第八話【希望をくれたひと】


——少年が味わったのは地獄だった——


 まだ、十四の幼い子供だった。


 そんな少年が最後に見た光景は、奇しくも美しい夕焼け空だった。


 長い川をオレンジに染めて、まるで自分を責め立てるように大きく輝く太陽の姿。


 それが——橋の上から覗いたその光景が最期だった——


——少年が目にしたのは地獄だった——


 まだ、生まれて間もない命だった。


 少年が最初に見た光景は、奇しくも自身と同じ結末を迎えた——筈だった——人々だった。


 知らぬ景色。知らぬ匂い。知らぬ音。

 何もかもが未知で、何もかもが不自然で、何もかもが望んでいたものとは違う。


 力無く横たわるだけの五人の大人が、自分と同じ——筈だった——ように絶命しているのは、すぐに分かった。


 夕陽に心を焼かれた——筈だった——自分が、ここに生きているということもすぐに分かった。


 分からなかったのは——


「————ああ——良かった——起きてくださいましたね————」


——そこは地獄——の筈だった——


 窓の無い、光の弱い部屋の中だった。


 見たこともない書物が並んでいて——なのに、それらに刻まれた文字の意味をすぐに把握出来て——そして、悍ましいと背筋を凍らせる嫌な匂いが充満している。


 人が——人間が五人、命を落とした匂い——


 それこそを地獄なのだと、少年は身を震わせて思い知った。


 自分の味わった地獄のことなどとうに忘れ、目の前の恐怖にただ震えるばかりだった————筈だった————


「——はじめまして——」

「私はフィリア——フィリア=ネイと申します。よくぞ……よくぞ目覚めてくださいました」


 自身の死に自覚があった。


 五名の死者も把握していた。


 故に、少年はそこを地獄だと思った。


 死の後に待つ、天国と地獄の、その片方。


 死した後にも苦痛が続くのだと、そう泣き出しそうになった——筈だった——


「——共に来てくださいませんか。私と共に、この国を救ってはくださいませんか」


 目の前の人物が何かを言っていた。


 言葉はきっと、通じないのだと思っていた。


 自分の母親とはまるで違う姿だった。

 自分の知る人間とは違う姿だった。


 顔や身体の造形も、衣服も、表情も、匂いも。


 あらゆるものが未知だったから、少年にはそれが意思疎通の出来る相手には映っていなかった。


「安らかなる眠りを妨げたことは謝罪します。ですが——どうか、もう一度だけ立ち上がっていただけませんか……?」

「私と共に——どうか、この国を救っていただきたいのです」


 少年の胸の中にあったのは、たった三つの感情だけだった。


——恐ろしい——


 何よりも大きな畏怖。何よりも大きな憎悪。

 自身の死と、他者の死。そのどれもが醜いものだと感じた。

 感じなければいけないと思った。


 死というものが恐ろしいのだと、悲しいのだと習った少年は、義務感でその恐怖を感じた。


——理解し難い——


 自ら命を終えた筈だった。

 夕焼けに心を奪われ、虚無感に見舞われ、橋から身を投げ出した。

 少年の最期は、自らの手によって引き起こされた。


 故に、自身が生きている現状が理解出来なかった。


 それと同時に、自身に救いを求める言葉の意味も理解出来なかった。


————美しい————


 それは、全てを超越した感情だった。

 恐怖も、怪訝も、何もかもがどうでもよくなった。


 綺麗な人だった。

 少年を待っていたのは、髪の黒い綺麗な女性だった。

 少年には恋心など分からなかったが、しかしそれが美人であることは分かった。


 誰かの為に憂い、誰かの為に足掻き、自分の為に涙を流してくれている。


 それが、美しく気高い人であることはすぐに分かった。


「——名前を教えてください。貴方の名前——私が貴方をどう呼べば良いのかを、どうか教えてください——」


「——っ。ゆ……ユウゴ……」


 少年の名には、音以外にも理由があった。

 優しく、悟るに早い子であるように。

 そんな思いが込められていた——筈だった。


 けれどそれは、彼の理解よりも先に剥ぎ取られてしまった。


「——ユーゴとおっしゃるのですね。呼び掛けに答えていただき、ありがとうございます」

「突然のことでまだ混乱なさっているでしょうが、どうかご安心ください。貴方のこれからは、私が保証いたします」


 音を残して、その名前からは意味が削られた。


 この世界には、その意味をもたらす言語が存在しない。


 ここには——この世界には、異世界にて与えられた名前の意味など何も残っていなかった。


 しかしそれは、少年の自覚するところではなかった。


 目の前の女性に手を取られ、少年は混乱の渦のど真ん中で目を開いた。


 ここは——自分の生まれた世界ではない——


 ここならば、もう一度理想の自分を手に入れられるかもしれない。


