第三十六話【急行到着】
日が昇るよりも前、雨の音で私は目を覚ました。
前が見えないほどの大雨……というのではないが、しかし嫌な空気が窓の外を満たしている気がしてしまう。
「急いでいる時に……っ」
雨脚が強くなれば、馬車はどうしても減速せざるを得ない。
ぬかるみに嵌れば停車する必要だって出てくる。
なんにしても、この天気の悪さは、今の私達には凶報だろう。
行きではほとんど魔獣と遭遇しなかったが、帰りもそうとは限らない。
この寒さがユーゴに与える影響だって小さくない筈だ。
「――フィリア、起きてるか。そろそろ準備しろよ」
こんこんとドアが叩かれて、そしてユーゴの声が聞こえた。
なんと、ちょうどいいタイミングで。
たった今貴方の無事を祈っていたのですよ……と、そう伝えたら、彼はきっと怪訝な顔をするだろうか。
「おはようございます、ユーゴ。今朝はあまり天気が良くありませんね」
「もしも魔獣と戦うことになったら、どうかいつも以上に気を付けてください」
「貴方は魔獣よりも強いかもしれませんが、しかし魔獣のように鋭い爪を持っているわけではありません」
「簡単に滑って転んでしまいかねませんから」
「なんの話だよ、いきなり。寝ぼけてるのか?」
ユーゴはドア越しにため息をついて、そして私が起きていると知ってか、すぐにどこかへ行ってしまった。
本当に起こしに来ただけ、確認に来ただけだったのだろうか。
昨日かなり無茶をさせてしまったから、出来れば顔を見て具合を尋ねたかったのですが……
「……晴れるといいですね。雨は冷たいですし、それに危ないですから」
返事は無い。
そこにいないユーゴにひとりで語りかけて、私は急いで身支度を整えた。
カバンから着替えを引っ張り出して……なんだかカバンの中がぎゅうぎゅうになっている。
こ、こんなにぐちゃぐちゃに詰め込んでいただろうか……?
ああ、そうか。昨日ユーゴにお願いして……
支度を終えた私が役場へと向かうと、そこには既に皆が準備万端で待っていてくれた。
私が号令をしたら、後は馬車に乗って出発するだけ。
準備の早さもだが、何より全員の気構えが今はありがたい。
これならば、私は彼らのテンションを下げないようにしてあげるだけでいい。
なんと優秀な人材に恵まれたことだろう。
「今朝も早くからご苦労様です」
「昨日お伝えした通り、今日はこのハルを出発し、マチュシーを経由してランデルへと帰還します」
「ですが……生憎と悪天候となってしまいましたから、あまり無茶はしないようにしましょう」
「事故に遭って帰還そのものが困難となれば、ランデルを救う手立ては失われます」
「皆、何よりも全員の無事を最優先に考えて行動してください」
乗り換えの馬車の交渉もある。
最悪、今晩をマチュシーの街で過ごして、明日の昼過ぎにランデルへ到着するのでも構わない。
もちろん、早いなら早いに越したことは無い。
ランデルは私の故郷だ、なんとしても守りたい。
けれど、それは無謀をする理由にはならない。
ユーゴの身に何かあれば、ランデルはおろか、この国の全てが失われかねないのだから。
「……一晩経って、少し冷静になったのでしょうか」
「それとも、どこかで諦めのようなものが生まれてしまっているのでしょうか」
ぽつんとひとりで呟いた。
皆が荷物を運びこむ最中に、私はその背中を見ながら自己の内側に問うたのだ。
もしや、危機感を失ってやしないか、と。
「……? フィリア? 早く乗れよ、急ぐんだろ?」
「っ。は、はい。すぐに行きます」
バスカーク伯爵はユーゴの力を――魔獣を蹴散らす姿を直接見てはいない……と思う。
情報収集能力にこそ長けているが、しかし奇妙なほど興味に偏りがある。
私が女王であることを知らないでいるように、ユーゴの戦う姿も見てはいないのではないか、と。
もしもそうならば、彼はたった数人の、隊とも呼べない私達に緊急を知らせたのだ。
それは、たった数人でも人手が必要だと思ったからだろう。
つまり、致命的に人手が足りていない今のランデルに、途方も無い脅威が迫っていることを意味するのではないだろうか。
「……っ。ユーゴ。もしもの時は、私達だけでも宮に――ランデルに向かいましょう」
「マチュシーで馬を借りられなかった場合、日も沈む前から足止めを食ってしまいます」
「それなら、貴方の脚で走って向かった方が早い」
「私が重荷になると言うのなら、せめてユーゴひとりだけでも……」
「……フィリア……?」
いいや、それは違う。
彼ひとりを向かわせるのは間違っている。
いけない、自分で自分の決定を信じられなくなっている。
余計な独り言の所為で頭の中が途端にパニックだ。
一度落ち着いて、冷静に状況を整理しよう。
焦ってはいけない。
今、私はここにいる全員の指揮を執らなければならない。
私がブレれば全員の安全が消える。それを失念するな。
