華氏百度/或いはなんか……修羅場かも

 アリスがハンナの部屋に到着すると、もうクレアとサクラコの二人が熱を出したハンナを看病しているところだった。額に氷枕を乗せ、体温計を脇に挟んでベッドで休んでいるところだった。

「アリスちゃんもお見舞いに来てくれたの? やー、皆に伝染うつしちゃったら申し訳ないよ……ありがとうね」

「ただの風邪やから大丈夫やって。えーと熱は……ひゃ、百度??!」

 ハンちゃん、沸騰してまうやん!

 あー、たぶん、華氏度?

「摂氏でいうとえーと、だいたい三十八度行くか行かないくらい……だから大丈夫」

「ほんまに?」

するとサクラコがピタリと額を寄せて熱を測った。アリスとクレアは黙っていたが無意識にその目を見開いていた。

「まあ確かに、さっきより下がっとるかも」

「ハ、ハンナさん、わたし飲み物とかチキンヌードルスープとか買ってキマシタ」

「ありがとー。いまサクラコがおかゆ作ってくれたから、あとで食べるね……」

サクラコは粥をふうふう息で冷まして、蓮華で掬って「あーん」させた。

「はい、ハンちゃん、あーん」

「あーん」

ハンナは赤ん坊のように大人しくもぐもぐした。ベッドの反対側からクレアはハンナの額に冷却ジェルシートを貼った。サクラコも負けじと「あーん」を繰り返して、クレアは「汗を拭くわね」と言ってパジャマの上着を脱がせた。アリスは熱に上気する汗ばんだハンナの肌についドキッとしてしまった。

 それでも痩せ細った身体はちょっと気の毒に感じた。ハンナは小声でうめき声のように、アリスに向かって二人だけに通じる双子語で(なんか、これ……修羅場かも??)と囁いた。

「く、クレアさん、サクラコさん。ハンナさんもちょっと疲れちゃったようデスシ……少しキッチンで色々準備シマセンカ?」

察したアリスが助け舟を出して、ハンナはちょっと安堵した。


 台所キッチンで三人はお湯を沸かしながら、チキンヌードルスープの準備だとか、冷蔵庫の飲料や氷菓、アイスクリームの在庫の確認をしていた。

「冷蔵庫の中、ほとんど何もない。せいぜいプディングとかアップルソースとか」

「ちゃんと食べとる感じせえへんもん。あんなに痩せっぽっちで、なんか精のつく――滋養強壮になるもんを食わんと、よくならんのとちゃうの」

ハンナは子供の頃にバレエの稽古を受けていて、体型を保つためにダイエットするクセが付いていた。それは【記憶喪失】して今の人格になってもあまり変わらないようだった。

「アリスちゃんが買ってきてくれたのも冷やしておくとして、足りないものは後で私も買ってくるわ」

サクラコは果物ナイフでまな板も使わずに手のひらの上でサクサクと赤いリンゴを切って、それから皮をウサギの形に整えた。

「かわいい、それ」

「そやろ?」

切ったリンゴに塩水を薄く塗布して、変色を防いだ。三人は一つずつウサギのリンゴを食べて、口の中で「しゃくしゃく」と音がした。サクラコが果物ナイフをプラスチックの鞘にしまって、「ぱたん」と冷蔵庫の扉を閉じるとクレアが口を開いた。

「いったん、確認しておきましょうか」

カクニン?

「私はハンナの親権さえ手に入ればいいけど」

シンケン??

「うちは別にハンちゃんの二番目でもええと思っとるよ」

ニバンメ???

 自身のマニフェストを表明したクレアとサクラコは「じっ……」とアリスのほうを見た。沸騰しかけていたケトルがカタカタ鳴り出していた。

「……エット……ワタシはただ……ハンナさんともっと仲良くなれれば……」

アリスの返答にクレアの表情がちょっと弛んで、ヤカンの口が「ピーッ」と鳴った。

「もう二人とも、すっごく仲良しじゃない。私がちょっと嫉妬しちゃうくらいに」

「こ、子供扱いしないでクダサイ」

クレアが慈母のように微笑んで言ったので、アリスはちょっと「ムッ」として答えた。クレアは沸いたケトルの火を止めて続けた。

「私はハンナをもう失いたくないの」

「ウチかてそうや。戦争でヨーイチさんも居らんくなってもうたし……」

ハンナの父親のヨーイチはイラク戦争の取材で行方不明になった。それに加え当時バレエのコンクールでの入賞を逃したことも相まって、塞ぎ込むようになり……自殺未遂を起こしたことがあった。【記憶喪失】したのもその時だ。

「私も、ハンナさんと居ると安心シマス」

 三人はそれぞれハンナとのキスにまつわる思い出があった。クレアは【記憶喪失】する前のハンナに思わずキスしてしまった引け目があって、サクラコは【記憶喪失】した後の別人格の「ハンちゃん」に口づけし、ハンナをキス魔にした原因を作り、そしてアリスのファーストキスの相手は、そのハンナであった。

 それぞれの思惑はあっても、ハンナのことを大切に思っていることは同じだった。

「なるほど、それぞれのゴールが微妙に異なっているわけね……であれば、協力していきましょう」

三人はそのラインで大方合意した。


――それで、それから三人はハンナの看病に戻ったが、熱で朦朧としたハンナに三人ともキスされて……後日、同じように仲良く熱を出した。

「風邪って人に伝染うつすと治るって本当だったんだねー」

人の気も知らず、キスしたことも覚えておらず……何もなかったかのように三人の看病をするハンナは、何の気なしにそう言った。

 三人は、すりおろしリンゴ蜂蜜を「あーん」されつつ……(ああ、もう、これだからこの人は!)発熱か恋慕の情かその顔を真っ赤にしながら、目の前の朴念仁を見て、アリスはそう思った。

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