尾関 きみか

第68話 前を向いて




「おはよーございまーす……」

「おっはよー、尾関」

「あっ!尾関ちゃん!おはよう!」



 眠い目をこすりながら休憩室に入ると、そこにはあんなさんと香坂さんがいた。



 テーブルに向かい合って座る2人を見た時、何よりも真っ先に目に入ってきたのは、香坂さんの足元の白いギプスだった。



「香坂さんっ!足!そんなにヤバかったんですか!?」

「あ……うん……結局折れてたみたい」



 見るからに痛々しい大怪我だというのに、香坂さんは照れながら少し嬉しそうに笑っていた。



「折れてた!?えー!うわぁ……なんてゆうか、お大事にして下さい……」

「うん、迷惑かけてごめんね……ありがとう」

「尾関!香坂ちゃんしばらくレジ立てないからさ、治るまで事務的なこと手伝ってもらうことにしたから!」

「そっか、それがいいですね……」

「無理言ってすみません、こんな状態なのに、出来ることがあれば出たいなんて言って……」

「いや、ちょうど片付けたいこと色々たまってたから逆に助かるよ!」

「そうですよね、バックヤードの店長の机の上、長年なんかの研究に取り憑かれた学者かってくらいひどいですもんね……」

「てゆうか、本当に研究してるから」

「なにを?」

「………宇宙とか」

「うそつけ!!」



 香坂さんは抱きかかえていた松葉杖の表面を手で叩いて、楽しそうに笑った。



 夕方、上がりの時間になって帰り支度をしていると、ガンッ…カンッ……と休憩室の扉に外から何かがぶつかるような音がした。一瞬ビクッとしたけど数秒ですぐに察しがついて、私は中から扉を開けた。



「あっ、ありがとー!」

「松葉杖使いながらこんな重い扉開けるのなんて無理ですよ、言ってくれれば開けますから!」

「扉くらい開けられると思ったんだけど……」


 

 付き人のように扉を抑え、使い慣れない松葉杖で香坂さんが一歩づつ目の前を通り過ぎていくのを見守る。そして完全に体の全部が休憩室の中へと入ると、静かに扉を閉めて先回りをし、一番手近なパイプイスの背もたれを引いて香坂さんを座らせた。



「ふぅー……助かるー、ありがとう。やっぱりきみかちゃんは優しいね」

「いや、この状況誰でもそうしますって。しない奴がいたら、そいつはたぶん人の皮を被った鬼ですよ」

「てことは、その人はコンビニでバイトしてる鬼ってことだよね?なんかそう思うとちょっと憎めないね」

「確かに。よりによって接客業を選ぶ鬼って、ちょっといいヤツっぽいですよね。しかもコンビニなんてほかのバイトに比べて時給低いのに……」

「そうだね!お金より大切なものがあるってこと悟ってる鬼だもんね!」



 私たちはただの同僚としてくだらないことで笑い合った。そうしていると、あの日私の部屋で起きたあの出来事は現実じゃなかったように思えてくる。



「あっ、そうだ!……あの、きみかちゃん、今日この後なにか予定ある……?」



 ……のはずが、香坂さんのその言葉で条件反射のように体が固まった。



「…………えっと……」

「あっ!違うの!安心して!!そうゆうんじゃないから!改めて色々きちんと謝りたくて!こないだは娘のことがあって結局ちゃんと謝れなかったから……。それに、他にも少し話したいことがあって……。もし嫌じゃなかったらでいいんだけど、すぐそこの喫茶店で軽くお茶くらい……どうかな?」

「……そうゆうことなら……」



 私たちは一緒に店を出ると、歩みに難のある香坂さんの事情を考慮して、ほんの数m行ったところにある、店から一番近い喫茶店に入った。



 この街に私が引っ越して来た時からすでに古めかしかった、おそらく個人経営であろうその喫茶店は、入ってみると入口の印象とはだいぶ違った。



 テーブルや長椅子はやはり年代モノといった感じだったけど、目に映る店内は隅まで掃除が行き届いている様子で、清潔ですごく綺麗だった。



 壁には大きな水彩の抽象画が飾ってあり、棚には欧風の様々な置物が均等間隔で几帳面に並べられている。姿を見る前から、オーナーは仕事の出来る人だと感じた。



 席はどこもゆとりのある作りで、骨折した足を引きずる香坂さんも座りやすそうだった。



「ここ外からはいつも見てたんだけど初めて来ました」

「私も初めて!なんか外の喧騒けんそうが嘘みたいに別世界って感じだね?タイムトリップしたみたい!」

「ほんと、冒険してみるもんですねー。絶対ここのコーヒー美味しいですよ!飲まなくても確実ですね!」



 早速店員さんを呼んで注文を済ませると、5分ほどで古い木のテーブルの上に2つのコーヒーが置かれた。



 一口飲んで、そのレベルにお互い小さな唸り声をあげる。そしてカップを再びテーブルに置き、ほっと仕事終わりの一息をついた。すると早速、香坂さんは本題に入り話し始めた。



