第五話【一歩目】


「————起きてください——陛下——女王陛下——」


 明朝、私は女性の声によって起こされた。


 ふんわりと明るい、少しカールした長い髪の女性。

 私の顔を覗き込む瞳は、空のように青くて。そして、その声は少女のように澄んでいて。


「——リリィ——ああ、いけない。眠ってしまいました」


「おはようございます、陛下。昨日はお疲れ様でした」


 リリィ=クー。

 パールの妹で、彼女もまた私の秘書を務めてくれている。


 パールよりも歳が近く、幼い頃は立場の差など無かったから、彼女とは友人のような関係を築けていた。


 陛下——と、そう呼ばれるようになった今でさえ……


「……リリィ……すぐに……ふふ。すぐに抱き着くのはやめてください」


「今朝は冷えますから。こんな薄い毛布一枚では風邪を引いてしまいます」

「パールも気が利かなくて、我が兄ながらお恥ずかしいです」


 陛下。と、重苦しい呼び名の割に、彼女は私を抱き締めて頬を寄せた。


 正直、この距離感は子供の頃から苦手だった。

 けれど……嫌だとは思わない、むしろ心地良いと思った。


 友人らしい友人など他にいない幼少期だったが、彼女とパールがいればそれで十分だと思えるほどに。


「——眠ってしまった分、今朝は早くから取り掛からなければなりませんね」

「リリィ、お茶を淹れてください。熱くて渋い、目の覚めるものを」


「かしこまりました、陛下」


 昨日は吸血鬼を——危険だと思っていた、思い込んでいた吸血鬼を討伐に向かって……そして、それが無害なものだと知った。

 洞窟に住まう吸血鬼には、人を——国を害そうという気配は無かった。


 彼の言葉を信じるのなら、その長寿さは間違いなく人間のそれではない。

 れっきとした吸血鬼——異常な生命ではあったのだろう。その名は……


「……カスタード……? いけない、名前を忘れて……」


「カスタード……プリンがご所望ですか? 渋いお茶に合う、甘い一品をご用意します。少々お待ちください」


 ああっ、そうではないのです。

 ええと……カスタードクリーム……ではなくて……


 とにかく、伯爵と名乗る吸血鬼には、特別な力がいくらか備わっている可能性が高い……と。

 虚言癖が理由で街を追い出された男……というのでなければだが。


「……それにしても、ユーゴの力には驚かされます」

「単純に力が強いというだけでなく、どうやらものの真贋を見極める……いえ。真なる答えを選び抜く嗅覚か、或いは天性の運をも持ち合わせているようでした」


「運……ですか? 陛下ともあろうお方が、随分と珍しいことをおっしゃいますね」

「魔術に携わる人間は皆、裏付けの無い曖昧な言葉を嫌う印象がありましたが」


 それはやや偏見が過ぎますが……しかし、私の知る術師は皆、運という言葉を嫌っていた覚えもある。

 彼女の印象も間違ってはないのかもしれません。


 けれど同時に、そこで止まってしまうものもまた、術師として必要な要素を欠いているとも……術師の話はしていませんでしたね。


「……彼には特別な力がある。その特別さは、何かに裏打ちされたものではありません」

「漠然とした式と、因果だけで成り立った虚構の力」

「故に、ユーゴの中にはまだ多くの能力が——本人も自覚していない、まだ発露していない能力があるのかもしれません」


「それが、直感という形で漏れ出ているかもしれない……と」

「うーん……幼い頃は陛下と共に術を学んだものですが、しかし今となってはもうサッパリ」

「才能が無いと、早い段階で見限られて良かったのかもしれませんね」


 彼女は皮肉を言ったつもりも無いのだろうが、しかし少しだけ眉をひそめて笑った。

 無自覚な後悔がある……のだろうか。


 仲が良かったから、偶然近くにいたから、私のやる気を少しでも向けさせたかったから。


 理由など、後から考えても仕方がないけれど。

 でも、きっとそういう大人の企みによって、リリィは私と共に魔術を学び始めた。


 けれど、私がそれにのめり込んだ頃。

 師事していた術師五人は、リリィにその道を諦めるようにと言い始めた。


 今にして思えば、もうお前の役目は終わったのだと言っていたのかもしれない。

 望んだ通り、私が魔術の道へと足を踏み入れたから。


「……才能というのならば、貴女よりも抜きん出た人物はそういませんよ」

「知っていますか? 術師にとっての最大の才能は、好奇心の高さと倫理観の破綻なんですよ?」

「貴女はずっと、私よりも活発で、好奇心が旺盛でしたから……」


「でしたらなおさら、陛下ほど向いている方もいらっしゃいませんね。倫理観、大変ですから」


 えっ。

 お茶とプリンが準備出来ましたよ。と、優しく笑うリリィに、さっくりと酷いことを言われてしまった。


 わ、私の倫理観が……大変……?

