第三十八話【雨後の訪問】
昨日の喧騒も遠く、私は――宮は、静かな朝を迎えた。
不安も、焦りも、それに恐怖も、全てずっと前のもののように感じる。感じてしまう。
それではいけないと思っていても、どうしても……
「……はあ」
ランデルに一大事が無くて良かった。
どうあってもここだけは落とされてはいけない、ここを失ってはいけない。
国の中心であるこのランデルを失えば、当然国民は希望を失う。
もうこの国は終わる。人の手から離れ、魔獣によって食い尽くされる。
そんな絶望を与えてしまいかねない。
「おはようございます、女王陛下。朝食の準備が出来ました」
安堵も安堵、涙がにじむほどの安心を胸にため息をついた私の耳に、リリィの声が届いた。
それに私が返事をするよりも前にドアが開いて、穏やかな表情の女性が部屋に入ってくる。
今朝のリリィは機嫌がよさそうだ。
これなら、変ないたずらもお説教も無いだろう。
「陛下? どうかなさいましたか? 随分と安心した様子ですが……」
「えっ……え、ええと……はい」
「昨日の今日で、大急ぎで帰ってきましたから。まだ少し実感が薄くて」
「ランデルは無事に守られたのだ……と、そう思ったら……」
心臓が縮み上がる思いだ。
きっと彼女は、私の表情や雰囲気から推測したのだろう。
が、まさか、今朝は叱られないだろうという子供のような安堵を嗅ぎ付けられたわけではあるまい。
そう、昨日の強い緊張からの解放で緩んだ私の表情を見てのことの筈。
まさか……いいや、そうに違いない。違いない……筈で……
「ユーゴさんが待っていますよ」
「今朝はバスカーク=グレイム伯爵の屋敷へ向かう予定になっていた筈だ、と。やや怒っているくらいです」
「ユーゴが……? そんなにもやる気になってくれていたんですね。すぐに行きます」
ユーゴがバスカーク伯爵をそんなにも信頼していたなんて。
それとも、昨日の一件が彼の想像以上に――私の見た以上に危険なものだと思ったのだろうか。
魔獣が大量発生した。
それも、ずっと遠くから来たのではなく、このランデルの近郊で繁殖した。
ただそれだけではなく、もっと厄介な事情が裏にあると、彼は嗅ぎ付けているのだろうか。
「遅いぞ、フィリア。俺はもう行けるから、早く支度しろ」
「おはようございます、ユーゴ。すみません、もう少しだけお待ちください」
食事を手早く済ませ、リリィに連れられるままユーゴの部屋に向かうと、むっとした顔の彼に出迎えられた。
そんなにも慌てるなんて。
「そこまで……貴方がバスカーク伯爵の手を借りようと思うほどにまで、事態は深刻そうなのですか?」
「私は……数字でしかものを見ていませんから。貴方の直感を今は何よりも信じますが……」
「別に、俺も大したことないと思ってる」
「だけど、それなのにカスタードのやつが手紙寄こしたんだ」
「アイツ、多分……だけど、本当にヤバいと思ったんだと思う」
「俺達がこっちに戻ってくるまでは、ほんとのほんとにヤバかったんじゃないかなって」
私達が戻ってくるまで……?
それは……ユーゴの力が無ければいけないほどの強敵が現れた……ということでしょうか。
いくら彼が強いと言っても、彼が背負える戦場は限られる。
こうも広い街での戦闘では、彼がどれだけ活躍しても、他の部分で押されては負けてしまうのだ。
彼ひとりで戦況が変わるなんてことはそうそう……
「違う。そうじゃなくて」
「俺達が帰ってくるのを知って、魔獣の行動が変わったんじゃないか、って」
「だって、カスタードにとっては、この街がどうなってもあんまり関係ないだろ?」
「あんな変なとこに住んでて、ロクに外にも出てなさそうだし」
それなのに異変に気付いたってことは、あんなとこにいても気付くくらいヤバいことが起こってたんじゃないのか、って。
ユーゴはそう言って、不満そうにため息をついた。
ごろんとベッドの上に寝転んで、ばたばたと足をシーツに叩き付ける。
彼もまだ自分の中にある感覚が言葉に出来ないらしい。
そして、それがもどかしいのだろう。
「……事情が切迫しているのを知って、私達の様子を確認する為にコウモリを飛ばして……」
「それで、宮にいない私達を必死に探してまで手紙を届けて……」
「こう言ってはなんですが、確かにあの人物は、どちらかと言うと穏やかな、楽天的な思考を持っていそうな……」
「……しれっと言うよな、意外と」
「でも、やっぱりフィリアもそう思うよな」
「アイツがわざわざめんどくさいことやったってことは、それなりにデカいことが起こってたんだよ」
確かに、言われてみればその通りかもしれない。
なんにせよ、手紙のことでお礼を言いに行かなければならない。
