第78話 波打ち際




 私の呼吸が完全に落ち着くまで待ってから、明さんはもう一回、後悔しないか確認してくれた。



 私が小さく、でもちゃんとうなづくと、それを見た明さんはさっきより強く私の手を握った。



「行こ……」



 やさしいけど積極的な声で言われ、もう一度うなづいた。それ以上はお互い何も話さず、来た道を少し足早に戻っていく。あの路地への角を曲がると、同じ目的の人たちとまばらにすれ違った。興味本位で見てくるその視線に気づきたくなくて、明さんの体で顔を隠し、引かれる手を頼りに、地面だけを見てホテルの部屋までついて行った。




 部屋の中に入り明さんが鍵を閉め、ようやくしっかりと顔を上げる。目に映る部屋は想像していた感じとは違って、普通のホテルと特に変わらなかった。だけど、右の方から何か不思議な圧を感じた。その方向へ視線をちょっと移してみると、ベッドの枕元の壁が一面鏡になっていた。それを見た私は思わずバッグの持ち手を強く握った。



 そんな私の後ろで、明さんは扉のすぐ近くのクローゼットに脱いだジャケットをかけた。ゆっくり振り返り目が合うと、私に軽く微笑んだ。



「お風呂入ろっか?」

「は、はい……」

「一緒に入る?」

「えっ!それはちょっと……」

「ハハ!だよね。じゃあなおちゃん先に入る?」

「いえ……明さん先に入って下さい……」

「分かった」



 明さんがバスルームに入っていくと、すぐに奥からこもったシャワーの音が聞こえてきた。

 


 その音を聞きながら、大きな鏡に映る自分を真正面から見た。

 まだ未練を消しきれていないその顔が気に入らなかった。私は鏡から目をそらし、明さんが出てくるまで何もせずにただベッドに座って待っていた。



「ごめんね、お待たせ!」



 突然ドアが開いて顔を上げると、明さんがバスローブ姿で立っていた。ドラマでしか見たことのないバスローブを初めて生で目にして一気に緊張が増した。



「……そうゆうのって、やっぱり着るものなんですね……」

「あ、うん。シャワー浴びて服着るってのもアレだし、何かと便利だしね」

「…………」 

「ほら!ここにあるからなおちゃんもシャワー浴びたら着な」



 明さんは一度閉めたバスルームのドアをもう一度開けて、バスローブの置き場所を教えてくれた。



「あの……質問してもいいですか……?」

「なに?」

「……それって、裸のままで着るものですか……?それとも、下着の上から……」

「別に好きなようにでいいと思うけど、私はそのまま着てる」

「……そ、そうなんですね……」



 ということは、明さんは今、あのバスローブを脱いだら裸ってことだ……。当たり前のことを想像してまた少し動揺した。



「でも、しいて私の希望を言うなら……下着の上に着てほしいかも……。下着姿のなおちゃん見たいし、それに、私が脱がしたいから」

「……ごめんなさいっ!!とにかく入りますねっ!!」



 自分の中で色んなことがキャパオーバーになり、緊張のバロメーターの針が完全に振り切れてしまった私は、逃げ込むようにバスルームに入ると、バタンッ!と強めにドアを閉め鍵をかけた。



 あんまり待たせちゃいけないと急いだつもりだったけど、シャワーを浴び、メイクを直したり、髪を直したりしてバスルームの時計を見ると、私が入ってから小一時間も経ってしまっていた。