 いえ、世間とズレているという自覚は……多少なりともありますが……


「陛下。昔の話より、今日と明日の話です」

「昨日の一件で、キェミン山の安全が確保されました」

「それと同時に、自然環境の現状も完全に把握出来たと言えるでしょう」


「っ。そ、そうですね。もうあの近辺には、めぼしい脅威は残っていない。であれば、魔獣がまた繁殖する前に手を打ちましょう」


 先ほどまで人懐っこい笑顔を向けていたリリィが、ぴりっと真面目な顔でペンとインクを運んで来てくれた。


 そうだ、和んでいる場合でも落ち込んでいる場合でもない。

 私に——この国に、そのような暇は無いのだから。


 ユーゴを召喚してから今日まで、彼には多くの魔獣を狩って貰った。

 それこそ、森林のひと区画では収まらない、国の一画を丸ごと綺麗にするように。


「——では、ここに。ラピエス地区での軍事拠点建設を決定します」

「もう二度と、魔獣にも野盗にも荒らさせません。軍を派遣し、徹底した統治を」


「即刻手配いたします」


 私の目的は、この国の完全なる復興。


 魔獣を排し、罪人を捕らえ、魔人なるものを発見して淘汰する。


 その第一歩——あの吸血鬼の住まう山の近辺、そこから街三つと河川一本。

 さらに複数の集落と未開地を含めた、ラピエスと呼ばれる一区画を、魔獣の脅威から解放された地点として楔を打つ。


 これが、一歩。ここから私は、この国を——


「————では、私はまたユーゴと共に出ます。後のことは任せま——」


「——任されません。ちゃんと書類仕事も終わらせてから、お願いします」

「もう、昔からの悪い癖ですよ。ほら、ちゃんと椅子に座って。お茶ならいくらでも淹れますから」


 一歩……一歩が踏み出せない……


 立ち上がったばかりの私の肩を掴んで、リリィは容赦無く椅子に縛り付けた。


 分かっています。それも大切な仕事で、大切な使命だということも。

 ですが、それはそれ、これはこれ。私がユーゴを率いて進まねば、国は解放されぬまま。


「書類仕事ならリリィに任せても平気でしょう……っ。パールなら、優先順位を分かってくださるのに……」


「ダメです。陛下の仕事は陛下の仕事、私が代わりになんて出来るはずもないでしょう」

「それと、パールにも同じことをおっしゃってますよね。多分ですけど」


 うっ。

 多分……と、聞いたわけでもないのだろうに、その眼には確信がこもっていた。


 信用が……幼馴染だというのに、信用が無い……


「遠くばかりを見ず、目の前の一事からこなしてください」

「陛下の眼力は確かです。陛下が未来に何かを望めば、それは必ず実現するでしょう」

「少なくとも、私はその事例を二度、目の当たりにしています。ですが……」


「……分かりました。では、せめてその紙の山を見えぬところへ持って行ってくださいませんか……? その……気が滅入ります……」


 これは気が利きませんでした。と、リリィはまた無邪気な顔に戻って、そしてすぐに書類の山を別室へと運んで行った。三回も四回も往復して。

 果たしていつになれば終わるのだろうか。


 どれもこれも、承認のサインをするものばかりなのだから、やはり私でなくとも……


「陛下。キチンと目を通してから、お願いしますね」

「もし万が一、下手な申請が通りでもしたら、せっかくラピエスを解放したばかりなのに、此処が暴徒の巣窟になってしまいますよ」


「…………せめて……せめて手伝っていただけませんか……?」


 私の仕事は陛下の補佐。書類の内容についての相談は受け付けますが、しかし分担して幾らか受け持ったりはしませんよ。

 と、彼女はさっき持って出て行ったはずの紙の山を、また私の机の上に運び込んでしまった。


 ああ、これ以上は怒らせてしまうらしい。

 せめて……せめて終わりの見える量であるか、見えぬのならば最初から見えない場所に置いて欲しかった……



 結局、その日はユーゴに食事を運ぶ時以外は机の前から動けなかった。


 ユーゴがまだ私以外を部屋に入れたがらないから——私も嫌がられはするのですが、他のものよりは幾らかマシなので。

 この日ばかりは、ユーゴのわがままと人嫌いに感謝しましょう。


 もう、足が痺れて腰がバラバラに砕けそうで……


「ユーゴ。食事を持ってきました。入りますよ」


 少し、声が浮かれてしまったかもしれない。


 けれど、彼がそれを気にする様子など、毛先ほども見られなかった。

 やはり、彼は他者に興味が無いのだろう。或いは生前の彼は……


「おい、フィリア。明日は戦いに行けるんだろうな」


「うっ……あ、明日は……明日も……」


 デブ。出てけ。と、ユーゴは思い切り顔をしかめて私にそう吐き捨てる。

 やはり彼の興味は、自身に与えられた特別な力にしか向いていないようだ。しかし……デブ……


「……あっ。お戻りになられましたね。どうでしたか、ユーゴ少年の様子は」


「……大層、不満げでした」


 私がこうして書類仕事に囚われれば、ユーゴはどんどんヘソを曲げてしまうだろう。

 いつか、戦うことにさえ興味を失ってしまうかも。


 しかし、ユーゴの機嫌を優先して書類仕事を投げ出せば、今度はリリィとパールに呆れられてしまう。


「……どうあっても最後には通らねばならないのですから……っ。リリィ、インクの補充をお願いします」


「かしこまりました、陛下」


 ならば、私に出来ることはひとつ。

 この紙の山を出来る限り最速で片付けること。


 指の感覚はもう無いが、しかしペンは手と同化したようにするすると紙の上を走った。

 明日こそはユーゴを連れて外へ。これ以上拗ねてしまう前に、毒気が増す前に…………


「……リリィ。つかぬことをお伺いします。その……私は、太っているでしょうか……?」


「……? 陛下は表情も固く、感情の起伏が表に出にくい方なので。もう少しもっちりするくらいで良いと思います」


…………それは、遠回しに肯定している……と、受け取るべきだろうか。

 やはり、私は……

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