倉田 奈央
第55話 逃避行
……なにあれ……?
香坂さん、シャツはだけてた……
そこに尾関先輩が覆いかぶさって……
…………キスしてた……
ついこないだ私のことを抱きしめた、おんなじ場所で……
消したい……
今見たこと今すぐ消したい……
目的地もなく、とにかくあの場から出来るだけ離れられるようにまっすぐ歩いた。
えなさんのところに……
でも、葉月に行ったらもっと尾関先輩を思い出す……
でも、このまま家には帰れない……
……だめだ、どこにも行くところがない……
その時、
ブルルルルルル……
着信のバイブが鳴った。
画面を見た私は、一瞬悩んでから電話に出た。
「……もしもし」
「あっ!出てくれたー!こないだはありがとね!つき合ってくれて。でさー、ついこないだ遊んだばっかでまた早速なんだけど、来週あたりまた会える日ないかなー?」
「…………」
「あれ?もしもーし?なおちゃーん?」
「………今からは……だめですか?」
「えっ?」
「………だめならいいです」
「どこに行けばいい?」
「………こんな遅くから、本当に大丈夫なんですか…?」
「大丈夫じゃなくたって行くよ。なおちゃんから誘ってくれて断るわけないじゃん」
ガードレールに寄りかかりながら、車道を走り抜けていくヘッドライトのぼやけた光を繰り返し見ていた私のすぐ横に、タクシーが止まった。
後部座席のドアが開くと、笑顔の明さんが車から降りないまま私に手を伸ばした。
「なおちゃんお待たせ!乗って!」
「えっ……」
「どっかいこ」
この場所にいたくない気持ちを見透かしていたように、明さんは私の手を手首ごとがっしりと掴んでタクシーに乗せた。先に行き先を伝えていたのか、ドアが閉まるとすぐに車は走り出した。
「私がたまに行く店なんだけど、内装が好きでね、前からなおちゃんのこと連れて行きたかったんだよねー。そこでもいい?」
「………どこでもいいです」
あきらかに私のテンションはおかしいのに、明さんはそれに何も触れなかった。
思ったよりもタクシーを走らせてようやく目的地に着くと、そこは夜の繁華街だった。
「いこっ!」
すっと自然に手をとられてつながれた。拒否する理由もなく、手を引かれたまま夜の道を歩く。人通りの多い大通りをすぐに曲がり、少し道幅の狭い路地へと入っていく。
そこで何人もの人たちと行き交ったけど、誰一人として手をつないだ私たちに気を留める人はいなかった。そんなことに多少の違和感を感じながら、ただ明さんについて行った。
いくつもの路地をあみだくじのように曲がっては進みを繰り返しながら5、6分くらい歩くと、ようやく明さんは立ち止まった。そして、ビルに沿って縦に掲げられたいくつもの看板の中から一つを指差す。
「2階のあの店!」
紫色に光るその看板の中央には、黒い文字で「鳥かご」と書いてあった。
いかにも怪しい雰囲気にたじろいでいると、
「いかがわしいでしょー?」
と面白がるように笑う。
「大丈夫だよ!ただのバーだから」
「………ほんとに…ただのバーですか…?」
「めっちゃ疑ってくるじゃん。まー普通のバーと違って女の人しか入れないバーだけどね。それ以外は普通のバーだよ」
そう言うと、薄暗いコンクリートの階段を明さんは上がっていった。階段の横幅は狭くて
私はバーに入ること自体初めてで、こんな場所に物怖じせずにズンズンと入っていく明さんはすごく大人に見えた。
階段を上りきって2階に着くと、「ここだよ」と、全く中が見えない分厚い木の扉の前で明さんはつないだ手を離した。唐突に不安が増す。
「そんなに心配しなくても大丈夫だから。私の側にいて」
聞き覚えのあるそのセリフに、胸の痛みが再発する。
中に入ると、平日の夜にも関わらず沢山の人がいた。そして聞いていた通り、その誰もが女の人だった。
「わお!明、久しぶりじゃーん!」
入ってすぐ目の前にある囲われたスペースの中にいた店員さんらしき女の人が、明さんに話しかける。
「久しぶりー!今日けっこう人入ってるね?」
「そうなの。なんかどっかでイベントたったみたいだよ」
「へー」
ちょっとしたそんな時間もどう立っていたらいいか分からない。おどおどしながら右に長く続く店内を横目で覗いていると、左斜めにあるドリンクカウンターの方から強い視線を感じた。思わず気配の方向を見ると立ったまま一人でお酒を飲んでいる普通のお姉さんと目が合い、満面の笑みで笑いかけられた。なんとも言えない恥ずかしさで避けるように顔ごとそらし、もう一歩明さんに近づいた。