 どうしよう……あまりに遅くて明さん怒ってるかな……?と恐る恐るドアを静かに開けると、明さんはさっきまで私が座ってた同じ場所に座っていた。



「あっ……あの……色々してたら遅くなっちゃって……ごめんなさい……」

「全然大丈夫だよ!」



 全く気にしていないように返事をしてくれた明さんの手には、缶ビールが握られていた。



「あ、ごめんね!手持ち無沙汰で飲んじゃってた。なおちゃんもちょっと飲む?」

「……うん。私も少し飲もうかな……」

「うん!おいで!軽く飲も!」



「おいで」と言う言葉にまた異様に緊張しながら、ゆっくりと明さんの元へ歩いた。



「ビールでいいの?」

「……うん」



 小さな冷蔵庫からビールを取ってくれた明さんはベッドに腰掛けると、自分の隣をポンポンと叩いて、私の座る場所を指示した。



 明さんが叩いた場所より少しだけ離れて腰を下ろすと、明さんは持ってきてくれたビールを手に持ったまま、



「もう少し近くにきてほしいな」



 と言った。私は何も言わずに言うことを聞いて少し距離をつめた。すると、そのご褒美のように明さんはビールを手渡してくれた。



 さっきまでの酔いはいつのまにか驚くほどすっかり消えていて、私はまた早く酔ってしまいたくて、乾杯と同時に350mlの缶ビールの半分を一気に飲んだ。



「だっ、大丈夫!?」

「……はい」



 私の飲みっぷりを見て、明さんもそれにつられるように残っていたビールを一気した。それを見て、また私は残りのビールを飲んだ。



「それ、今日二十歳になった子の飲み方じゃないから!」



 私のおかしい飲み方に明さんは大きな声を出して笑った。部屋に入ってからずっと強張っていたけど、その笑顔に少しだけほっとして、ふぅ……と息を吐く。



「……緊張してる?」

「…………はい」



 私が目を合わせずに答えると、



「……ごめん、なおちゃん、……そうゆうことする前に、私もなおちゃんに話したいことがある」



 と、いつになく神妙な面持ちで明さんが言った。私は理由わけも分からず不安な気持ちになった。



「……なに?」

「ついこないだ、3日前かな?……個人の仕事でテレビ局に打ち合わせに行ったって電話で話したでしょ?」

「……うん」

「仕事くれた企画部長の人、30代半ばの女の人で、男ばっかりの業界の中でバリバリ仕事してる人なんだけど、前にも何度かオファーもらったことあってね、その打ち合わせの度に毎回食事に誘ってきて、付き合いだから毎回行ってたんだ」

「うん……」

「初めはけっこうな人数で……、その次は3〜4人くらいで、3回目は二人きりだったの。……別に食事するだけで何もなかったんだけど、なんとなく、二人の時は仕事の延長線上っていうのとは違う雰囲気でさ、やたら触ってきたり、ちょっと下ネタ的な話してきたり……。そしたら、案の定こないだもやっぱり誘われて……。でも私、その時初めて断ったんだ。多分、今回はきっと何かしてしそうだと思って。そしたらね、その人、手のひら返されたようでムカついたのか、自分との関係を持たないと、これからは来た仕事全部他の人に回すって言われて。逆に、自分といい関係を築くつもりがあるなら、これからもずっと可愛いがってあげるし、もっと上の人にも紹介してくれるって、はっきり言われたの」

「……そ、それで……?」

「じゃあもう一切仕事回してくれなくていいです!って言った」

「……業界の偉い人なんでしょ……?大丈夫なの?」

「……うん、まぁ……大丈夫すぎもしないんだろうけど、無理なものは無理だから。そんなことで有名になっても意味ないし!……なんてカッコよく言いたいけど……正直、なおちゃんと出会う前の私だったら行ってたかもしれない……」

「…………」

「なおちゃんは私のこと、普通の、ちゃんとした人間みたいに見てくれてるかもしれないけど、私、全然そんなんじゃなかったから……。バンド組んだ14の時から女の子に困ったことなくて、本っ当に最低だけど、今じゃ人数も覚えてないくらい、近寄ってくる女の子がそこそこタイプだったらすぐにエッチしたりしてたし、彼女がいても浮気って言われるようなことも平気でしてた……本当は私、なおちゃんが一番嫌いそうな、不誠実な人間なんだ……」

「…………」  

「……でもね、なおちゃんに出会って変わった。自分でも分かるの……ていうか、自分にしか分からないと思う……。後悔なんてするはずないって言い切ってた過去の出来事に、今は毎日押し潰されそうになってる……。私がもし綺麗な人間だったら、こんな汚い過去がなかったら、そしたら今よりはもう少しなおちゃんに好きになってもらえたのかもしれないって……なおちゃんに会ってからずっと苦しい……」

「明さん……」

「……なおちゃん、こんな私でも本当にいい……?」




 私に尋ねるその目はひどく怯えていた。私に嫌われることが怖くて仕方ないんだと伝わってきた。でも、それでも明さんは、隠していれば分からない自分の見せたくない部分を私にさらけ出してくれたんだと思った。



 それは多分、私のことを本当に好きでいてくれてるから。中途半端じゃなく、本当の意味で私と繋がりたいと思ってくれてるから。

 だから怖くても正直にありのままの自分を見せてくれたんだ……



 本当にこの人は私のことが好きなんだ……



 私は引き寄せられるように明さんの胸に体を寄りかけた。



「いいよ……。そんな明さんでも。……だって、今は私だけを見てくれてるから……」

「なおちゃん……」



 明さんは触れてもいいのかと迷う手で、それでも愛しくてたまらないという手つきで、私のことを包みこむように抱きしめた。



 ……安心する……



 この人といると私は安心が出来るんだ。例え離れていても、その時に何が起きても、この人はきっとこの先も私とちゃんと向き合ってくれる。決して裏切ったりしないし、私の側から離れることもない。それが分かるから安心する。



 過去のことなんてどうでもいい。今、私といる明さんは、私だけに染まって、私のことだけに胸を痛めてくれる。私は明さんがくれる愛の中で溺れたいと思った。



 明さんに包まれていた空間の中からそっと手を伸ばしその首に手を回すと、私は目をつぶりやわらかい唇にキスをした。



 うっすらと目を開けると、明さんは唇が触れたまま、信じられないという顔をしていた。



 私からキスをしたのはこれが初めてだった。



「なおちゃん……?」



 衝撃と感動に固まっている明さんに、私はもう一度キスをした。




 その時、「これでもう本当に戻れないね……」と、自分の中から自分の声が聞こえた気がした……

































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