「……ふう。すみません、忘れてください」
「貴方ひとりを向かわせて、たとえそれで解決したとして、それでは意味がありません」
ユーゴの力には頼る。
全幅の信頼を寄せて、あらゆる危機を乗り越える為の切り札としてその力を振るって貰う。
けれど、それは最前線――切り拓く為の力だ。
「ランデルはユーゴの力無しでも守れるようにしなければ」
その為には、宮に戻ってから私に何が出来るかを考えるべきでしょう。
軍の指揮を執る……のは、私の仕事ではない。
ランデルには指揮官がいる。
宮を、街を守る為に残してきた戦力がある。
戦線は彼らに維持して貰う、ユーゴには一戦力として彼らの手伝いをして貰おう。
彼が特別な働きをしなければ維持出来ないのなら、私達はまだランデルから出るべきではないのだ。
「……っ。ユーゴ、聞いてください」
「もし、マチュシーで馬を借りられて、そして今日のうちにランデルへ帰ることが出来たならば」
「初めてのことですが、貴方には現場の指揮の下で戦っていただきたい」
「私の指示でもなく、貴方の好きなようにでもなく」
「……分かった。別に、やることは変わらないだろ」
「俺が魔獣を倒す。それで、誰かが次に戦う場所を指示する」
「フィリアより慣れてるやつの指示を聞くってだけだ」
そう、何も変わらない……筈だ。
けれど、彼にとっては初めてのことだ。
集団で戦う、目まぐるしく変わる戦況に対応する、他人の指揮下に入る。
私が彼にするのは命令でも指示でもない、ただのお願いだ。
魔獣がいるから倒して欲しいなどとは、作戦指揮ではない。
「大変でしょうが、お願いします」
「もしも馬が借りられなければ……また、明朝まで休むことになるでしょう」
「貴方からすれば歯がゆいかもしれませんが、私達が全員無事に帰ることが優先」
「特に貴方の無事が最優先です」
「別に、俺は何があっても平気だけど」
そうだ。ユーゴの無事こそが最優先。急所をしっかりと見極めろ。
ランデルに危機があったとて、それが魔獣による被害程度ならば問題無い。
街の全てを、宮を、軍の指揮権を失いでもしない限り、あの大きな街はまだしばらく大丈夫。
非情かもしれない。
それでも、私はそういう判断を下すしかない。
ハルを出発した馬車は、幸いにも魔獣と遭遇することなくマチュシーへと到着した。
そして私は、急いで役場の馬小屋へと向かい、至急馬車を貸して貰えるように頼み込む。
もしもここでダメなら、民間の馬車を一台借りてでも……
「――陛下、一台だけでしたら手配可能です」
「ランデルのものよりも小さく、馬も一頭しかおりませんが……」
「構いません。至急回してください」
役場に問い合わせ、それからしばらくすると、役人が大慌てで戻ってきてそう言ってくれた。
良かった、どんなものでも借りられるなら問題ない。
役人が手配を急いでくれている間に、私もアッシュを呼びに走る。
そうして私達はマチュシーで馬車を乗り換え、ランデルへの帰路を急ぐ。
雨は次第に強くなり始めたが、しかし馬車の進みを阻むものではない。
多少荷物は減らしたが、私達は無事ひとりも欠けることなく……
「――っ。で、デブ! もっと向こう行け! 狭い!」
「で――っ。せ、狭いのは私の所為ではありませんっ」
「馬車が小さくなったのですから、我慢してくださいっ」
荷物を降ろさざるを得ないくらい手狭な馬車に乗り換えて、ぎゅうぎゅう詰めでランデルを目指す。
俺は自分で走ると言って聞かないユーゴを必死に説得して、どことなく居心地の悪そうな皆にも謝りながら。
こんな雨の中を走れば風邪を引いてしまう。
狭いかもしれないが、なんとか我慢して……
道中ずっとぎゃあぎゃあと揉めながらではあったが、私達はランデルを目前にするところまで帰ってきた。
ユーゴはかつてないほど不機嫌になってしまったが、それでも無事に帰ってこられた。
そんな私達を迎えたのは――
「――っ! フィリア、どけ! 魔獣だ!」
「っ! ユーゴ、お願いしま……い、いたいっ。踏まないでくださ……いたたたっ。ふ、服がベルトに引っかかって……」
ああもう! と、ユーゴは少し乱暴に剣を鞘から抜いて、そしてベルトを外して馬車から飛び出した。
さっきまでのうっぷんを晴らすと言わんばかりの勢いだ。
「皆も警戒態勢を。宮に到着するまでは、魔獣はユーゴひとりに任せます」
「到着次第、現場指揮に参加してください」
ほんの少しだけ広くなった馬車は、ばちゃばちゃと湿った音を上げながら突き進む。
まだ全容は見えていないが、ユーゴの焦り方から見ても、かなりの数の魔獣が現れているのだろう。
まだ手遅れでないことを祈りながら、私達も彼の背中を追いかける。
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