第18話 プールサイドの蚊取り線香(18日目・蚊取り線香)


その日、宗也そうや満寛みちひろは隣町にある屋内の市民プールに来ていた。初めて来たのだが、水泳のテストに備えて練習する為である。

「宗也は水溜まり苦手な割に、泳ぎ上手いし得意だよな。水に入るのは平気なのか?」

八コースまである、二十五メートルプールのプールサイド。そこで揃って準備運動をしながら、満寛は隣にいる宗也に尋ねる。宗也は困ったような表情で、空を見上げた。

「苦手だから、水泳だけは特訓したんだ。水に入っても、溺れたりパニックにならないように。でもいきなり落ちたりしたら、やっぱり焦っちゃうけどね」

「早々出来るもんじゃないだろ。そういうの」

「そうかな。ありがとう。満寛も、練習熱心なの凄いと思うよ」

宗也は満寛を見て笑ってから、ふと視線を彷徨わせ、プールサイドの隅に目を留めた。渦巻き型のよくある蚊取り線香が、剥き出しで焚かれている。満寛もそれに気付いて、怪訝な顔をした。

「水場に蚊取り線香?」

「そんなに蚊が多いのかな」

宗也はその蚊取り線香の前に屈んで、昇る煙をじっと見ている女にも気付いた。薄い紺色の浴衣に、ボサボサの長い黒髪。こちらに背を向けていて、顔や表情までは分からない。女はしばらく蚊取り線香を眺めると、ふらりと立ち上がって歩いて行く。宗也がそれを目で追えば、彼女はフラフラと、次の隅まで来て屈んだ。女越しに、細く煙の白がたなびいているのが微かに見える。

(四隅に蚊取り線香があるんだ)

女はしばらくするとまた立ち上がり、今度は宗也たちとは対角の隅へ歩いて行く。プールが広い為、女は遠くなったが、陽炎のような紺色は直ぐ捉えられた。女が四隅を一周して来そうなところで、宗也は満寛を促して水に入る。満寛には、浴衣の女は視えていないようだった。満寛が泳いでいる間、宗也は時折プールサイドを伺う。女はプールサイドの四隅を、ぐるぐる回り続けているようだ。

(水に入って来ないようにしてるのか)

宗也はその考えに至ると、ゾクリとして固まる。そう思えて仕方なかった。時々、スタッフがやってきては、蚊取り線香を絶やさないようにしているのも見えた。誰も、浴衣の女には気付かず、見向きもしない。それを見てしまった後は、宗也はもうプールサイドを見ないように努める。

(ああするまでの何かがあったとか、絶対考えない……)

大きな市民プールの割に、このプールにはあまり人が居ないことの意味を痛感しながら、宗也は黙々と泳いだ。




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