やっと終わったか。と、支度を終えた私の背中を押して、ユーゴはぐいぐいと外へ外へと歩き出す。
まだ馬車の手配は終わっていないのだから、そんなに焦っても出発は出来ないのだけど……
やる気になってくれているのだし、これはこれでいいのかもしれない。
宮のそばにある
目的地はバスカーク伯爵の住む屋敷……と本人が勝手に呼んでいる洞窟だ。
前回の訪問で、別の入り口があること、そして地底湖を通らなくてもいいことを知ったのだ。
今までよりもずっと気楽に訪れることが出来る。
「では、皆はここで馬車を守っていてください。訪問は私とユーゴだけで」
洞窟の入り口付近にまで辿り着くと、私とユーゴは馬車を降りて横穴へと侵入する。
相変わらず暗い洞窟だが、しかしもうひとつの入り口――今まで使っていた縦穴に比べたら、いくらか光を取り込んでくれている。
奥はどうせランタンが無ければ何も見えないのだけど、それでもずっと楽な道に変わりはない。
「最初から気付いていれば、あんな思いをしなくても済んだのですけどね」
「寒かったですし、何より……」
ユーゴにひどいことも言われてしまったし……
恨むつもりは無いが、知りたくない事実を突きつけられたのだから、嫌でも頭が痛くなる。
ジャンセンさんは私を美人と言ってくれたが……
しかし、マチュシーからの帰り道、狭い馬車の中で、皆が気まずそうにしていたのを私は忘れていない…………
「……? フィリア、ここってこんなんだったか?」
「もっと……いや、気の所為かな。なんか、形変わってる気がするんだけど」
「道が……ですか? 自然に出来た洞窟ですし、簡単に変わるとは思えませんが……ええと……」
ユーゴは突如立ち止まり、そして振り返って私に意見を求めた。
洞窟の形が変わっている……などと、そんなことがあるだろうか。
しかし、彼が言うとどうしても説得力がある。
まさか、魔獣の侵攻がここにもあって、その際に崩落があった……なんてことは……
「……言われてみれば……いえ、間違いなく」
「ここに分かれ道があった筈です。それで……っ」
「この塞がれてしまっている方、こちらに進む筈だったかと……」
「やっぱりそうだよな。どうする? 引き返して、前と同じように……」
ユーゴは途中まで言いかけて、凄く凄く嫌な顔をした。
そ、そんなに私を背負って泳ぐのが嫌だったのですか……っ。
水の中なら、多少重たくても平気な筈なのに……
しかし、またあの地底湖を泳いで渡るのは、私もあまり乗り気ではない。
今度は着替えを持ってきていない、そもそもあの道を通るつもりも無かったのだ。
またびしょ濡れで訪ねたら、伯爵に怒られてしまいかねないし……
「……しょうがない。ここ、穴空けて通ろう。殴って進めばなんとかなるだろ」
「い、いけません、そんなこと」
「一度崩落が起こったということは、既にこの洞窟内は脆くなっているということ」
「貴方の力で暴れまわれば、今度は洞窟全域が崩落してしまう可能性だってあるのですよ?」
そうなれば、私達が生き埋めになってしまう。
それに、何も知らずに暮らしているバスカーク伯爵が、突然の崩落に巻き込まれて圧死してしまう可能性だってある。
そうなれば話を聞くも何もない。
誰も彼もがこの洞窟の中で終わってしまって、目的の達成はおろか、手段のひとつすらも行使出来ぬままに死んでしまう。
「……こうなったら、また泳ぎ切った先で服を乾かすしかありません」
「急ぎたい気持ちも分かりますが……その……こ、今度は私もひとりで泳ぎますから、それなら問題無いでしょう」
「べ、別にそれはどっちでもいいんだけど……」
どっちでもいいと言いながら、ユーゴはぷいとそっぽを向いて不機嫌になってしまった。
でも、それしかないのだから。
まだ少し力尽くでの突破を諦めていないユーゴを引きずって、私は兵士達の待つ入口へと、予定よりもずっとずっと早くに帰還した。
また別の入り口を――以前から使っている入り口を目指してくれ、と。そう願う為に。
馬車は少し遠回りに山を回って、そしてまたあの暗くて狭くて嫌な思い出の多い洞窟の前に到着する。
ユーゴはまだ渋い顔をしていたが、しかし来てしまった以上はもう引き返すわけにもいかない。
「ほら、行きますよ。今朝はユーゴの方が張り切っていたではありませんか」
「いや……まあ、そうだけど……」
生活を改めますから! と、少しだけ声を荒げて説得すると、ユーゴは頭を抱えたまま了承してくれた。
頭が痛いのはこちらなのに……っ。
そんなに……そんなに私は……っ。
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