「……何度もしつこいかもしれないけど、本当に色々とごめんなさい」



 足のせいで少し不便な体勢になるにも関わらず、香坂さんはしっかりと頭を下げて私に謝った。



「……私、本当にここのところどうかしてた……。でも、やっとちゃんと目が覚めたの」



 ゆっくりと顔を上げ、手持ち無沙汰の両手の指先を熱いコーヒーのカップに軽く当てながら、まだうつ向き加減の角度で香坂さんは言った。言葉の通り、その口調はつい数日前までのあの香坂さんとはあきらかに違っていた。



「娘さんのおかげ……ですか?」

「……うん。あの日も本当にありがとうね。お世話になったのに、私、きみかちゃんに酷い態度とったよね……?気が動転しててあんまり覚えてないんだけど……それも、本当にごめんね……」

「全然気にしてませんから大丈夫ですよ」

「……店長が、きみかちゃんのおかげだって言ってた。初めにまどかのこと見つけて話しかけてくれたの、きみかちゃんだったんでしょ?」

「あー、まぁ…。でもほんと最初に話しかけただけで、あとはもう店長がずっと面倒見てましたから……」

「あの子、将来が心配なくらい引っ込み思案で人見知りなの。だから、きみかちゃんから話しかけてくれなかったら、永遠とただウロウロするばっかりで、危ない目にもあってたかもしれない……本当にありがとう」

「いえ、でも話しかけたらまどかちゃん、すごくしっかりしてましたよ?私にちゃんと敬語使ってたし、すみれさん、教育しっかりしてるんだなぁーってびっくりしましたもん」

「義母だからちゃんとしてないんだって周りから思われないように、礼儀にはけっこううるさくしてきたんだけど、とにかく大人しくて、勇気がない子で……。だから今回一人であんなだいそれたことして本当に驚いた」

「そうですよね……朝の通勤ラッシュの電車に一人で乗ってここまで来たんですもんね…。あんな小さい子が……」 

「向こうの…本当のお母さんはね、私が自分から出て行ったように娘に伝えてたみたいなの。一緒にいた頃私よく、『お母さんはいつも側いるわけじゃないんだから、一人でもっと何でも出来るようにならないとだめだよ』って何気なく言ってたんだけど、それを今回のことに結びつけちゃったみたい。お母さんが出て行ったのは自分がちゃんとしてなかったせいだって思い込んじゃって……。だから、私がいなくなってからは何でも一人で出来るように頑張ってたみたいなの。自分がしっかりすれば、私が帰ってきてくれるかもしれないって思ってたって……あの夜、泣きながら話してて……」

「本当にしっかりしたいい子ですね、お母さんのことが大好きな……」

「……ありがとう。あの日は、向こうの家とも話してそのままうちに泊まらせたんだけど、数ヶ月ぶりに娘といたら、本当に心の底から自分が恥ずかしくて……。この子は必死に前を向いて生きてたのに、私は後ろどころか悲しみに向き合えずに、目も耳も塞いで逃げてばっかりだったって……」

「……大人は大人で目を背けたくても背けられない現実があったりするし、深く考えちゃうからこその苦しみもあるし……逃げてしまうこともありますよ、弱いことは罪じゃないと思うし……」  

「本当に迷惑ばっかりかけたのに、そうなふうに言ってくれてありがとう……」

「でも、本当に嬉しいです、私も。すみれさんが大切なものに気づけて」

「……もうこれからはしっかりする……娘を見習って。……それでね、きみかちゃん、私のこともう『すみれさん』って呼ばなくてもいいよ」

「え?」

「さっき店長に話したんだけどね、今ちょうどバイトの子達が入れ替わる時期でしょ?これを機に、名字を本名に直そうと思って」

「本名って、帆波ほなみさんでしたよね?」

「うん。名札も名簿も直してもらって、明日からは完全に帆波に戻る。今いる子達にもちゃんとみんなにはっきり離婚したこと伝えて、これからは帆波って呼んで!ってお願いするつもり。みんななんとなく知ってるのに触れづらくてやりづらかっただろうし……」

「帆波さんか……全然違和感ないですね!」

「自分的にも帆波歴のが香坂よりずっと長いし、なんだかんだてすぐ慣れるかも。……そう、あと、私もまたきみかちゃんのこと、『尾関ちゃん』って呼ぶね?あの時は気遣ってくれてありがとう……。本当に尾関ちゃんの優しさに救われてたよ……。それを間違った方向に捉えちゃったけど、やっぱりあのどん底の時をなんとか過ごせてたのは、今でも尾関ちゃんのおかげだと思ってる」

