解した。軍隊とは、構成員が死ぬことを前提にしている稀有な組織なのだ。
船室の狭さという物理的な問題で、ポーニャは皇女のお世話係を諦めるしかなかった。替わりに見つけた仕事が、食堂の清掃係だった。
三交代の乗組員が三度の食事を摂る食堂は、一日に九回も客の入れ替えが起きる。艦内で最も人間の出入りが激しい場所だ。
食堂は完全セルフサービスで無人化されていた。掃除はロボットが行っていたが、間に合わないこともしばしばあったので、主計科の水兵がときどき見回りに来て必要に応じて掃除をしていた。その水兵の代わりにポーニャが掃除をすることになった。
はっきり言ってしまえば簡単だし、片手間ですむ仕事だった。ポーニャは食堂で暇を持て余すことになった。だが軍人でも船乗りでもないポーニャには、それ以外にできる仕事がなさそうだった。ポーニャはヴァネッサが当直の時間を見計らって、マルガリアに会いに行くようになった。そこからマルガリアに愚痴をこぼすようになるまで、それほど時間はかからなかった。
そのような日々を幾日か過ごした後のこと、食堂で待機していたポーニャはマルガリアが食事に来るのを待っていた。この日、マルガリアは初めて二人の男女を連れて食堂を訪れた。
「紹介しよう。妾の読書仲間じゃ」
「船務長のテッサ・ホーマン中尉です」
「砲雷長のグレオール・ドラケン中尉です」
ポーニャは二人の軍服を確認した。付いている階級章は少尉のものだった。
ポーニャの表情を読み取ったマルガリアが説明する。
「二人は先の戦闘で戦時昇進したのじゃ。こんな状況じゃから、新しい階級章は間に合わなんだ」
「そうでしたか。殿下の侍女を務めていましたポーニャです」
読書なら自分を誘ってくれればいいのに。ポーニャは腹の中でそう思っていた。
実際はポーニャの精神状態を心配したマルガリアがヴァネッサに相談したところ、ヴァネッサが同じ職場の読書仲間のテッサとグレオールをポーニャの話し相手として斡旋したのだ。軍隊を知らない侍女と軍艦乗りの間の共通の話題となると趣味の話しかなさそうだ。マルガリアとヴァネッサですり合わせをした結果、本の話題が良いだろうということになった。
「二人とも妾が王国で買い求めた本に興味があってな。特にテッサは恋愛小説に興味があるのじゃ」
「王国の恋愛小説には貴族を主人公にしたものが多いんです。貴族の生活についてミルハウゼン様にお訊きしてもよいでしょうか?」
ポーニャのフルネームは、ポーニャ・フォン・オウマ・ウント・ミルハウゼンである。オウマは母方、ミルハウゼンは父方の姓である。若干姓が似ているが、艦長のハウゼン伯爵家との縁戚関係はない。
実力主義の帝国海軍では帝国貴族の身分を表す『フォン』の称号を名乗らない軍人もいるが、テッサはそういう隠れ貴族ではなく、正真正銘の平民らしい。そう気づいたポーニャは心に余裕が生まれた。
「ええ、いいですよ。私のことは名前でポーニャと呼んでください。海軍では爵位に意味はないのですから」
マルガリアの紹介なのだから、どのみち断るという選択肢はない。ファーストネームで呼ぶことを許したのはマルガリアの人間関係への配慮であると同時に、心の余裕の成せる技でもあった。
こうして四人の食事をしながらの文学談義が始まった。ブライアン王太子による婚約破棄騒動があったので、王国の恋愛小説が最初の話題になった。
「この小説のように、王子の婚約者に王子妃教育を受けさせるというのは、帝国ではあり得ません。王国でも聞いたことがありません」
四人の中央に置かれたマルガリアのタブレットの電子書籍に目を落としたポーニャがそう言うと、口の中で食べ物を咀嚼していたマルガリアが頷いた。身分に関係なく行儀が悪いが、軍艦の食堂でそれを気にするのはポーニャだけだった。
「婚約者の実家が独自に淑女教育を追加で行うことはありますが、皇室がそれを要請することはありません。必要な教育は結婚後に皇室で行われます」
「あらかじめ教育を受けさせた方が効率が良くないですか?」
テッサの疑問にポーニャは首を横に振った。