「………どした?大丈夫?」
「……はい」
「なにー?こんな可愛い子連れて。彼女?」
店員さんが明さんに尋ねた。
「今は違うけど、狙ってる子。なおちゃん!めっちゃ可愛いでしょ?」
そんな紹介の仕方しないでほしい……
明さんのせいで私の首はさらに下を向いた。
「なおちゃん、厄介な女に捕まったねー。気をつけなよー?」
「ミクに言われたくないわ!」
数秒前に会ったばかりの人に馴れ馴れしく下の名前で呼ばれる。緊張でガチガチなはずなのに、そんな非日常感は不思議と私の心を少しだけ軽くした。
入口を抜けて奥へ進むと中は入口よりもさらに暗くて、少し話しづらいくらいのボリュームで聴き慣れない音楽が流れていた。
ひとつなぎの細長めな空間の両壁には、オフホワイトの色をしたかまくらみたいなものが間を開けていくつかあった。
そこには人一人が横向きにならないと入れないような隙間が開いていて、その中が席になっているらしかった。
「おもしろいでしょ?だから『鳥かご』なの」
店名の由来を教えられて素直に「なるほど」と口にした。
「ここ入ってて。飲みもの持ってくる。何飲む?」
明さんさゆっくりと歩きながら誰も入っていない一つを選び、その隙間の前で私に飲みものを聞いた。そこで今さらながらのことに気づく。
「そう言えば、私未成年ですけどいいんですか?こんなとこ入って…」
「へーき!へーき!知り合いの店だし、正直このへんけっこうそんな感じだから」
「そうなんですね……」
「どうする?アルコールがいいよね?」
「……はい」
「何がいい?ここ、大抵何でもあるよ」
「………何でもいいです。強めのなら……」
「わかった!」
私の曖昧すぎる要望を明さんはすんなり受け止めて、バーテンさんのいるカウンターへと向かった。一人になった私は、逃げるように恐る恐る隙間の中から鳥かごへと入った。
入ってみると想像よりも広くて、観覧車くらいのスペースがあった。テーブルのとイスはコーヒーカップのように繋がった作りになっていて、つめて座れば4人は座れそうだった。
天井にはオシャレなアジア雑貨屋さんで売られていそうな、カラフルなガラスが不規則にツギハギされたカバーの照明がぶら下がっていて、そこから漏れる温かいオレンジの光が、鳥かごの中の丸い空間をやんわり照らしてくれていた。
思ったよりも全然いかがわしくはなく、とりあえず安心はした。やることがなく、しばらくただ座って待っていると、両手にグラスを持った明さんが慣れた動きで上手に隙間をすり抜け、テーブルを挟んで向かい合うようにして座った。
「はい!私と同じカクテルにしたよ。ご希望通り強めの」
色も名前も知らないお酒を出されたけど、それが何かは聞かなかった。
「……ありがとうございます」
乾杯をして一口飲むと、複雑な香りが混ざりあった味がした。決しておいしいとは思えなかったけど、なぜかその方が良かった。
「どう?この店気に入った?」
「…はい。何もかもが初めてな感じで…驚いてばっかりですけど……」
「初めてなことってワクワクしない?私、知らないとこ行ったり、やったことないことするのすごい好きなんだよね。この店も、名前がおもしろいなって思って入ってみたのがきっかけで、そこからちょこちょこ通うようになったの」
「初めて入った時って、一人で…ですか?」
「そうだよ」
「……明さんてすごいですね…。私、そんなの絶対無理です…。今日連れてきてもらって中知ったけど、それでも一人じゃ絶対来れないです…。本当に行動力ありますよね。怖いって思うこととかないんですか?」
「私だって全然怖いよ?何も感じないサイボーグなわけじゃないし!ここに初めて入った時だってちょービビリながら扉開けたしね。…でも怖いことって大体やってみた後は大したことなかったなって思うことのが多くない?だからその初めての怖さを超えちゃえば、その先には新しい楽しみとか幸せが待ってる気がするんだよねー」
「………明さんといると、いつも眩しいって感じます。本当に名前の通りですね。明るくて太陽みたいで…」
「なおちゃんにそんなこと言われたら舞い上がっちゃうなー」
明さんは嬉しそうにカクテルをまた一口飲んだ。
「……今日も、私がこんなんだから連れてきてくれたんですよね…?気が紛れるようなところに……」
「…………」
「………気づいてると思いますけど……今日、私……辛いことがあって……」