 この人とならば——もう少しだけ生きてみてもいいかもしれない————


 これが、少年と女王の出会いだった。




「————ので————では、私達はまた外へ。行きましょう、ユーゴ」


「——っ。お、おう」


 どうやら話は終わったらしい。

 少年は声をかけられて初めてそれを理解した。


 いつも通り、その女性の願いの通りに戦う。少年にはそれ以外はどうでもよかった。


 少年らはまた街の外へと繰り出して、そして薄茶色の大きなネズミの怪物を退治し始める。


 だが、その全てを少年ひとりで受け持つのを周囲はどう思うかなど、当の本人には関係無かった。


 自身の戦いが周囲にどういう影響を与えるのか、その女性の企て——理想など、少年自身は理解出来ていなかった。


「——フィリア」


「っ。ここも……ですか。お気を付けて」


 難しい理屈は必要無かった。

 大人の事情というのにも興味が無かった。


 ただ——その人の為になればいい、と。


「——はぁあ!」


 魔獣を蹴飛ばす度、倒す度に、達成感を覚えた。


 それと同時に、大きな自己嫌悪も抱いた。


 そのふたつは背反しているようだったが、しかしそのどちらもが互いに大きく作用し合っている。


 少年には苦い思い出がある。

 そして、それが原因で命も終わらせてしまっている。


 故に——自らが強い立場となって他者を踏み付けることに、どうしても快感を覚えずにはいられなかった。


 少年には優し過ぎる心がある。

 ならば、その快感が醜いのだと自覚せずにはいられない。


 かつて自分があんなにも嫌がった暴力を、今は自分が振るっているのだ、と。

 怯えずにはいられなかった。


——故に、少年はひとつの理想に身を預けることにした。


 それは、大切な人の為に——というもの。


 どうやら自分を救ってくれたらしい女性に——こんな自分に手を差し伸べ、居場所を与え、頼りにしてくれているフィリアという女性に、彼女から貰った力を以って恩を返そう、と。


「——うん、終わった。フィリア、もうここにはいない。次のとこ行くぞ」


「はい。お疲れ様です、ユーゴ」


 その人が笑ってくれるから。

 その人が微笑みかけてくれるから、喜んでくれるから。


 それは恋慕ではない。

 一度ぐしゃぐしゃに壊れてしまった少年の心には、複雑な感情はまだ芽生え得ない。


 けれど、少なくとも好意ではあった。


 魔獣を倒す。魔獣を倒す。

 魔獣を——彼女の障害となるものを、全て打ち倒す。


 盲信的だという考えまでは、少年の中には無かった。

 それが正しいと、習った通りの道徳だと。信じ込んでいた。


「——ユーゴ! 上を——っ!」


「——飛んでるやつ、来たのか。すぐ戻ろう」


 彼女は国を守りたがっている。

 彼女はこの街を守りたがっている。

 彼女は人々が悲しむのを嫌がっている。


 だから——戦う。


 空を飛ぶ怪物を目にして、少年は冷たくなった拳を強く握り込んだ。


——恐怖が消えることは無かった——


 怖かった。

 戦うなど、出来ると思わなかった。

 魔獣などという怪物を相手に、竦まずに立ち向かえる筈が無いと思っていた。


 少年は平和な世界に育ち、安寧など与えられず、もがきながらに死んでいった。


 故に、恐怖には人一倍敏感だった。


 それでも、少年は立ち向かう。


 そうすると喜んで貰えるから。

 そうすることでしか彼女と共にはいられないから。


 その人が女王だと——立場の違う人物だと知ったのは、薄暗い地獄から抜け出てすぐ。

 彼女に案内されて大きな建物の中に住むようになってからのこと。


「——ユーゴ——剣を——っ!」


 そんな彼女と共に立つには、戦う以外には無い。

 彼を奮い立たせるのはそんな強迫観念だけ。


 強者と戦うなど、望むわけもない。

 だが、強敵を倒せばその人は喜んでくれる。その人の理想に一歩近付く。ならば——


 少年は剣を受け取り、そして建物の壁面を駆け上がった。


 こんなことも出来るのか——と、やってみせてから少年も自分の力に驚いた。


 自分には不可能が無い。

 そう錯覚してしまいそうな無敵の力を握り締め、少年ユーゴは空飛ぶ魔獣を斬り捨てる。


 大勢が見守る中で、遠くから飛来するその化け物を退治し続ける。これで——


「——終わりだ——っ!」


——彼女に手を取って貰えるのなら——


 少年は全ての魔獣を撃退した。


 労いの言葉は、その場の誰よりも先にその女性がかけてくれた。


 ただ、この瞬間の為に。


 嬉しさも達成感もひた隠しにして、少年は冷たい態度を貫いた。


 それがかっこいいのだと、アニメの世界で習ったから。ただ、それだけの理由で。

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