「軍隊では入隊したばかりの新兵に一人前の働きを期待しますか? 入隊前に武器を渡して『こういう訓練をしておけ』と命じますか?」
「……いいえ」
「皇子妃教育の具体的な内容は私も知りませんが、皇族以外に知られては拙いものもあるようです。婚約者は準皇族として扱われますが、他家の令嬢ですから教えるわけにはいかないようです」
「妾も大まかな内容しか知らぬが、ポーニャの言う通りじゃ。武器の扱い方を知らぬ素人に武器は渡せぬ。また婚約しただけではそこまで信用できぬ。武器をよからぬ相手に転売されては困るからのう」
咀嚼を終えたマルガリアが肯定する。
「皇子妃への公務の割振りは、教育の進捗を見て決められます。大抵は社交が最初の公務になります。皇室でなくても貴族の家なら社交は行っていますから、慣れている分ハードルは低いようです」
「政府の仕事のうち皇族でなければ務まらぬものは、社交と外交が大半じゃ。社交の人手が増えるだけでも助かるのじゃ。それ以外の仕事は閣僚や官僚がおればなんとかなるからのう」
「それで大丈夫なんですか?」
これはテッサではなくグレオールの質問だった。
「帝国艦隊の司令長官はマンシュタイン上級大将じゃが、上級大将が全ての艦の指揮をとるわけではなかろう。艦や個別の艦隊の指揮は権限を移譲した有能な指揮官に任せればよいし、そうしなくては全軍の指揮などとれぬ。政府も同じことじゃ」
「なるほど」
「ですから皇子が手に余る仕事を婚約者や皇子妃に回すというのもあり得ません。そのときは官僚に回せば済む話ですし、そもそも皇族には手に余る量の仕事を割り当てないようにしています。皇族に過労死されたら、それこそ取り返しがつかないことになります」
皇子が仕事をサボった場合はどうなのか、という質問はテッサもグレオールも遠慮した。マルガリアの前でそんな質問をしようものなら不敬罪に問われかねない。
「皇族に限らず、官僚にも過剰な仕事は回さないように気をつけておる。ブラック職場にしてしまったら、いずれ政府は立ち行かなくなるからの。配慮の程度は皇族ほどではないがの」
一般人から見れば軍艦というブラックな職場で働いているテッサとグレオールは、マルガリアの言葉の信憑性を少し疑ってしまった。
「当たり前のことなんでしょうが、お話を聞いていると皇室はやはり一般の家庭とは違うんだなあと感じますね」
「どこら辺でそう思うのじゃ」
マルガリアに突っ込まれて、テッサが慌てて答える。
「なんというか、まるで政府の一部みたいに聞こえるんです」
「平民の家庭とは違うのは確かでしょうね。皇室は『君主機関説』を家訓としていますから」
怪訝な顔をするテッサとグレオールを前にして、ポーニャはマルガリアの方をチラッと見た。マルガリアは目線でそなたが話せと返事をする。
「『君主は国を統治するための装置である』というのが『君主機関説』の主旨です。国を統治できなくなったら皇帝といえど捨てられて当然という考え方ですから、皇族は国の統治に心を砕くべしと教えられるのです」
「だから王国に留学したとき、妾は驚いたのじゃ。王国の王室は表向きは『王権神授説』を掲げておったからの」
「確か『国王の権力は神から授けられたものだから、人が犯してはいけない』という考え方でしたね」
グレオールの確認の問いにマルガリアは頷いた。
「帝国では信仰の自由は万人に保障されており国教も定められておらぬが、王国では国教に王立国教会が指定されており、貴族は王立国教会の信徒になることが義務づけられておる。さすがに平民には強制してなかったがな。ゴードン国王は『王権神授説』を振りかざして好き勝手をしたら国が保たないことを理解しており、ちゃんと節度は守っておった。ところがブライアン王太子は『王権神授説』にかなり傾倒しておった。妾も危ういのでないかと危惧しておったのじゃが、まあ、ああいう結果になってしもうた」
このマルガリアの危惧が正しかったことは、その後のハイランド王国の敗北と、戦後にハイランドが王政を廃止して共和制に政体を変えたことで証明されることになる。
