第75話 誕生日の待ち合わせ



 送別会から8日後の土曜日、少し遅めに目覚めた私は、昨晩とは劇的な変化を遂げていた。



 今日は私の誕生日。

 ついに長かった十代が終わり、二十歳になった。

 



 一時期はあんなに待ち遠しくてたまらなかったこの日だけど、来てみるとなんて平凡な朝なんだろう。



 明さんとの待ち合わせは13時。車で迎えに来てくれる場所までは家から10分くらいで行けたけど、私はその約束の時間より45分早く家を出た。



 明さんと出かける前に、済ませないといけないことがあった。



 あれから毎晩、どう白を切ろうとしても、自分からした約束を放置するという結論はやっぱりどうしても私には出せなかった。



 もしも尾関先輩が今日の約束を覚えていて私をどこかで待っているのなら、はっきりと約束の撤回を伝える。

 どんな状況であれ、今日の約束は私から尾関先輩にお願いしたことなんだから、そうするのは人としての義務だ。



 それが、この一週間悩み続けて出した私の答えだった。



 だけど、デートの前に尾関先輩のところへ行くからといって、明さんを裏切るわけじゃない。このことはもちろんちゃんと後で明さんに話すつもりでいる。明さんはきっと理解してくれるはずだし、後ろめたいことなんて何もない。そう心の中で繰り返しながら、まずは店へと向かった。





 そもそも、もし今日先輩が働いているこなら、約束のことは気にしてなかったという結論でおさまる。しかもその場合は、顔を合わせずに済む。



 出来れはそうあってくれた方がいい……そう思いながら店の前に着くと、ガラスに貼ってあるポスターとポスターのわずかなすき間から店内を覗いてみた。



 私がバイトを辞めてから一ヶ月ちょっとだけど、レジの中はもうすでに知らない子たちばかりで、もはや自分が4年間もバイトをしていた場所とは思えなかった。

 当たり前のように出入りしていた休憩室の扉を目にして、切なさが胸をサッと胸をよぎる。



 パッと見尾関先輩の姿はない。だけど、バックヤードとか店の奥とかにいるのかもしれない。

 本当にいないかどうかしばらく見ていたけど、店内にいるバイトの人数を考えると、やっぱり今日は出勤していないようだった。

 


 私は大きく息を吐き店を離れると、次の目的地へと向かった。






 連絡を取り合わずに私たちが出会おうとするなら、その場所は一つしかない。それは、あの公園前のベンチだ。



 あそこでは数え切れない程の時間を過ごしたし、それこそ待ち合わせも何度もした。初めて私が告白をしたのも、最後に別れたのも全部あのベンチだった。あの場所にはどこよりも沢山の二人の思い出がある。だから、絶対にあのベンチ以外考えられなかった。



 でも実際、本当に尾関先輩が私を待っていたとしても、会う可能性はかなり低いと思う。いくら場所に察しがついても、時間まではさすがに分からない。



 一日のうち、いつ私が現れるかなんて分かるわけないし、例えば先輩がある程度長い時間いたとしても、私自身は今、この時の一瞬しかあの場所へは行けない。



 今行って尾関先輩がいなければ、私はもうそのまま明さんとの待ち合わせ場所に向かう。いくら断る義務があるとは言え、本当に来るかどうか分からない人をずっと待っているわけにはいかない。



 13時までの残り時間を気にしながら、ベンチのある通りへの角を曲がった。土曜日の昼でしかも天気も良く、両側に店舗が立ち並ぶ商店街の通りは、行き交う人が絶えないほどの人通りだった。



 道の左側を歩いて進み、人混みで見えないけど、距離的にはあと10メートルほどというところまで来た。



 すぐ目の前を歩いている人がたまたまプロレスラー並みの体格だからちょうど上手に隠れてるけど、もし今この人が並んだお店のどこかへふらっと入りでもしたら完全にベンチが見える……そう思った瞬間、本当にその人が左へと方向転換をした。



 まだ心の準備が出来ていない私は、とっさにシンクロしてその人の後ろをついて左へ動くと、近くにあった電柱の裏へと隠れた。



 とりあえずは、いるかいないかをここから覗いて確認しよう……。

 少し斜め上を見て、まずは息を整える。さぁ……



 ……パッと見てしまえばいいのに、どうしてかいざとなるとなかなかそれが出来ない。この電柱の裏に来てから何分が過ぎただろう……



 この場所からちょうどよく見える、薬局の店内の壁掛け時計を見た。明さんとの待ち合わせ時間まではもう20分しかない。こんなことをしている場合じゃない。



 私はついに決意を固め、そーっと電柱から顔を出してみた。幅5メートルほどの通りを挟んで右側の道沿いにあるベンチの方を見る。すると、ちょうど通りには数人の若者たちが立ち止まっていて、かろうじてベンチの足は見えるけど、人が座っているかどうかまでは見えなかった。やきもきしながらそこからどいてくれることを念じるように見届けていると、



