第5話 魔獣を倒せ

 魔獣の声は表層まで届いていた。

 近くの湿地帯でせっせとスライムの粘液を採集していたアオイはその声にただならぬものを感じ、その方向を目指して駆けていたのである。

 途中、逃げる冒険者がいたので、それが来たであろう方向を目指し――。

 リーシャの窮地に、間に合ったのだ。


(とはいえ――困ったな……)


 アオイは荒く息をつきながら視線を魔獣に向ける。

 豚の顔をした醜悪な魔獣。その瞳に突き立っている剣を見やる。咄嗟に投げて気を逸らしたのはいいが、手元から武器を手放してしまった。

 視線を辺りに走らせる。辺りに落ちているのは弓矢。

 少し離れた場所には無残に血飛沫を散らし、原型を失くした死体――その傍に剣が転がっているが、それは魔獣の後ろだ。取りに行くわけにはいかない。


(仕方ない――)


 弓矢はあまり得意ではない。近距離でも当てられず、師匠から苦笑されたことがあるのだ。だが、ないよりはマシだろう。

 弓と矢筒を拾い上げながら、リーシャの肩を掴んで後ろに下がる。


「片目は奪いました、死角を縫って逃げましょう。リーシャさん」


 その声に呆然としていたリーシャが我に返る。息を吸い込み、戦意を取り戻すと、彼女は魔獣を見据えて首を振る。


「それは……できないかな、アオイくん」

「それは、なんで……」

「詳しく説明する暇はないけど、あのギガントオークは人間を執拗に追うからだ」


 リーシャがそう告げる間に、魔獣――ギガントオークは目を貫いた剣を乱暴に引き抜き、後ろに放り投げる。そして片目で忌々しげにアオイを睨みつける。

 目を負傷したにも関わらず、殺意が衰えていない。

(普通の獣なら、少しは怯むんだが……)

 アオイは思わず舌打ちを一つ。リーシャは毅然とした声で言葉を続ける。


「片目でも臭いでも、人間を追いかける――だから、私が囮に……」


 その言葉の途中で、ギガントオークは膝に力を込める。

 攻撃される。それを直感したアオイは素早く弓に矢をつがえて放つ。

 大きな的で近距離――だが、矢は妙な方向に跳び、オークの頬を掠めた。だが、出鼻を挫くことに成功したようだ。じろり、とアオイを睨んでくる。


(なら――!)


 アオイは地を蹴り、リーシャから離れるように動く。目を見開いた彼女から離れ、木々に身を隠しながら駆ける。


「ブモオオオオオオオオ!」


 低い咆吼と共に猛進する気配。木が砕け散り、へし折れる音と共に地面が大きく揺れる。思わず冷汗を滲ませながらも、アオイは深呼吸する。


(師匠の教えを思い出せ――こんなときでも、平常心だ)


 ありのまま、あるがままの姿勢で受け入れる。

 それは例え死地であっても違わない。冷静に状況を受け止め、立ち回る。

 背後を見やり、迫ってくる巨躯を見ながら彼は分析する。


(オークの脚はかなり早い。直に追いつかれる。けど――片目を、怪我している)


 ならば、とアオイは駆けながら近くの茂みに身を躍らせる。と、その茂みから木の影へ飛び移る。瞬間、オークの棍棒が茂みに叩きつけられた。

 それを見てアオイは木々の間から一瞬姿を見せる。そのまま駆ける、と見せかけて、別の方向に疾駆。一瞬、オークは騙されて猛進し、辺りを見渡し、遠くに離れたアオイの姿を見つけて咆吼を上げる。苛立っているのか、甲高く荒々しい叫びだ。


(確かに、人間を追っている。だが、やはり片目は奪えている)


 片目が見えていれば、確かに追うことができる。

 だが、片目だけだと遠近感が掴めず、急な動きに追随しにくくなるのだ。

 アオイは倒木が立ち並んだ場所をひらり、ひらりと身軽に飛び越えていくと、オークは苛立ったように倒木を蹴り飛ばす。だが、その蹴り脚が空振り、たたらを踏んでいる。

 よし、とアオイは頷きながら距離を保ち――不意に、殺気が背筋に迸る。

 空を切る音に振り返れば、宙を舞う巨石。

 咄嗟に横に飛び退くと、地面に落ちた岩が地面を震わせた。体勢を立て直しながら、危ない、危ないとアオイは胸をなでおろす。


(――油断は、できないな……)


 それにこのままだと逃げ惑うだけ――決定打がない。

 アオイが弓矢に優れていれば、この距離から矢を打ち続けられるのだが。


(ちゃんと鍛練しておけば良かったな)


 一瞬後悔するもすぐに頭を切り替えて駆ける。直後、ぬるりと足元が微かに滑った。瞬時に体勢を立て直しながら、軽く地面を見やる――ぬかるんでいる。


(湿地帯まで、逃げてきたのか……)