この件では議論が出尽くした感があったので、別の恋愛小説が批評の対象になった。
「このような一方的な『白い結婚』というのも、常識のある貴族ならしませんね」
「もしやったらどうなりますか?」
テッサが興味津々の目で訊いてくる。
「もし私がそんなことをされたら、翌朝には実家に帰りますね。後は家同士の話し合いになりますが、最悪の場合は内戦になりますね」
ポーニャがそう言ったとたん、周囲の人間が一斉にポーニャを見た。今まで周囲は四人の会話を聞いて聞かぬふりをしていたのだが、軍人だけあって『内戦』というキーワードには敏感に反応したのだ。
ポーニャは内心で驚き焦りつつ、急いで説明を続ける。
「帝国の貴族法では、貴族同士の戦争はまだ認められています。つまり内戦は合法的にできるんです。もっとも領軍を保有している貴族なんてもういませんから、宣戦布告をしても本物の戦争になることはありません」
「それならなぜ、内戦が禁止されていないんですか?」
「皇室に仲裁を求める方便として残されているんです。宣戦布告をしたことは、開戦前に皇室に報告しなければなりません。ですから皇室が必要だと判断したら、仲裁をしてくれるんです。逆に皇室にくだらない問題だと判断されたら皇室の不興を買うばかりか、捨て置かれて恥をかくことになります。大変リスクが高いので、この方法は滅多に使われません。つまりそのリスクを無視できるくらい、相手の行動は非常識なわけです」
「そこまで非常識なんですか?」
平民には計画子無し夫婦も珍しくないから、テッサには理解できないのかもしれない。そう思ったポーニャはどう説明するか思案した。
「夫婦は離婚したら赤の他人に戻りますが、親子関係は何があっても切れません」と前置きしてから本題を続けた。「政略結婚には相手の家の血を受け入れるという意味もあるんです。ですから嫡子を設けようとしないのは、『そちらの家の血を受け入れるつもりはない』という意思表示と受け取られるんです。これは重大な侮辱かつ背信行為になるんです」
「血統を重んじる貴族にとって、喧嘩どころか戦争をふっかけてるのに等しい行為というわけですか」とグレオール。
「では『白い結婚』はあり得ないんですね」とテッサ。
「いいえ、たまにはありますよ」
「ここまで否定したのに、あるんですか!?」
「なんらかの事情で偽装結婚をしなければならない場合、『白い結婚』をすることがあります」
「偽装結婚をしなければならない事情ってなんですか?」
テッサの喰い付くような質問にポーニャがどう答えようか悩んでいると、マルガリアが助け舟を出した。
「ポーニャに今この場でその質問に答えることは無理じゃ。何かを話した結果、『ああ、それはあの家の話か』と誰かが思ったら、ポーニャはその家の名誉を汚したことになる。誰がそう思ったか、その憶測が当たっているかどうかは関係ない。貴族にとって面子は大切じゃからな。貴族に関する噂話は、大勢の人間に聞こえる場所でするものではないわ」
マルガリアの助け舟に感謝しつつ、ポーニャは先を続ける。
「本物の『白い結婚』をするときは、あらかじめ両家の間で同意をして、今後の再婚の障害にならないように配慮をします。性交渉をしないというのは配慮の一部なのです。『白い結婚』だから性交渉をしないのであって、性交渉をしないから『白い結婚』なのではありません。あり得ないのは、事前の同意もなしに一方的に『白い結婚』を宣言することです」
「小説は『白い結婚』の意味と使い方を勘違いしているわけですね」
ここまで話したところで食堂の客の入れ替えの時間になったので、四人の談義はお開きになった。
この後もテッサとグレオールは食堂でポーニャと話をするようになった。二人の紹介で新しい話相手もできた。人数が増えたことで、本以外の話題も話すようになった。
こうしてポーニャは〈ロスバッハ〉の中で居場所を得ることができた。
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