「早くいこー!!」



 少し怪訝けげんそうに遠くから呼ぶ仲間の声に反応して、ようやくその人達がダルそうにはけていった。それに合わせてゆっくりとベンチが姿を現してゆく……





 ………誰かが……座ってる……






 ………………尾関先輩だ……






 ドクンッ!!と、拳で心臓を殴られたように胸の中に衝撃が走った。一ヶ月ぶりに見る先輩は、最後に会った時から少し髪が伸びていて、私の見たことのない服を着ていた。




 誰が見ても誰かを待っているとひと目で分かるほど、不安気な様子で落ち着かなそうに、右…左…右……と、せわしなく辺りを見回している。



 尾関先輩は2人掛けのベンチの右側に寄って座っていて、その隣には空いている席を確保するように、大きな白い紙袋が置かれていた。目をこらして見ると、その紙袋からはお花が頭を覗かせている……。




 ……覚えててくれたんだ……



 ……約束を守ってくれたんだ……




 打ちつける鼓動はどんどんどんどん速くなっていく。




 ……言わなきゃ……

 今日の約束はなかったことにしてほしいと伝えなきゃ……

 それで、早く明さんの来る待ち合わせ場所に向かわなきゃ……



 そう思ってるのに、もう時間がないのに、足が一歩も前に出ない……。



 私は電柱の陰から、迷い犬のように心許こころもとなそうな先輩を、ただじっと見ていた。 


 


「……尾関先輩……」



 その名前を声に出してしまったと自分で気づいた時、同時に涙がこぼれ落ちたことにも気づいた。




 だめだ……私……尾関先輩に会いたい……




 ……はっきりとそう思ってしまった。



 もうこの涙の言い訳なんて出来なかった。こんな気持ちのまま目の前に出て行って、私は先輩になんて言ったらいいんだろう……もうすぐ迎えに来る明さんになんて言ったらいいんだろう……



 なんにも分からないまま、なんにも決められないまま、ただ今すぐ会いに行きたくて、私は電柱の裏から一歩を踏み出そうとした。




「……尾関先ぱ……」

「きみかー!!」




 その時、後ろから私の涙声を完全にかき消す高いトーンで、先輩の名前を呼ぶ声がした。直後に私のすぐ横を、明るいピンク色の髪をした女の人が通り過ぎていく。




「おまたせー!待った?」



 出かけた体を電柱の裏にまた隠して、その後ろ姿を目で追った。



「もも!」



 短いスカートのその女の人に気づくと、今度は先輩が名前を呼んだ。尾関先輩が私以外の人のことを呼び捨てで呼ぶのを初めて聞いた。



 その女の人は背中を向けていて顔は見えないけど、相当綺麗な人なんだろう……。見たことないほど緊張した様子でかしこまって話している先輩の顔で、そう予想がついた。



 その人が尾関先輩の右側に腰掛けると、先輩は大切そうに紙袋から大きな花束を取り出してその人に渡した。




 ……心の底から恥ずかしかった。

 恥ずかしくて、痛くて、苦しかった……




 ……私じゃなかったんだ……




 尾関先輩は誕生日の約束どころか、私のこと自体、もうすっかり忘れていた。



 私のいない新しい生活の中、新しい服を着て、私の知らない誰かとデートしてる。



 それも、つい一ヶ月前に私を好きだと言ったあの場所で……

 二人の思い出がいっぱいつまったあの場所で……




 前にくれた私へのプレゼントはキーホルダーとぬいぐるみだったけど、大人の女の人にはちゃんと花なんて贈るんだ……。




 そんなことも知らなかった。




 視線の先の先輩をもう一度見る。

 本当に嬉しそうな顔をしている。



 私は一人で泣いているのに、尾関先輩はその人と笑い合ってる。



 私は涙を拭うと、電柱の裏から出てそのままベンチの方へと近づいていった。



 まだその人に照れ笑いを続ける先輩は、目の前を通り過ぎる私に気づきもしなかった。




 熱くあぶられた焼印を押し当てるようにその痛みを心に焼きつけて、私は明さんとの約束の場所へ向かった。











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