 リーシャと共に、スライムの粘液の採集の仕方を学んだ場所だ。

 脳裏に過ぎるその日常。アオイは何気なく視線を上に向け――。

 瞬間、彼は脳裏に閃きが迸った。素早くアオイは方向を切り替えて湿地帯の方を目指す。足に取られないように倒木の上を駆け、頭上にも気を配る。

 ギガントオークは雄叫びを上げて突っ込んでくる。泥を跳ね散らかし、倒木を蹴り飛ばす。その姿は徐々に縮まってきて――。

 不意にその豚面に、べちゃり、べちゃり、と何かが付着する。


 緑色の粘液――。

 否、それは緑スライム。


 オークが乱暴に木を薙ぎ倒し、地面を揺らすので頭上でしがみついていたスライムが次々に落ちてきたのだ。

 それを鬱陶しがるように顔を擦る――だが、粘液状のそれはなかなか落ちない。

 その隙にアオイは素早く姿を木々の間に隠す。そして手頃な木にしがみつき、這い上っていく。オークは見失ったアオイを探して辺りを見渡し、一歩踏み出し。

 ずるり、と足を滑らせた。地面に落ちて溜まった、スライムのせいだ。

 派手に尻もちをついたオーク。また、その衝撃でスライムが落ちてきて顔に覆いかぶさる。苛立ちの咆哮と共に、オークは顔を擦り散らす――。


(ああ――隙だらけだ)


 そう思いながらアオイは木の幹を蹴り、手頃な太い枝を掴む――丁度、オークの頭上に位置する枝だ。瞬時にその枝に足を絡めると体勢を固定。そのまま真下に向けて、流れるように弓に矢をつがえる。

 オークが顔を擦って目を覆ったスライムを取り除き、頭上を見上げる。

 その真紅の瞳に、アオイの姿が映った――至近距離で。


 これなら、当たる。


 確信と共に矢を放った。真紅の瞳に吸い込まれるように矢が突き立つ。


「ブモオオオオオオオオ!」


 オークが絶叫と共に暴れた。地面が揺れ、木々も大きく揺さぶられる。アオイは慌てて枝をしがみつき、這うようにして木の幹の方に戻る。

 暴れるオークは辺りを見渡すように顔を振り回し、腕を振り回す。

 丸太のように太い手足が近くの木々にぶち当たり、大きく森を揺らす。至る所で緑スライムが落下して飛び散る。

 その中で立ち上がろうともしているようだが、足元がスライムのせいで上手く立てず、無様な暴れようを晒している。アオイは幹に手を添えて、枝の上で身体を安定させながらため息を一つついた。


(……さすがにもう大丈夫だろう)


 何せ、これで両目を潰したのだ。あとは煮るなり焼くなり、好きにできるはずだ。

 とはいえ、立ち直れば臭いを嗅いで追いかけて来る可能性がある。スライムが地面でうようよしているうちに逃げるべきだろう。

 そう思いながらアオイはひらりと地面に降り立ち――おや、と眉を寄せる。

 倒れたギガントオークが起き上がらない。それどころか、四肢をびくびくと痙攣され、喉も引きつらせている。まるで、毒でも喰らったかのような反応だ。

 少し考えてから、はた、と思い至る。


(……さては)


 アオイは背中に担いだ矢筒を降ろし、中の矢を検める。鏃を見てみれば、それらは紫色の粘液がついている。もしかしなくても、毒矢だろう。

 矢筒を担ぎ直しながら視線を戻すと、ギガントオークがぴくりとも動かなくなっていた。

 緑スライムがそれに群がり、至る所に貼りついている。だが、オークはやはり動かない――死んでいるのだろう。


(……凄まじい毒だな……)


 思わず戦慄していると、茂みが揺れる音と共に人影が飛び出してきた。

 黒髪を揺らしながら辺りを見渡し、オークを見てぎょっとし――すぐにその傍に立つアオイに気が付いた。そして、リーシャは地を蹴ってアオイに駆け寄り。


 腕を広げて、強くアオイの身体を抱きしめた。


「ぅ、え、リーシャ、さん……っ?」

「……よかった……よかったよ、アオイくん……っ」


 微かに揺れた声と共に震えが伝わってくる。アオイの無事を確かめるように強く抱きしめながら、彼女は耳元で声を響かせる。


「アオイくんをオークが追っていったとき、どうなるかと思って……本当は、私が引き受けないといけなかったのに……先輩、失格だな、私は……っ」

「……そんなこと、ないですよ。リーシャさん」


 小さく笑い、励ますように彼女の背に手を添える。とんとん、と軽く背を叩きながら続ける。


「リーシャさんが諦めなかったから、僕が助けに行けたわけですし――リーシャさんがこの森をよく教えてくれたから、オークを仕留めることができました」


 こうしてオークを確実な足止めができたのは、彼女の教えの賜物だ。

 緑スライムの生態、特徴を事細かに教え、湿地帯スポットも教えてくれていた。だからこそ、ここまで誘導して罠に掛けることができた。

 アオイだけでは、絶対にオークは倒せなかった。少なくとも無手では。


(……剣があれば、もう少し苦労せずに済んだけど)


 内心で少し思ったものの、それは口に出さずにリーシャの身体を抱きしめ返す。


「何より――リーシャさんが生きてくれて、無事で良かったです」

「……アオイ、くん……っ」


 彼女の声に嗚咽が交じる。その彼女の身体を抱きしめながら、気配を探る。

 周りには緑スライムの気配しかない――オークが暴れたせいで、魔獣が逃げたのだろう。


(……なら、もうしばらくこうしていよう)


 アオイはそう思いながら優しく彼女をあやす。

 そしてリーシャの嗚咽が収まるまで、二人はしばらく湿地帯で抱き合っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る