第十五話【雨の中】


 雨が弱まることは無かった。


 厚い雲の向こうに朝日が昇ったのが分かったのは、ユーゴが教えてくれてから。

 日が昇ったからなんだということも無く、ただ、朝になったな、とだけ。


 そっけなく教えてくれたから、私は今が非現実な夢の中じゃないんだと自覚出来ていた。


「——ふふ。なんだか、楽しいですね」

「宮の外へなど仕事でいつも出ているのに、まるで御伽噺にある冒険の旅に出たみたいです」


「意外と子供なんだな、フィリアは。そんなに笑ってる顔、初めて見た」


 うっ。いつもの私はそんなに無愛想でしょうか……


 しかし、それを言うのならばユーゴだってそうだ。

 いつもよりずっと——ずっとずっと楽しそうで、気持ちよさそうで、嬉しそうに笑っている。


 雨で濡れた顔も、寒さで青くなっている唇も、フードでぺちゃんこになっている髪も、なにもかも。


 いつもより元気に見えないのに、いつもよりずっと溌剌として見えた。


「それで、今日はどこまで連れて行ってくださるのですか?」

「ユーゴが言い出したのですから、きちんとエスコートしてくださいね」


「えっ……あ……おう!」


 こっちだ。と、ユーゴが進み始めたのは、初めて魔獣退治に出かけた方角だった。


 彼にとってこの国は、この世界は、知らぬものばかりなのだ。

 私が案内した場所以外、何ひとつとして知らない。


 だから、私が覚えている場所にしか案内はされないし、もし知らない場所に向かい始めたら止めなくてはならない。きっと迷ってしまうから。

 けれど……


「……楽しいですね。すごく楽しいです」

「でも、きっとパールには叱られてしまいます」

「その時は、ユーゴも一緒に謝ってくださいますか? くださいますよね」

「だって、貴方が振り回したのですから」


「お、おい。人聞き悪いこと言うなよ。別に俺は……」


 彼にはもっと多くのものを見て貰いたい。

 多く、多く。可能な範囲であるなら、全てを見て貰いたい。


 だって、こんなにも楽しそうにしているのだ。


 私の軽口にも目を輝かせて、もっと知らないものが欲しいと強欲にねだり続ける。

 そんな姿を見たら、全てをプレゼントしたくなってしまった。


「っ。フィリア、魔獣だ。ちょっと待ってろ、すぐ片付けて……」


「いえ、一度身を隠しましょう。この雨ですから、向こうもこちらを匂いでは見付けられないでしょうし」

「それに、ぬかるんだ足下にもまだ慣れていませんよね」


 こんなの平気だ。と、ユーゴはそう言って眉をひそめた。


 分かっています。きっと、どんな障害があっても彼には関係無い。

 ぬかるんだ地面に足を取られても、彼はきっと滑って転びながら魔獣を蹴散らすでしょう。

 そのくらい圧倒的な差があることは明白です。


 けれど、それだけで彼を呼び止めたわけではない。


「——いいえ、一度隠れましょう」

「幸い、この近辺の魔獣はあらかた駆除してしまっています。ならば、いるのは逸れた魔獣のみ」

「無視するわけにはいきませんが、しかし急いで倒す必要もありません。隠れて追い掛けてみましょう」

「それがどこで何をしているのか、調べに行くのです。ハラハラして、きっと面白いですよ」


 自分でも何を言っているのか分からなかった。


 彼にとって、魔獣の尾行など楽しい筈が無い。

 私にとっては、未知の大冒険もかくやといった緊張感ですが、彼にとっては退屈なだけなのでしょう。


 でも、大人に隠れて悪さをしている子供の気分になって、私はそんなことを口走っていたのです。


「……やっぱり、子供だな。俺のこと散々子供扱いしておいて、フィリアの方がよっぽど子供だ」

「わがままだし、悪巧みばっかりだ」


「そうでしょうか? でも、ユーゴも人のことは言えませんよ」

「だって、貴方も笑っているじゃありませんか」


 私達は揃って声を上げて笑……うのを我慢して、こそこそと魔獣の尾行を始めた。


 と言っても、この雨の中で私が目視出来る距離まで近付いては、流石に気付かれてしまう。


 だから、今あそこにいる、何をしている、こんな姿のこんな顔の魔獣があっちへ行った、と。

 ユーゴに説明して貰いながら、私達は水溜りに足を突っ込むのも、身体が泥だらけになるのも気にせずに遊び回った。

 ああ、いえ。魔獣を追跡調査した。


「……アイツ、帰るところが無いのかな。ずっとウロウロしてて、何かする気配も無い」


「もしかしたら、帰るべき場所を探しているのかもしれませんね。魔獣にも当然親子の関係はあるでしょうから」

「或いは、私達の戦いで倒してしまった魔獣の子供なのかもしれません」


 ユーゴは少し寂しそうな顔をした。