「私なんか別に……。そう言えば、まどかちゃんとはこれからも少しは会えるんですか?」

「うん!今回のことで本旦那も奥さんもかなり参ってて。まどかを押し込めすぎたこと、反省してるみたい。あの奥さんが私の家まで来て、自分のせいでまどかを苦しめたって頭下げて謝ったの。それで、これからは3人とも、まどかのことを一番に考えようって話し合いしてね、まどかが私に会いたいって時には、止めたりしないでちゃんと会えるようにするって、向こうも約束してくれた」

「それはよかったてすね!」

「……うん、すごい心の支えになる。私もこれから頑張らなきゃって!それで実は、今すぐじゃないんだけど、少しづつこれから就職先探して、見つかり次第バイトも辞めようかと思ってるんだ……。さっきそのことも少し店長に話してたんだけど……」

「そ、そうなんですか……」

「私ね、こう見えても結婚するまでは一応会社勤めで経理やってたの」

「前に言ってましたね、元の旦那さんとも会社で出会ったって」

「うん。かなりブランクあるから難しいかもしれないけど、いくつか資格も持ってるし、やる気を武器に頑張ろうと思う!」

「……すごい!すごい行動力ですよ!すみ…じゃなくて、帆波さん!私、陰ながら応援してますね!」

「ふふ、ありがとう、尾関ちゃん……。ていうか、ずっと私の話ばっかり長々と話しちゃってごめんね?……尾関ちゃんは…その、その後奈央ちゃんとは……?」

「あーはい……。何も進展なく……。ってゆうか、店辞めちゃってから全く関わりもないし、前に話した通り連絡もするなって言われちゃってるし、そりゃ進展なんかあるわけないんですけどね」

「…………本当にごめんね」

「帆波さん、今日謝りすぎです!もういいです!大丈夫です!それに私、奈央のことあきらめたわけじゃないですから」

「……そうなの?」

「……まぁこっからどうすんだ状態ではありますけど、やっぱり今でも好きなことに変わりはないし、この先どうするかは決めてないけど、とにかくあきらめないってことは決めました!」

「……そうだよね、あきらめることなんてないよね!だって二人、相思相愛なんだもんね!」

「えっ!?なんで帆波さんがそんなこと思うんですか?!」

「あの時の、私と尾関ちゃんを見た時の奈央ちゃんの反応で……。奈央ちゃん、尾関ちゃんのことが好きだったんだ……ってあの目で分かった。……奈央ちゃんのことも私、散々苦しめちゃってたんだって気づいたけど、何も謝れないままになっちゃって……」

「実は奈央が辞めた日、私告白したんです。……そしたら、奈央も私のこと好きだって言ってくれて……」

「えっ……じゃあ……」

「でも、一緒にはいられないって……。自分の好きと私の好きは違うって言われました。だからもし一緒にいても私は他の人に優しくしたり、奈央を置いて他の人のところ行っちゃうって……。だから、もう傷つきたくないから、離れたいって……」

「…………」

「そんなことないって訴えたけど、散々そうゆうところ見せてきたし、当たり前だけど信じてもらえなくて……」

「……私に優しくしてくれたのも、ほっとけなかったのも、全部自分のためだったって、尾関ちゃん言ってたよね……?」

「……はい」

「……それってどうゆう意味だったの?」

「…………帆波さんのお家で寝ちゃって抱きついちゃったこと、こないだは『寝ぼけてた』って話しましたけど、あれ、単純に寝ぼけてなんとなく抱きついたっていうのとはちょっと違くて……。あの時帆波さん、私に毛布か何かかけてくれませんでした?」

「あ、うん……風引いちゃうと思ってかけたと思う……」

「……私がああゆう行動とるのって、そうやって寝てる時に誰かに何かをかけてもらった時なんです。そうゆう時決まって、私は夢の中でも同じ光景を見て……私に毛布をかけた人が、部屋から出て行こうとするのを必死に抱きついてとめようとする夢……。この変な体質のせいで、今までも何度かややっこしいことになったりしてきたんですけど、その時、自分は寝てるし、無意識だからどうしようもなくて。だから、予防策でなるべく人の家には泊まったりしないって決めてたんですけど、結局それも完璧に出来なくて……」

「そうだったんだね……」



 私の話は曖昧で抽象的だったけど、帆波さんにはなんとなく伝わったようだった。



「……いつか尾関ちゃんが、この人だけはずっと側にいてくれるって心から信じられる人と一緒に眠れる日が来たら、その夢を見なくなるのかもしれないね……」








 帆波さんはそれ以上、もう深くは聞いてこなかった。
















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