「……話したくなかったら聞かないし、話したかったらなんでも聞くよ」
落ち着いた声で穏やかにやさしく微笑んでくれて、閉じきっていた心の扉が少しだけ開く。
私は大きく息を吸って、少しづつゆっくり吐いた。言葉にするにはその一呼吸が必要だった。その間も明さんは何も言わずに黙って待っていてくれた。
「………尾関先輩がキスしてたんです……。同じバイト仲間の、私もよく知ってる人と……。その人のことは好きとかじゃないって……言ってたのに……」
「………そっか」
「私、本当に訳が分からなくて……どうして好きじゃない人とそんなこと……」
「単純に性欲とか?」
「えっ……」
「好きじゃないって言うのが本当なら、それしかなくない?一緒にいて、我慢出来なくなっちゃったんじゃない?」
「そんな……だって、菜々未さんとだって何ヶ月も付き合ってて何もしなかったのに……そうなんですよね?!明さんそう言ってましたよね?!」
「結果的には何もなかったけど、何もしようとしなかったわけじゃないらしいよ」
「え?……」
「手出したけど、拒まれたからやめたってきみかさん言ってたもん。だから、相手が拒まなければ、そうゆう気は普通にあるんじゃないかな?そうゆう年頃だし」
「……そうだったんだ…やっぱり先輩ってそうなんですね…」
お見舞いに行った時、耳もとで聞いた先輩の話を思い出した。香坂さんを抱きしめたのは無意識だったなんて言ってたけど、それも無意識な性欲なのかもしれない…。
しばらく一時停止していたさっき見たあの映像が、また頭の中で勝手に再生を始めた。しかもリピートで延々と流れ続ける。
「なおちゃん、そんなにきみかさん好きなんだ?……そんな風に声も出さないで泣いちゃうほど」
その言葉で、自分の目から涙がこぼれていることに気づいた。明さんはリング状のイスの上を滑るようにしてそんな私のすぐ隣まで来ると、背中に温かい左手を当てた。
「可哀想ななおちゃん…。ここなら外にも聞こえないし、思いっきり泣いていいよ。胸の中に無理矢理閉じ込めて苦しくならなくていいから……」
そう言われた瞬間、自分の体の中だけじゃ抱えきれなかった思いがさらに涙と声になって溢れ出た。
「………どうして……どうしてあんなこと……」
その時、ふと顔を上げたわずかな隙間の先に、店の片隅で隠れるようにキスをする知らない女の人二人の姿が目に入った。
思わず見入る私に明さんが気づく。
「あの二人も、きっと付き合ってるわけじゃないと思うよ。雰囲気からして今日この辺のイベントで出会ったばっかりなんじゃないかな」
「……この街で飲んでる人たちって…みんなそうなんですか…?」
「そんなことないよ、みんながみんなそんなんじゃないけど。…でも、そうゆう人も確かに沢山いる。特別珍しいってわけでもないかもね」
「……私には分かりません……。好きじゃないのにあんなこと……。好きな人がいるのに、好きでもない別の人とキスするって……どんな気持ちなんですか?」
私は明さんに八つ当たりをするようにぶつけた。すると、明さんは私の背中に置いていた左手をゆっくりと腰の低さまで下ろし、右手の指先で耳と頬にやさしく触れた。
「……してみたら分かるかもよ」
言わなくても分かるくらい私を欲しそうに見つめる瞳のせいで、瞬きが出来ない……
「……なおちゃんも好きじゃない人としてみる?」
「…………」
固まったまま唇の内側を噛んだ。
「……もしかしてなおちゃん、キスもしたことないの……?」
「……………ないです…」
私が正直な告白をすると、目よりもそのもっと奥を見るように、明さんの目つきがまた少し変わった。
「……きみかさんのこと、忘れさせるのは無理でも、紛らわせてあげる……」
すでに近いのにもっとその瞳が近づいて来て、体が鎖に繋がれたように動けなくなった。もう唇が触れる………そう思ったその瞬間、明さんはピタっとそこで止まった。
「やだって言って?じゃないと本当にしちゃうから……」
最後のチャンスをくれた明さんのことを、私は黙ってただ見つめた。
「………本当にかわいい……大好きだよ……なおちゃん……」
明さんは心も体も何もかも全てを包み込むようにやわらかく抱きながら、涙を流したままの私にやさしいキスをした。
初めてのキスをしながら頭の中に浮かんでいたのは、香坂さんとキスをする尾関先輩の横顔だった……
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