 帰るべき場所……か。


 ユーゴにはそれがある、宮へ帰ればいい。

 そう思っているのは、私だけなのでしょうか。


 ユーゴ自身は、まだあの場所を家だとは思えていないのでしょうか。


「……殺しにくくなること言うなよ。アイツ、ほっといたらマズいんだろ」


「そう……ですが。いえ……もし躊躇ってしまうのならば、今回は無視しましょう。心に余計な傷を付ける必要はありません」


 そんなわけにもいかないだろ。と、ユーゴはちょっとだけ大人になってしまった。

 さっきまで一緒に子供遊びに興じていた顔とは違う、責任感のある大人の姿だった。


 では、もうこの遊びもおしまい……ですね。


「……ユーゴ。では、魔獣を退治して戻りましょう」

「このまま別の街まで赴いてもっと遊んでいたい気持ちもありますが、一度帰ってパールに事情を説明しなければ」

「先に謝っておけば、叱られる時間も短くなります」


「…………子供だよな、やっぱり」


 えっ。

 私も子供の時間を終えて、大人として振る舞ったつもりだったのですが……


 ごほん。と、ひとつ咳払いをすると、ユーゴは剣に手を掛けて、そして物陰に隠れるのをやめた。


 この先にいるらしい魔獣を退治する。

 それに情など移さず、倒すべきものという認識をしっかりと持って。


「……? ん……? あれ、アイツ……」


「どうかなさいましたか? ユーゴ?」


 倒す……と、彼の背中は意気込んでいた。

 けれど、いきなりしゃがみ込んでしまって、そして息を殺してじっと観察を始めた。


 まさか、魔獣に妙な動きが?


「……小さいのがいる。多分、同じ魔獣だ。もしかして……」


「……親と逸れた子ではなく、子の為に餌を探していた親だった……ということでしょうか」


 ううっ。また……またなんとも情の移りかねない場面に出くわしてしまった。


 魔獣は敵で、とにかく国の情勢を悪くしている根源だ。と、そういう認識がある私ですら躊躇してしまうのに。


 ユーゴにとっては、魔獣もそこいらの犬や猫と変わらない、自分より弱いものだ。

 健気な姿を見せられたら、優しい彼は果たしてどう思うのか。


「……いや。別に、そういうのじゃないらしいぞ」


「……ユーゴ?」


 ユーゴは隠れるのをやめて、そして剣を抜いて走り出した。

 私も追い掛けたが、しかしと言うかやはりと言うか、速さが全然違う。


 滑って転びそうになるこの地面でも、ユーゴは平気で駆け抜けて魔獣を斬り捨てた。

 唸るような断末魔が聞こえたのは、追い付くよりもずっと前のことだった。


「ユーゴ! はあ……はあ……こ、こんな中でもやはり貴方は速いのですね」

「私は転ばないようにするので精一杯で……っ。これは……」


「子供……だとは思う。でも、こいつ……」


 ようやく追い付いて、そしてユーゴの足下に見た光景は、一撃で斬り倒された大きな魔獣と、何かに食い千切られた小さな魔獣の死骸だった。

 どうやら、この大きな魔獣は子供を食べていたらしい。


 なんとも悍ましく思えるが、しかし自然の世界ではままある話なのだろう。


「ちょっと可哀想だとか思って損した。平気な顔で子供食いやがって」

「こいつらは自分から近付いてたし、多分本当に親子だったんだ。なのに、裏切りやがった」


 ふんふんと鼻を鳴らして、ユーゴは苛立ちを隠そうともせずにそう言った。

 どうやら相当腹に据えかねたらしい。


 親が子を……というのは、確かに人間の基準では非道も非道。


 しかし、魔獣とはそもそも野生の獣なのだ。

 人の道理に合わせて考えるのは……


「……なんだよ。なんで俺を見るんだよ」


「えっ……ああ、いえ。貴方は本当に優しい子ですね」

「相手が魔獣であろうと、不義理には義憤を感じるのですから。凄く凄く義理堅い、立派な心の持ち主です」


 もしかして、生前の彼は家族関係に不満があったのだろうか。

 よもやとは思うが、この幼い少年が命を落とした原因が、その肉親にあるなどという話があり得るだろうか。


 私はそこで考えるのをやめた。


 もしそうだとしたら……と、それ以上を覗き込むのが怖くなったのだ。


「帰りましょう。そして、きちんと報告しましょう」

「魔獣に不審な動きがあった為に、雨天にも関わらず出撃して討伐していた、と。そういえば怒鳴られることは無い筈です」


「……おう」


 帰り道には、少しずつ雨も弱くなっていった。


 ほんの僅かな時間の道楽ではあったが、しかしいつもよりずっと充実した余暇だと思えた。

 しかし、帰ればすぐに書類仕事が待っているのだと思うと……

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